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白黒つけましょう?〜侯爵令嬢は平民騎士隊長を絶対に諦めない〜  作者: はな
出会い編

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第8話 白か黒か



 三日間、リリアーナは訓練場に姿を現さなかった。


 第三隊の詰所は、妙に静かだった。

 訓練の掛け声も、剣がぶつかり合う金属音も、どこか遠くに聞こえるようだった。


 いつもなら聞こえていた足音や笑い声がないだけで、空間が少しだけ空虚に感じられる。


「……隊長、元気出してください」

「出している」


 ラルクの言葉に短く返したが、周囲の騎士たちは同時に思った。


 ——出ていない。


 明らかに、まったく出ていない。

 胸の奥に残る静けさが、妙に重く沈んでいた。


 剣を握る手に力が入らないわけではない。


 だが、何かが欠けたような違和感だけが、静かに心の奥に残り続けていた。



 四日目の夜。


 訓練場の片隅に、ひとつの影があった。


 昼間の喧騒はすでに消え、石畳の上を夜風がゆっくりと滑っていく。


 灯りの少ない訓練場は、静かで、どこか時間が止まったような空気を纏っていた。


 そのときだった。


「こんばんは、隊長」


 声が聞こえた瞬間、カイルは呼吸を止めた。


 ゆっくり振り返ると、そこに立っていたのは、リリアーナだった。


 短くまとめられた金色の髪が、夜風に揺れている。

 以前より、少しだけまっすぐ前を向いている瞳だった。


「……ここは立ち入りを」


 言いかけた言葉を遮るように、彼女が口を開く。


「昼間は来ないと約束しましたから。……夜にお邪魔しています」


 そう言って、リリアーナは静かに一歩、彼へ近づいた。


 夜風が、短くまとめられた金色の髪をやわらかく揺らす。


 訓練場には、もう人の気配はない。

 石畳を滑る風の音だけが、静かに、二人の間を満たしていた。


 理屈としてはおかしい。

 昼に来ないと約束したから夜に来るというのは、子どもの言い訳のようにも聞こえる。


 それでも、その声音には迷いがなかった。

 逃げるつもりも、引くつもりもない。


 まっすぐに前を見つめる瞳は、たとえ拒まれても立ち止まる覚悟を静かに宿していた。


 ただ、隣にいたい。

 その想いだけを、静かに抱いて立っているようだった。


「どうして来た」

「泣きに来たわけではありません」


 カイルが問いかけると、リリアーナはまっすぐに彼を見たままはっきりと答えた。

 夜風が、金色の髪を静かに揺らしている。


「確認しに来ました」


カイルの喉が、わずかに動く。


「……来ないでください、と言いましたわよね」

「ああ」


 それだけの言葉なのに、胸の奥に沈むものがあった。


「それは、私が嫌いだからですか?」


 問いは静かだった。

 責める響きはない。

 ただ、答えを待つ声だった。


 カイルは一度、目を伏せる。


「違う」


 短く、しかし迷いなく答えた。

 沈黙が落ち、夜風だけが二人の間をゆっくりと流れていた。


 リリアーナの瞳が、わずかに揺れる。


「では、好きではないから?」


その言葉は、静かに胸の奥へ刺さった。


カイルは視線を落とした。


「……立場が違う」

「それは理由になりません。私はあなたに聞いています」


 迷いのない声で言い切り、一歩、また一歩と近づいていく。

 もう距離は、ほとんど残っていなかった。


「好きか、嫌いか」


 強く、しかし静かな問いだった。


 逃げ道を許さない声。

 それでも責める色はなく、ただ真っ直ぐに答えを求めている響きがあった。


「白か黒か、はっきりしてください」


 夜風が、金色の髪をゆっくりと撫でるように揺らした。

 石畳の上を滑る風の音だけが、静かに二人の間を満たしていた。


 カイルの拳が、静かに、わずかに震えた。


「俺は——」


 言葉が喉の奥で止まる。


