第9話 隣の距離
翌朝の第三隊訓練場は、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
剣が触れ合う乾いた金属音は普段通り響いているはずなのに、騎士たちの視線だけが妙にそわそわと揺れている。
「隊長、顔が違います」
「昨日、何かありましたよね」
「絶対ありました」
遠慮のない声が次々と投げられる。
カイルは小さく息を吐いた。
「仕事をしろ」
低く落とされた声は、普段よりわずかに柔らかかった。
騎士たちは互いに視線を交わし、誰からともなく小さく頷き合う。
そのとき、訓練場の入口で金色が揺れた。
「おはようございます、隊長」
リリアーナだった。
昨日と同じように微笑んでいる。
けれど、今日の笑みには、昨日までとは違う色が混ざっていた。
ただ柔らかいだけではない。
まっすぐ前を見据え、背筋を伸ばし、静かな覚悟を胸に抱いたまま立っている。
守られるだけの存在ではなく、自分の意思でこの場所に来たのだと示すような、確かな強さを宿した立ち姿だった。
カイルの視線が、ほんのわずかに揺れる。
その一瞬を、周囲の騎士たちは見逃さなかった。
誰かが小さく息を呑み、誰かが心の中で呟く。
──これはもう、確定だ。
◇
「少し、お時間をいただけます?」
リリアーナが静かに言った。
二人は訓練場の端へと歩く。
昨日まではほんのわずかに残っていた距離が、今日はほとんど消えていた。
肩が触れてしまいそうなほど近い。
朝の光は柔らかく、石畳の上を静かに撫でるように流れている。
先に口を開いたのはカイルだった。
「……昨夜のことは」
「覚えていますわ」
迷いのない返答だった。
あまりの速さに、カイルの耳がわずかに赤く染まる。
「俺は、あなたを正式に守る立場になる」
言葉を選ぶように、慎重に続けた。
それは宣言というより、自分自身に言い聞かせるための言葉にも似ていた。
リリアーナは小さく笑う。
「今さらですわね」
「今さら?」
「ずっと守ってくださっていたではありませんか」
祭りの日、暴走した馬から助けられた瞬間。
訓練場の端で静かに向けられていた視線。
すべて覚えている。
カイルは言葉を失った。
リリアーナは少しだけ悪戯っぽく目を細める。
「ですが……守られるだけのつもりはありません」
「……は?」
「私も、あなたを守ります」
一歩近づいてそう告げる。
冗談ではない。
真剣そのものの声だった。
「危険な目に遭えば駆けつけますし、噂が立てば堂々と否定します」
さらに一歩近づくと、ほとんど距離は残っていない。
「あなたが弱るときは、隣にいます」
心臓がうるさいのは、カイルの方だった。
「俺は男だ」
「知っています」
「隊長だ」
「知っています」
「平民だ」
「知っています」
三度即答したあと、リリアーナは静かに言った。
「好きなんです」
まっすぐに、迷いのない声だった。
朝の光が、石畳の上に柔らかく落ちている。
静かな光の粒が空気の中に溶け込むように揺れ、その中へ、彼女の言葉だけが静かに沈んでいく。
覚悟を含んだまま、逃げ道を作らないその響きは、軽い約束ではなかった。
本気で、隣に立つと決めた意思そのものだった。
それは、言葉よりも強く、沈黙よりも確かな約束だった。
カイルの手が、ゆっくりと伸びた。
今度は迷わなかった。
指先が、彼女の手に触れる。
確かめるような、慎重な動きだった。
逃げられることを恐れるようでもあり、それでも覚悟を決めた静かな意志を含んだ動きでもあった。
指が触れた瞬間、わずかに力が込められ握られた。
硬く、不器用で、騎士らしく少し無骨な手だった。
けれどその手は、誰よりもまっすぐに、守ると決めた温度を伝えていた。
それを、リリアーナは強く握り返した。
「こういうことは……人前では控えた方がいい」
「では……」
カイルが低く言ったが、それに対してリリアーナはくすりと笑った。
「人のいないところへ?」
リリアーナが、わずかに首を傾げる。
沈黙が、静かに落ちた。
訓練場を吹き抜ける朝の風は穏やかだったが、なぜかその一瞬だけ、空気が少し重くなったように感じられた。
剣が触れ合う音も、騎士たちの息遣いも、遠くに押し流されたように小さくなる。
第三隊の騎士たちは、遠巻きにその様子を見守りながら、誰も声を上げなかった。
誰かが小さく肩を震わせた。
誰かが、そっと視線を逸らした。
──触れてはいけないものを見てしまったような。
──それでも目を離せないような。
そんな静かな緊張だけが、訓練場の端に残っていた。
◇
訓練後、別れ際。
「次はいつ会えます?」
「……毎日来ているだろう」
「恋人として、です」
その一言は、静かに破壊力を持っていた。
カイルは視線を逸らす。
「……明日の夕刻。王都の外れの小さな丘で」
「はい」
花が開くように笑った。
どうして、こんな顔ができるのか。
どうして自分の理性は、こんなにも簡単に溶かされてしまうのか。
「隊長」
名前を呼ばれ、カイルはゆっくりと振り返った。
その瞬間、リリアーナは小さくつま先立ちになる。
二人の距離が、静かに、しかし確かに縮まっていく。
唇は触れない。
それでも、吐息がかすかに触れてしまいそうなほど近い場所で、互いの存在だけがやわらかく満ちていた。
視線が絡まり、朝の光の中で時間だけが静かに止まったように感じられる。
「覚悟してくださいませ」
にこりと、リリアーナは静かに笑った。
その笑顔を見た瞬間、カイルは、抗いようのない形で敗北を悟った。
完全に、そして静かに。
◇
恋人。
その言葉は、カイルの胸の奥に静かに重みを残した。
けれど不思議と、不快ではなかった。
むしろ、誇らしいとすら思えた。
守ると言ったはずなのに、もしかすると本当に守られているのは自分の方なのかもしれないと、そんな考えが胸の奥をよぎっていた。
あの強さ。
まっすぐに向けられる視線。
手を握ったときに伝わった、温もりの感触。
離したくないと、初めて思った。
本気でそう思ってしまった自分に、カイルは静かに息を吐いた。
明日の王都の外れの小さな丘。
……人の気配の少ない静かな場所だ。
理性がどこまで持つのか、自分でも分からなかった。
それでも、もう止めるつもりはなかった。
──その先に、何が待っていようとも。
ただ一つだけ願うものがある。
あの手をもう二度と、離さないことだった。




