第7話 線を引く人
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
カイルは、侯爵家の応接間に静かに立っていた。
磨き込まれた床に淡く光が反射し、窓から差し込む午後の光が室内を柔らかく満たしている。
向かいに座る侯爵、リリアーナの父は穏やかな表情を浮かべていたが、その瞳の奥には騎士としての観察眼の鋭さが静かに宿っていた。
侯爵は、しばらく何も言わなかった。
責める様子も、試す様子もない。
ただ静かに、目の前の若い騎士を見ていた。
立場も、過去も、未来も。
すべてを量るような視線だった。
「……呼び出してすまないね。娘が世話になっているそうで」
「いえ。こちらこそ、至らぬ点が多く申し訳ありません」
短いやり取りだったが、その一言一言には無言の圧が含まれていた。
だが、静かに現実を伝えようとしている。
「……噂になっている」
低く落ちた言葉に、カイルの背筋がわずかに張った。
「あの子はまだ若い。無邪気なところがある。……だが世間は、そういうものを優しくは見ない」
責める言葉ではなかった。
ただ、理解してほしいという静かな警告だった。
カイルはゆっくりと息を整え、深く頭を下げた。
「承知しております」
自分の立場は分かっている。
平民出身の騎士。
偶然にも実力でこの地位まで登りついたに過ぎない男だ。
侯爵令嬢の未来を揺らしていい立場ではない。
それは、最初から分かっていたことだった。
◇
その日の訓練場。
「隊長!」
明るい声が響き、リリアーナが駆け寄ってきた。
春の光を受けた金色の髪が軽く揺れ、彼女の笑顔はいつもと同じように柔らかく輝いている。
胸の奥が、ひどく痛んだ。
その笑顔を見るだけで、どうしようもなく心が揺れる。
だが、カイルは静かに口を開いた。
「本日から、訓練場への立ち入りは控えてください」
言葉が落ちた瞬間、周囲の空気が静かに止まったように感じた。
リリアーナの表情から、ゆっくりと笑みが消えていく。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、静かに受け止めるような、深く澄んだ視線がカイルを見ていた。
「……どうして?」
「噂になっています」
「そんなの、気にしませんわ」
「俺が気にします」
即座に返ってきた言葉に、カイルは首を横に振り、はっきりと言い切った。
「あなたは侯爵令嬢だ」
「ええ」
「俺は平民だ」
「それが、何か関係がありますの?」
その問いは、昨日までと同じ形をしていた。
けれど今日は、昨日とは違う答えを返さなければならない。
「違う世界の人間です」
その言葉は、相手を守るためのものだった。
しかし同時に、自分自身をも傷つける刃のように胸の奥へ沈んでいく。
ずきりと、静かに痛みが広がった。
それでも、言わなければならなかった。
「来ないでください」
沈黙が、静かに落ちた。
言葉を口にした瞬間、胸の奥がひどく軋んだ。
本当は、違う言い方があったのではないかと。
もっと優しい言い方があったのではないかと。
それでも、選んだのはこの言葉だった。
そのとき、彼女の表情が、初めてわずかに揺れた。
ほんの小さな変化だった。
それでも、カイルはそれを見てしまった。
「……そう」
リリアーナは、笑おうとした。
口元に、小さく力を込める。
それでも、うまく笑うことはできなかった。
「分かりましたわ」
静かに一礼する。
そして、ゆっくりと背を向けた。
歩き出した足取りは、いつもより少しだけ小さく、どこか静かに沈んでいるようにも見えた。
◇
訓練場に、ゆっくりと静寂が落ちた。
剣が触れ合う音も、風が石畳を滑る音も、いつの間にか止まっている。
ラルクが、ぽつりと呟いた。
「隊長……それ、本心ですか」
返事は、すぐには来なかった。
「……仕事に戻れ」
低く押し殺した声が落ちる。
だが、誰もその場から動かなかった。
騎士たちは、ただ静かにカイルを見ていた。
「泣いてましたよ」
その一言が落ちた瞬間。
カイルの呼吸が、ふっと止まった。
◇◇◇
──来ないでください。
そう言ったのは、自分だった。
あのときの表情が、頭から離れない。
笑おうとして、うまく笑えなかった顔。
ほんのわずかに揺れた瞳。
泣いていたのかもしれない。
もし、そうだったのだとしたら。
──泣かせたのは、俺だ。
胸の奥が、静かに、ゆっくりと軋んだ。
守るためだと、何度も自分に言い聞かせた。
距離を取ることが、彼女のためになるのだと信じた。
彼女は無邪気で、まっすぐで。
だからこそ、傷つくのはきっと彼女の方だと思った。
……本当にそうなのか。
問いかけは、胸の奥に沈んだままだった。
近くにいたいという感情は、消そうとしても消えなかった。
守りたい。
離れなければならない。
そう思うほどに、矛盾した思いが静かに胸を満たしていく。
あの笑顔を、もう一度見たいと思った。
あのまま、彼女が誰かの隣で笑う未来を想像したくなかった。
それが独占欲なのか。
守りたいという思いなのか。
まだ、名前は分からなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
──自分が線を引いたのに。
それでも心だけは、彼女から離れてくれなかった。
本当は、名前を付けてしまいたい感情があった。
好きだと認めてしまえば、楽になれる気がした。
それなのに、認めることが怖かった。
守るために引いた線が、いつの間にか、自分をも閉じ込めていることに気づいてしまったからだった。




