第3話 反則の笑顔
「リリアーナ様、こちらどうぞ!」
第三隊の若い騎士が、得意げな顔で訓練用の木剣を差し出した。
日差しを受けて輝くそれを見て、リリアーナの瞳がぱっと明るくなる。
「いいんですの?!ええと……」
「ラルクです!」
ラルクは、ふと悪気なく続けた。
「そういえば……令嬢って、婚約者はいらっしゃらないんですか?」
数人の騎士が「おい」と小さく呟く。
だがリリアーナは驚いた様子もなく、首を傾げた。
「いませんわ。今のところ、その予定もございません」
「えっ、本当ですか?令嬢なら、すぐ決まりそうなのに」
さらりと返したリリアーナに、ラルクが目を丸くする。
その言葉でほんの一瞬だけ、腕を組んでいたカイルの指が、わずかに強く食い込んだ。
リリアーナはほんの一瞬だけ、灰色の瞳へ視線を流し、ほんの小さく微笑む。
「もしその日が来るとしたら──自分で選びたいと思っておりますわ」
カイルの喉が、かすかに鳴った。
「それで?私も体験できますの?」
「もちろんです! 隊長より優しく教えますよ」
「おい」
低く鋭い声が飛んだ。
だが、制止には一瞬遅い。
リリアーナはすでに木剣を両手で受け取り、宝物のように眺めていた。
胸を張る若手騎士ラルク。
その背後で、カイルは腕を組んだまま無言で立っている。
その無言が一番怖い、と周囲は知っている。
だが、浮かれたラルクは気づかない。
訓練が始まった。
「そうです、そのまま踏み込んで──あ、足はもう少し前に」
ラルクは軽やかにリリアーナの背後へ回り込む。
「こうです」
そう言って彼女の腕を取り、体勢を直した。
距離が、近い。
ほとんど抱き込むような体勢だ。
リリアーナは真剣な顔で足の位置を確認している。
だが、その光景を目にした瞬間、訓練場の空気がひやりと冷えた。
正確には──カイルの周囲だけが。
「……ラルク」
低く抑えた声が背後から落ち、その一言だけで訓練場の空気がぴたりと張りつめた。
「はい?」
「近い」
「指導です!」
「近い」
ぴしゃり、と乾いた音が聞こえた気がした。
「隊長、氷点下」
「ラルク、南無」
ひそひそ声が飛び交う。
ラルクはようやく背筋に走った悪寒に気づき、慌てて飛び退いた。
「す、すみません!」
事情が分からないリリアーナが、ぱちぱちと瞬きをする。
「隊長?」
「……俺がやります」
「え?」
ひょい、と木剣が奪われる。
その動作は素早いが乱暴ではない。
「基礎からです」
さきほどよりも、はるかに丁寧な声。
カイルはリリアーナの背後に立つ。
近い。
だが──触れない。
「足は、こうです」
低い声が、耳元すぐ近くで落ちる。
指先が、彼女の腰のあたりで一瞬止まる。
触れれば体勢を直せる距離。
だが、触れない。
触れそうで触れない、その絶妙な距離。
周囲の騎士たちは固唾をのんで見守る。
(触れろよ)
(触れないのかよ)
(隊長、理性の鬼……!)
