第4話 胸がざわつく理由
その噂は、ふとした雑談の中で、軽く語られるように届いた。
「第三隊隊長って、昔から想っている方がいるらしいですよ」
侍女の何気ない一言だった。
リリアーナは、紅茶を口に運ぼうとしていた手を、わずかに止める。
「……そうなの?」
出来るだけ平静を装いながら、静かに問い返した。
「遠征先で出会った女性だとか、幼なじみだとか、はっきりしたことは分からないそうですけれど」
その話には、確かな裏付けがあるわけではなかった。
ただの噂にすぎないと分かっているのに、胸の奥が静かに揺れた。
理由は分からない。
それでも、紅茶を持つ指先が、ほんのわずかに力を失う。
喉の奥が乾くような感覚だけが、静かに残った。
「そう……」
小さくそう答えた。
それ以上、言葉は続かなかった。
本当は、もう少しだけ聞いてみたかった。
もしその人がいるのなら。
自分は、どんな顔でこの感情を抱えればいいのだろう。
けれど、踏み込む勇気はなかった。
噂の真偽よりも先に、胸の奥に小さく芽生えた感情の方が気になっていた。
そのとき、紅茶の味が分からなくなった。
◇
その日も、いつもと同じように騎士団の訓練場へ向かった。
春の空気は柔らかく、陽光は穏やかで、特別なことなど何も起こらないはずだった。
第三隊隊長は、変わらず無表情のままそこに立っていた。
「いらっしゃいましたか」
「ええ」
短い言葉だけが交わされる。
距離も、空気も、いつもと同じだった。
それなのに、今日はなぜか胸が落ち着かなかった。
──この人には、好きな人がいるかもしれない。
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
その瞬間、隣に立つ彼との距離が、急に遠く感じられた。
ラルクが明るい声で話しかけてくる。
「リリアーナ様、今日は隊長機嫌いいですよ」
「そうなの?」
「さっき、手紙が届いたみたいで」
その言葉に、視線が自然と隊長の手元へ向かった。
そこには、一通の封書がある。
胸の奥が、きゅっと小さく締めつけられる感覚があった。
──あの人からの手紙だろうか。
自分でも驚くほど、嫌だと思ってしまった。
隊長は封を開き、真剣な表情で文字を追っていた。
読み終えると、ほんのわずかに眉が緩む。
その小さな変化が、妙に気になった。
何も確かなことは分からないのに、想像だけが静かに広がっていく。
そして、その想像に傷ついている自分に気づき、小さく苦笑したくなった。
友達でいいと思っていたはずなのに。
どうして、こんなに苦しいのだろう。
◇
帰り道。
足が、少しだけ重く感じた。
屋敷の庭に入ってからもすぐに動く気になれず、立ち止まったまま空を見上げる。
あの日──暴れ馬から助けられた瞬間から、世界が変わった気がした。
あれは、ただの憧れだと思っていた。
強くて、まっすぐで、どこか遠くて。
物語の中に登場する、手の届かないヒーローのような人。
自分とは違う世界にいる人で、見上げるだけの存在のはずだった。
本来なら、それだけで終わるはずだったのに。
けれど、もし本当に彼に想う人がいるのなら。
その人が笑う場所に、私はいない。
その隣に立つことも、きっとないのだろう。
胸の奥が、静かに、ゆっくりと痛んだ。
胸の奥に沈んでいた想いが、ゆっくりと形を持ちはじめる。
そこで、ようやく気づいた。
これは憧れではない。
友達になりたい気持ちでもない。
静かに、胸の奥に落ちていた感情が答えを形にした。
「……好き、なんだ」
確かめるように、小さく声に出した。
涙は出なかった。
ただ、胸の奥に沈んでいた想いが、静かに形を持って浮かび上がっただけだった。
そのとき、ふと思う。
──もし彼の隣に立つ人がいるのなら。
私は、どうするのだろう。
空は、春の色をしたまま静かに広がっていた。
◇
手紙は、妹からだった。
体調が良くなったと書かれている。
安堵の感情が、胸の奥に落ちた。
体調が良くなったという言葉に、ほっと息をつく。
それだけのことだった。
封をそっと閉じ、ゆっくりと視線を上げた。
ふと、今日の彼女が少し静かだと気づいた。
笑顔は浮かんでいる。
けれど、いつもよりわずかに控えめで、何かを考えているようにも見えた。
視線を感じて手元を見ると、彼女がこちらの封書を見ていることに気づく。
──誤解かもしれない。
胸の奥で、そんな考えが浮かんだ。
もし自分に想う相手がいると聞けば、彼女はどう思うのだろう。
考えるべきではないと、自分に言い聞かせる。
距離ができるなら、それでいい。
それが彼女を守ることにつながるのだと分かっていた。
分かっているはずだった。
それでも、あのとき見た、少し沈んだ瞳が頭から離れない。
……考えるな。
近づけば、もっと傷つける。
自分の存在は、彼女にとって不確定で、危うくて、面倒なものになるだろう。
そう理解している。
それなのに。
胸の奥に残った小さなざわつきだけが、消えることはなかった。




