第5話 自分にかけた魔法
鏡の前に立ち、長く流れていた金色の髪を、ゆっくりと手に取った。
昨日、自分の口から零れた言葉。
──好き、なんだ。
その事実は、もうなかったことにはできない。
曖昧なままでいるのは嫌だった。
だから、決めた──逃げない、と。
侍女が不安そうに見守る中、リリアーナは髪を一つにまとめるためのリボンを手に取った。
「お嬢様……本当に?」
「ええ。少しだけ手伝ってくださる?」
優しく頼むと、侍女は小さく息をつきながら手を添えた。
鏡の中で、長い金髪が背中の中央で静かに流れていく。
結ばれていく髪は、昨日までとは違う形を作っていった。
強くなったわけではない。
それでも、もう逃げない。
これは──自分で選んだ、小さな覚悟だった。
「これでいいわ」
そっと微笑む。
憧れではない。
友達として近くにいるだけでもない。
ちゃんと向き合いたい。
逃げずに、自分の気持ちを持って立ちたい。
それは、自分にかけた小さな魔法のようなものだった。
◇
訓練場に現れた瞬間、空気がわずかに揺れた。
「……え」
「お嬢様、髪……!」
騎士たちの声が、一瞬だけ重なるように漏れた。
その音に気づいたのか、カイルがゆっくりと振り向く。
そして、そのまま動きを止めた。
視線の先にあるものを確かめるように。
灰色の瞳が、ほんのわずかに、大きく見開かれる。
「……どうかしました?」
リリアーナは軽く足を揃え、くるりとその場で回ってみせた。
「似合いませんか?」
少しだけ首を傾げる。
すぐに言葉は返ってこなかった。
数秒の静かな沈黙が落ち、訓練場を吹き抜ける風の音だけが、かすかに耳に届いていた。
「……似合っています」
低く落とされた声だった。
それでも、視線は彼女から逸れることはなかった。
「よかったです」
ふわりと、花が開くように笑った。
今日は、逃げないと決めている。
「隊長。好きな人は、いらっしゃいますの?」
「「リリアーナ様!?」」
まっすぐに見つめて問うと、周囲の騎士たちが一斉にむせた。
驚きの声が上がる中、隊長の喉がわずかに動く。
「……いません」
「本当に?」
「本当です」
灰色の瞳は、まっすぐに彼女を捉えたままだった。
その視線を受けて、リリアーナは胸の奥が少し軽くなるのを感じる。
それだけでは、まだ足りない。
だから、もう一歩、踏み出した。
一瞬だけ、指先が震える。
けれど、視線は逸らさない。
「では。これから好きになる予定は?」
「……は?」
隊長の表情が完全に固まる。
その反応を見て、リリアーナは小さく笑った。
「私は、ありますけれど」
その一言は、静かに、しかし確かに場の空気を揺らした。
周囲の騎士たちは、そっと物陰へと身を寄せ始める。
カイルの耳が、ゆっくりと、分かりやすく赤く染まっていった。
「何を……」
「曖昧は嫌なんです」
声は明るかった。
けれど、その奥にある意思は、少しも揺らいでいなかった。
「見ているだけでは、進めませんもの」
沈黙が、静かに落ちた。
一度だけ吹いた風が、結ばれた髪をかすかに揺らす。
その瞬間、彼の視線がほんのわずかに揺れた。
◇
帰り際。
「また明日も来ますわ」
「……どうして、そこまで」
低い声がぽつりと落ちた。
リリアーナは振り返り、まっすぐに彼を見る。
「……気になる方がいるからです」
それはまだ告白ではない。
けれど、ほとんど同じ意味を持っていた。
そして、軽く会釈して背を向ける。
歩き出す足取りは、昨日より少しだけ軽かった。
◇◇◇
カイルは、動かなかった。
短くまとめられた金色の髪が、やけに視界に残る。
それは偶然ではないと、どこかで理解していた。
──あれは覚悟だ。
自分のために切ったのか。
──いや、違う。
あの行動も、あの言葉も、まだ自分に向けられたものではない。
そう分かっている。
分かっているはずなのに。
「私はありますけれど」
無邪気で、まっすぐな笑顔。
危険だ、と本能が告げていた。
それは、理性が少しずつ削られていくのを自覚しながら、それでも目を逸らせない種類のものだった。
好きだと言った言葉。
それはまだ、誰か一人に向けたものではない。
──だが。
もし。
もし、あの言葉が自分に向けられたとしたら。
逃げられるのか。
その問いの答えは、最初から分かっていた。
──分かっている。
髪をまとめたことで、白いうなじがわずかに覗いていた。
その白さが、妙に視界に残る。
見てはいけないと分かっているのに、視線が離れなかった。
触れてはいけない場所だと理解している。
そう思うのに、意識だけがそこに留まったままだった。
結ばれた髪が、やけに似合って見えた。
喉が、わずかに熱を帯びる
──ずるい。
そう思った。
逃げてくれ、と理性は告げる。
それなのに、視線だけが、彼女のうなじから離れなかった。
──もう、視線を外す気はなかった。