リリアーナの心臓が、とくんと跳ねた。
背後から伝わる体温。低い声。わずかな呼吸。
「隊長……」
「……何ですか」
かすかに低くなった声音が、すぐ背後から落ちる。
その響きにくすぐられるように、リリアーナはくるりと振り向いた。
思ったよりも距離が近い。
至近距離で見上げた灰色の瞳が、わずかに揺れる。
逃げ場のない距離のまま、彼女は悪戯っぽく口元を緩めた。
「もしかして……嫉妬ですの?」
一瞬、風まで止まったかのような静寂が訓練場を包む。
しかし次の瞬間。
「違います」
驚くほど素早い否定が返った。
その潔さとは裏腹に、耳の先は正直すぎるほど赤い。
「即答!」
「でも赤い!」
「分かりやすっ!」
騎士たちが一斉に肩を震わせる。
リリアーナはくすくすと笑い、ほんの少しだけ顔を寄せた。
「ふふ、隊長って分かりやすいですわね」
「分かりやすくありません」
声が固い。
だが視線は泳いでいる。
どうして一緒にいるだけで、こんなにも楽しいのだろう。
どうしてこの人の反応が、こんなにも愛おしいのだろう。
まだ、名前はつけない。
けれど確実に、胸の奥で何かが芽吹いている。
そしてその芽は──どうやら彼のほうにも、同じように。
◇
訓練後。
汗をぬぐいながら、リリアーナは柔らかく微笑んだ。
「今日はありがとうございました」
「……怪我はありませんか」
「ありませんわ。隊長が丁寧に教えてくださったもの」
ほんの少しだけカイルの視線が逸れ、その仕草のまま二人のあいだに沈黙が落ちる。
だがその静けさは穏やかではなく、どこかそわそわと揺れていた。
リリアーナは、ふと思いついたように尋ねた。
「隊長は、好きな方はいらっしゃるの?」
灰色の瞳が、はっきりと揺れた。
「……なぜ」
「なんとなく」
本当に、なんとなく。
けれど、聞かずにはいられなかった。
「いません」
たった一言の短い答え。
けれど、その声音がわずかに硬いことを、リリアーナは聞き逃さなかった。
いないと聞いて、安堵した。
それなのに、どうして“今まで”という言葉が引っかかるのだろう。
まだ分からない。
でも、知りたい。
もっと、この人のことを。
◇
その頃、侯爵家の執務室にも一通の報告書が届いていた。
侯爵は無言で書状を読み、ゆっくりと指先で机を叩いた。
「第三隊、か……」
◇◇◇
──いませんわ。今のところ、その予定もございません。
あの言葉が、まだ耳に残っている。
いない、と。
なぜか胸の奥が、わずかにほどけた。
その感覚に、遅れて戸惑う。
俺には関係ない。
彼女が誰と婚約しようと、変わるものはない。
……変わってはいけない。
そう思っていたはずなのに。
──自分で選びたい。
あの視線は、偶然か。
……考えるな。
期待する資格などない。
それでも、胸に灯った小さな火は、消えない。
ラルクが近すぎる。
あいつの手が彼女の腕に触れた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
冷えたのかと思ったが、違う。
熱い。
やけに息が詰まり、視界が狭くなる。
──嫉妬?
そんなはずはない。
俺にそんな感情を抱く資格はない。
身分も立場も違う。
守る側だ。それ以上は許されない。
そう思っていた。
だが、あの距離を見た瞬間、理屈は消えた。
触れるな、と思った。
俺ですら触れていないのに、と。
……何を考えている。
自分に舌打ちしたくなる。
「好きな方は?」
あの問いを向けられた瞬間、胸が跳ねた。
いない、と答えた。
本当だ──今までは。
剣と任務だけで十分だった。
誰かを想う余裕など、必要なかった。
だが彼女が笑うたび、無意識に目で追っている。
他の男と話していると、落ち着かない。
あんなふうに悪戯っぽく笑われると、心臓が妙に騒ぐ。
これを何と言う。
分からないわけではない。
だが、認めた瞬間に一線を越える気がして、言葉にできない。
「嫉妬ですの?」
あの反則的な笑顔。
──あれは、ずるい。
あんな顔で見上げられて、平然としていられる男がいるなら会ってみたい。
危ない。確実に、危うい。
近づくべきではないと分かっているのに、距離を取る理由が日に日に弱くなる。
そして何より。
彼女がまた来ると聞いて、胸の奥がわずかに安堵した自分を──まだ否定しきれない。
危ないのは──間違いなく、俺のほうだ。




