第8話 白か黒か
三日間、リリアーナは訓練場に姿を現さなかった。
第三隊の詰所は、妙に静かだった。
訓練の掛け声も、剣がぶつかり合う金属音も、どこか遠くに聞こえるようだった。
いつもなら聞こえていた足音や笑い声がないだけで、空間が少しだけ空虚に感じられる。
「……隊長、元気出してください」
「出している」
ラルクの言葉に短く返したが、周囲の騎士たちは同時に思った。
——出ていない。
明らかに、まったく出ていない。
胸の奥に残る静けさが、妙に重く沈んでいた。
剣を握る手に力が入らないわけではない。
だが、何かが欠けたような違和感だけが、静かに心の奥に残り続けていた。
◇
四日目の夜。
訓練場の片隅に、ひとつの影があった。
昼間の喧騒はすでに消え、石畳の上を夜風がゆっくりと滑っていく。
灯りの少ない訓練場は、静かで、どこか時間が止まったような空気を纏っていた。
そのときだった。
「こんばんは、隊長」
声が聞こえた瞬間、カイルは呼吸を止めた。
ゆっくり振り返ると、そこに立っていたのは、リリアーナだった。
短くまとめられた金色の髪が、夜風に揺れている。
以前より、少しだけまっすぐ前を向いている瞳だった。
「……ここは立ち入りを」
言いかけた言葉を遮るように、彼女が口を開く。
「昼間は来ないと約束しましたから。……夜にお邪魔しています」
そう言って、リリアーナは静かに一歩、彼へ近づいた。
夜風が、短くまとめられた金色の髪をやわらかく揺らす。
訓練場には、もう人の気配はない。
石畳を滑る風の音だけが、静かに、二人の間を満たしていた。
理屈としてはおかしい。
昼に来ないと約束したから夜に来るというのは、子どもの言い訳のようにも聞こえる。
それでも、その声音には迷いがなかった。
逃げるつもりも、引くつもりもない。
まっすぐに前を見つめる瞳は、たとえ拒まれても立ち止まる覚悟を静かに宿していた。
ただ、隣にいたい。
その想いだけを、静かに抱いて立っているようだった。
「どうして来た」
「泣きに来たわけではありません」
カイルが問いかけると、リリアーナはまっすぐに彼を見たままはっきりと答えた。
夜風が、金色の髪を静かに揺らしている。
「確認しに来ました」
カイルの喉が、わずかに動く。
「……来ないでください、と言いましたわよね」
「ああ」
それだけの言葉なのに、胸の奥に沈むものがあった。
「それは、私が嫌いだからですか?」
問いは静かだった。
責める響きはない。
ただ、答えを待つ声だった。
カイルは一度、目を伏せる。
「違う」
短く、しかし迷いなく答えた。
沈黙が落ち、夜風だけが二人の間をゆっくりと流れていた。
リリアーナの瞳が、わずかに揺れる。
「では、好きではないから?」
その言葉は、静かに胸の奥へ刺さった。
カイルは視線を落とした。
「……立場が違う」
「それは理由になりません。私はあなたに聞いています」
迷いのない声で言い切り、一歩、また一歩と近づいていく。
もう距離は、ほとんど残っていなかった。
「好きか、嫌いか」
強く、しかし静かな問いだった。
逃げ道を許さない声。
それでも責める色はなく、ただ真っ直ぐに答えを求めている響きがあった。
「白か黒か、はっきりしてください」
夜風が、金色の髪をゆっくりと撫でるように揺らした。
石畳の上を滑る風の音だけが、静かに二人の間を満たしていた。
カイルの拳が、静かに、わずかに震えた。
「俺は——」
言葉が喉の奥で止まる。
分かっていた。
好きだと。
とっくに気づいていた。
それでも、その一言を口にしてしまえば、彼女を巻き込んでしまう気がした。
守るはずだったものを、壊してしまうのではないか。
そう思うほどに、胸の奥が静かに軋んでいた。
「私は——好きです」
リリアーナの声は、静かだった。
「あなたが平民でも。騎士隊長でも。どんな立場でも」
それは、迷いながら選んだ言葉ではなかった。
迷うことさえ、もうしないと決めた言葉だった。
「どうして一緒にいるだけで笑ってしまうのか。どうしてあなたの前だけ、こんな顔になるのか」
胸の奥から、想いがこぼれていく。
一歩、彼の胸元まで近づく。
「答えは、もう出ています」
見上げる瞳は、まっすぐだった。
揺らぎも、迷いもなく。
ただ静かに、答えを待っている視線だった。
「あなたは?」
問いかけが落ちた瞬間、世界の音が遠のいたような錯覚があった。
夜風が石畳を撫でる音も。
遠くで揺れる灯りの気配も。
すべてが、静かに止まっていく。
カイルの理性が、ゆっくりと崩れていく感覚があった。
言葉を飲み込むたびに、胸の奥が軋む。
「……いいえ、と言えるほど……俺は、強くない」
掠れた声で溢れた言葉に、否定の色はなかった。
拒む意思は、そこにはなかった。
リリアーナの瞳が、大きく見開かれる。
次の瞬間、カイルの手が彼女の手首をそっと掴んだ。
触れた指先の温度が、現実と想いを繋ぎ止めるように、静かに伝わってくる。
もう、逃げられない距離だった。
「だが、簡単に笑っていられる道ではない」
低く落ちた声は、わずかに熱を帯びていた。
それは拒絶ではないが、軽い覚悟では進めないという、静かな警告だった。
「望むところです」
即答だった。
迷いは、どこにもなかった。
その言葉に、カイルの喉から小さく息が漏れるような笑いが零れた。
「……あなたは、本当に強い」
「好きな人の前だけですわ」
甘く返された声は、まっすぐで少しだけ無防備な響きだった。
夜の静けさの中で、その言葉だけが、ゆっくりと二人の間に沈んでいった。
熱を帯びた想いも。
迷いも。
覚悟も。
すべてが否定されることなく、静かに受け止められたまま、夜の空気に溶けていくようだった。
カイルはゆっくりと彼女を引き寄せた。
距離が消え、額が軽く触れ合う。
「後悔させるかもしれない」
「させません」
「泣かせるかもしれない」
「泣きません」
「……俺のほうが、泣くかもしれない」
一瞬だけ、リリアーナが笑った。
「では、そのときは慰めて差し上げます」
小さく、苦笑が零れた。
「……好きだ」
ようやく、声に出た。
リリアーナの表情が、ぱっと花が開くように明るくなる。
「はい、聞きました」
「ずるいな」
「ええ、知っています」
静かで、甘い夜だった。
◇◇◇
三日間、訓練場は静かだった。
あの笑顔がないだけで、世界の色が少しだけ薄くなったような気がした。
来ないでほしいと願ったのは、本当に彼女のためだった。
噂に巻き込むわけにはいかなかった。
傷つくのは、きっと彼女の方だと思っていたから。
だが、本当は違う。
来てほしかった。
近くにいたいという感情は、消そうとしても消えなかった。
夜の訓練場に現れた彼女は、泣き顔ではなかった。
覚悟を宿した、まっすぐな目をしていた。
逃げ道を塞いだのは彼女だった。
それでも最後に選んだのは、自分だった。
すべてから、あの笑顔を守りたかった。
——もう、離せない。
胸の奥で、抑えていた感情が静かにほどけていく音がした。
守ることと、近づきたいという思いが、もう分けられない場所まで来てしまったことを、カイルは初めて受け入れた。




