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払う人

 県庁を出たところで、郁が電話を掛け始めた。

 駐車場の隅で、十分ほど話していた。戻ってきたとき、彼女は自分の携帯を見ていた。

「加納さん。私、明日、本部に行く」

「何をしに」

「上申書を出す」

「前回、謹慎になりました」

「今度は一人じゃない」

 彼女は画面をこちらに向けた。

 メッセージのやり取りが並んでいた。相手の名前が、いくつも。

「A級は国内に三十八人いる。そのうち十一人と、さっき話した」

「十一人」

「私が四年前、新宿の第七層で助けた班の人が、今、九州支部にいるの」

 郁は携帯を閉じた。

「その人が、三人集めた。その三人が、七人集めた」

「何を書くんですか」

「事実だけ」

 彼女は車のドアに手をかけた。

「志渡町に三万個ある。加納防除サービスが一億一千二百四十万で二十二日と見積もった。予算科目がないので誰も払わない。四十日で孵る。以上」

「それだけですか」

「それだけ。書いたら、あとは向こうの仕事よ」

 彼女は少し笑った。

「私、報告書を書くのが下手なの。だから、短くする」

 上申書が本部に着いたのは、翌日の午前だった。

 連名は、十一人では終わらなかった。

 その日の夕方までに十九人になり、翌朝には二十七人になっていた。

 国内のA級三十八人のうち、二十七人。

 郁はそれを、事務所のテーブルで数えていた。

「加納さん。これ、たぶん本部は困ってる」

「困るんですか」

「A級の三分の二が同じ紙に名前を書くのは、三十年で初めてよ」

 彼女は名前の一覧を、指でなぞった。

「半分は、会ったこともない人」

「なぜ書いたんでしょうね」

「……たぶん、みんな、一回は同じ現場を見てるの」

 彼女は紙を伏せた。

「掃討完了って書いて、次の月にまた出た現場を」


 すずは、その夜、矢代教授に電話をかけた。

 二時間話していた。切ったあと、彼女は事務所のホワイトボードに、名前を十六個書いた。

「加納さん。学会誌、来月号に速報が載ります」

「間に合いますか」

「間に合いません」

 彼女はマーカーを置いた。

「なので、先生が、国立研究所の名前で緊急提言を出します。三十一年前の中間報告と、今回の観測データを並べて」

「先生は、退官されました」

「名誉教授です。肩書きは残ってます」

 すずは名前の列を指した。

「それと、この十六人。三十一年前の調査に関わった研究者と、その弟子です。先生が全員に電話しました」

「全員?」

「全員です。八十六歳の人もいました」

 彼女はマーカーを握り直した。

「加納さん。学会って、何も動かせないんです。予算も付けられないし、人も出せない」

「そうですか」

「でも、『三十一年前に報告があった』とだけは、言えます」

 彼女は自分の書いた名前を見ていた。

「それを言える人が、十六人います」

 すずは、その十六人に、一人ずつ電話をかけた。

 二晩かかった。

 八十六歳の人は、耳が遠かった。彼女は同じ説明を三回した。三回目の途中で、相手が言ったそうだ。

 ——大隅くんの、あの調査かね。

「加納さん、その人、覚えてたんです」

 彼女は受話器を置いたまま、しばらく動かなかった。

「三十一年前の、誰も読まなかった中間報告を、覚えてる人がいるんです」

「いましたね」

「記録って、こういうことですか」

「こういうことです」

 すずは鼻をすすって、次の番号を押した。


 久住から連絡が来たのは、その二日後だった。

「加納さん。深沢和樹の件、うちで立てます」

「立てる」

「傷害致死で。管轄の問題は、本庁が引き取りました」

「動いたんですか」

「動きました」

 彼の声が、少し疲れていた。

「正直に言うと、私が上げ続けた書類は、四回止まりました」

「五回目ですか」

「五回目です」

「よく通りましたね」

「通ったんじゃないです。外が騒ぎ始めたので、上が通さざるを得なくなった」

 彼は少し黙った。

「学会の先生方が、昨日、記者会見をされたそうで」

「聞いてないです」

「加納さん、新聞をお読みにならないんですか」

「読む時間がないです」

 久住は電話の向こうで、少し黙った。

「加納さん。実は、うちの姉が」

「床下の」

「そうです。あれから、虫を見なくなったと言ってます」

「よかったです」

「それで、姉が加納さんにお礼をしたいと」

「結構です」

「私も結構だと言ったんですが、もう送ったそうで」

「何をです」

「ゴキブリ用の殺虫剤を、六本」

 私は受話器を持ち替えた。

「……うち、業務用があります」

「言いました。言ったんですが、『いいものを選んだ』と」


 鵜飼が自首したのは、その週の金曜だった。


 私はそれを、事務所のテレビで見た。

 映像は短かった。支部のロビーを歩いて、車に乗るまでの十秒ほど。手錠はかかっていなかった。

 彼は一度だけカメラのほうを見て、何も言わなかった。

 夕方、久住から電話があった。

「加納さん。供述が取れました。まだ全部ではないですが、一つだけ、あなたに先に言っておきます」

「はい」

「深沢和樹を運んだ人間の名前が出ました」

 私は手帳を開いた。

「郷田稔。五十六歳。元A級冒険者です」

「元」

「十年前に引退しています。それから今まで、勤め先は一つだけ」

 久住が紙をめくる音がした。

「千葉県志渡町 立入制限区域 現地管理人」

 私は手帳から顔を上げた。

 郁が壁から背を離した。

「……管理人?」

「柵の補修と、カメラの点検をする人です。年間千二百万の予算のうち、人件費はその人の分だけです」

 私は言った。

「三十年、あの町に毎日入ってる人間が、一人だけいます」


 その夜、私は志渡町の地図をもう一度見た。

 三万個の分布は、県のカメラと赤外のデータから推定してある。

 北の集落から、南へ。下水の本管に沿って。

 父が三十一年前に打った赤い点と、ほとんど同じ場所だ。

 ただし、一か所だけ違った。

 町の中央より少し南、坂の上に、点がない。

 その周りは真っ赤なのに、そこだけ白い。

「加納さん。この白いところ、何かありますか」

 すずが覗き込んだ。

「商店と、床屋と、うちです」

「なんで、ここだけ湧いてないんですか」

「わからないです」

 私は地図を畳んだ。

 わからない、と言ったのは、本当だった。


 月曜の朝、国の迷宮対策室から電話が来た。

 担当者の声が、金曜とは別人のようだった。

「加納さん。本日付で、迷宮対策予備費からの支出が決裁されました」

「予備費」

「災害対応の枠です。新しい科目を作らずに、既存の枠から出します」

「そんなことができるんですか」

「本来はできません」

 彼は言葉を選んでいた。

「委員会の名誉顧問が、昨日、一人で来られまして」

 私は椅子に座った。

「樫村先生です。三十一年前の回答文書を持っておられました。ご自分の決裁印が押してあるやつです」

「何と言われました」

「『この紙を書いたのは私だ。だから、この枠は私が通す』と」

 電話の向こうで、紙をめくる音がした。

「それと、加納さんへの伝言をお預かりしています」

「はい」

「『調べなかったぶんの利息だと思ってください』」

 私は窓の外を見た。

 軽バンに、剥がしていない文字が貼ってある。

 冒険者ギルド関東支部 指定業者。

 嘘のままだ。

「担当さん」

「はい」

「着手は、いつからですか」

「明日からで結構です」

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