 分かっていた。


 好きだと。


 とっくに気づいていた。


 それでも、その一言を口にしてしまえば、彼女を巻き込んでしまう気がした。


 守るはずだったものを、壊してしまうのではないか。

 そう思うほどに、胸の奥が静かに軋んでいた。


「私は——好きです」


 リリアーナの声は、静かだった。


「あなたが平民でも。騎士隊長でも。どんな立場でも」


 それは、迷いながら選んだ言葉ではなかった。

 迷うことさえ、もうしないと決めた言葉だった。


「どうして一緒にいるだけで笑ってしまうのか。どうしてあなたの前だけ、こんな顔になるのか」


 胸の奥から、想いがこぼれていく。

 一歩、彼の胸元まで近づく。


「答えは、もう出ています」


 見上げる瞳は、まっすぐだった。

 揺らぎも、迷いもなく。

 ただ静かに、答えを待っている視線だった。


「あなたは?」


 問いかけが落ちた瞬間、世界の音が遠のいたような錯覚があった。


 夜風が石畳を撫でる音も。

 遠くで揺れる灯りの気配も。


 すべてが、静かに止まっていく。


 カイルの理性が、ゆっくりと崩れていく感覚があった。

 言葉を飲み込むたびに、胸の奥が軋む。


「……いいえ、と言えるほど……俺は、強くない」


 掠れた声で溢れた言葉に、否定の色はなかった。

 拒む意思は、そこにはなかった。


 リリアーナの瞳が、大きく見開かれる。


 次の瞬間、カイルの手が彼女の手首をそっと掴んだ。

 触れた指先の温度が、現実と想いを繋ぎ止めるように、静かに伝わってくる。

 もう、逃げられない距離だった。


「だが、簡単に笑っていられる道ではない」


 低く落ちた声は、わずかに熱を帯びていた。

 それは拒絶ではないが、軽い覚悟では進めないという、静かな警告だった。


「望むところです」


 即答だった。

 迷いは、どこにもなかった。


 その言葉に、カイルの喉から小さく息が漏れるような笑いが零れた。


「……あなたは、本当に強い」

「好きな人の前だけですわ」


 甘く返された声は、まっすぐで少しだけ無防備な響きだった。


  夜の静けさの中で、その言葉だけが、ゆっくりと二人の間に沈んでいった。


 熱を帯びた想いも。

 迷いも。

 覚悟も。


 すべてが否定されることなく、静かに受け止められたまま、夜の空気に溶けていくようだった。


 カイルはゆっくりと彼女を引き寄せた。

 距離が消え、額が軽く触れ合う。


「後悔させるかもしれない」

「させません」

「泣かせるかもしれない」

「泣きません」

「……俺のほうが、泣くかもしれない」


 一瞬だけ、リリアーナが笑った。


「では、そのときは慰めて差し上げます」


 小さく、苦笑が零れた。


「……好きだ」


 ようやく、声に出た。


 リリアーナの表情が、ぱっと花が開くように明るくなる。


「はい、聞きました」

「ずるいな」

「ええ、知っています」


 静かで、甘い夜だった。


 ◇◇◇



 三日間、訓練場は静かだった。


 あの笑顔がないだけで、世界の色が少しだけ薄くなったような気がした。


 来ないでほしいと願ったのは、本当に彼女のためだった。

 噂に巻き込むわけにはいかなかった。

 傷つくのは、きっと彼女の方だと思っていたから。


 だが、本当は違う。


 来てほしかった。

 近くにいたいという感情は、消そうとしても消えなかった。


 夜の訓練場に現れた彼女は、泣き顔ではなかった。

 覚悟を宿した、まっすぐな目をしていた。


 逃げ道を塞いだのは彼女だった。

 それでも最後に選んだのは、自分だった。


 すべてから、あの笑顔を守りたかった。


 ——もう、離せない。


 胸の奥で、抑えていた感情が静かにほどけていく音がした。


 守ることと、近づきたいという思いが、もう分けられない場所まで来てしまったことを、カイルは初めて受け入れた。




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