第12話 結婚式前夜
月は静かに庭を照らしていた。
屋敷の喧騒が嘘のように、この場所だけは穏やかな夜の空気に包まれている。
リリアーナはガウンを羽織り、庭の小道をゆっくり歩いていた。
明日は結婚式だというのに、不思議と心は騒がない。
胸の奥にあるのは、不安ではなく、静かな温もりだった。
その理由は、きっと分かっている。
背後から足音が近づいた。
振り向く前に、誰なのかは分かった。
「──カイル」
呼ぶと、彼は少し困ったような顔でそこに立っていた。
「……ばれたか」
低く呟く声に、リリアーナはくすりと笑う。
「分かります。この屋敷に、夜こっそり忍び込む騎士なんて一人しかいません」
「門番に止められかけた」
「当然です」
「婚約者だと説明した」
少し拗ねたように言うカイルに、リリアーナは首を傾げる。
「明日まで待てと言われませんでした?」
「……言われた。正論ではある」
「ふふっそれでも来たんですね」
苦笑しながらのその言い方があまりにも素直で、リリアーナは思わず笑ってしまう。
そう言うと、カイルは一瞬だけ言葉を探すように沈黙し、そして小さく息を吐いた。
「最後の夜だ……落ち着かなくてな」
戦場でも冷静さを失わない男が、結婚式前夜に落ち着かないなどと言う。
その正直な言葉に、リリアーナは少し驚きながらも優しく問い返した。
「カイルが、ですか?」
「意外か」
「ええ。剣を向けられても動じない人が、結婚式で緊張するなんて……」
「戦場の方がずっと楽だ」
カイルは苦く笑う。
本音なのだろう。
リリアーナは小さく息を吐いた。
「……そんなに嫌なんですか」
「違う。……嬉しいんだ」
そう言ったあと、カイルはすぐに小さく首を振った。
そして少し低い声で続けた言葉に、リリアーナの胸の奥がふわりと温かくなる。
カイルはゆっくり彼女に近づいた。
月明かりの下で、二人の距離が自然に縮まっていく。
「明日になれば……あなたは俺の妻だ」
何度も聞いたはずの言葉なのに、今夜は重みが違う。
リリアーナは彼を見上げた。
「嫌ですか?」
「まさか。……ただ、実感が追いつかない」
カイルは小さく息を吐く。
珍しく弱い言葉だった。
だからこそ、リリアーナは少しだけ悪戯を思いつき、一歩近づいて手を握った。
「カイル」
「なんだ」
「明日にならないと、触れられないんですか?」
「っ!……それは」
カイルの表情が固まり、言葉が止まる。
リリアーナは小さく笑い、掴んだ手をそっと自身の頬に当てた。
カイルの喉が小さく鳴った。
「……今でも触れてます」
「違う……妻としてだ」
少しずつ距離は縮まり、もうほとんどない。
吐息が触れそうな距離だった。
リリアーナの鼓動が、少しだけ速くなる。
それでも目は逸らさずに静かに問いかける。
「じゃあ……明日まで待つんですか?」
沈黙が落ちる。
やがてカイルは深く息を吐いた。
「そのつもりだった」
「だった?」
「あなたが煽らなければ」
「ふふっ、煽っていません」
「十分だ」
カイルの手が彼女の頬に触れた。
驚くほど優しい指先だった。
「止めるなら今だ」
「止めません」
最後の確認をするも、リリアーナは迷わなかった。
その瞬間、カイルは小さく息を吐いた。
「……病気みたいだ」
「え?」
リリアーナが聞き返すと、カイルは苦く笑った。
「……病気みたいに、あなたが欲しい。リリアーナ」
「……同じですよ、私も」
その瞬間、彼の理性が崩れる音が聞こえた気がした。
リリアーナの鼓動が一気に速くなった、次の瞬間──彼は彼女を抱き寄せた。
強く──けれど、壊れ物を扱うかのように慎重に。
カイルはリリアーナを抱き寄せ、そのままゆっくり顔を寄せた。
次の瞬間──唇が触れた。
最初はそっと触れるだけの、確かめるような口づけだった。
けれど離れることはなく、そのまま静かに深くなっていく。
深く、長く。
まるで今まで胸の奥に積み重ねてきた想いを、ひとつずつ伝えるかのように。
言葉の代わりに、優しく、けれど確かな熱を帯びて続く口づけだった。
不意に胸の奥が震え、リリアーナの指が思わず彼の胸元を掴む。
指先に伝わる体温が、さらに鼓動を速くさせた。
やがてカイルは名残を惜しむように、ゆっくりと唇を離した。
それでも距離はほとんど離れない。
逃がさないように、そっと額を合わせる。
リリアーナの呼吸はまだ整わない。
胸元を掴んだままの指先が、小さく震えている。
カイルはそれを見て、ほんのわずか苦く笑った。
「……今なら、まだ引き返せる」
低く落ちる声は、どこか掠れている。
リリアーナが小さく首を振ると、カイルは一度だけ目を閉じた。
そして諦めたように、静かに呟く。
「はぁ……本当に、容赦がないな。あなたは」
その声には、困ったような響きと⸻どうしようもなく甘い感情が混ざっていた。
次の瞬間、カイルは迷いなく彼女を抱き上げる。
突然視界が高くなり、リリアーナの口から小さな驚きの声がこぼれた。
その声は静かな庭の夜気に溶けるように消えていく。
カイルは腕の中の彼女をしっかりと抱えたまま、屋敷へと歩き出した。
暖かな灯りが漏れる扉の前で、彼は一度だけ足を止める。
腕の中のリリアーナを見下ろし、ほんのわずかに目を細めた。
次の瞬間⸻扉が静かに閉まる。
二人の姿は、その灯りの奥へと消えていった。
夜空では、月が変わらぬ静けさで空を渡っている。
⸻明日、二人は夫婦になる。
◇◇◇
明日、彼女は俺の妻になる。
その事実が、これほど心を乱すものだとは思わなかった。
戦場では常に冷静でいられる。
刃を向けられても、判断を誤ることはない。
だが──彼女を前にすると、理性が静かに削れていく。
庭に立つ白い姿を見た瞬間、悟った。
今日はもう、引き返せない。
「最後の夜だ……落ち着かなくてな」
あんな言い方をしたのは、半分は本音で、もう半分は自制だった。
逃げ道を残してやりたかったのだ。
……俺は卑怯だ。
触れたい。
抱きしめたい。
できることなら、すべてをこの腕の中に閉じ込めてしまいたい。
だが、彼女の覚悟を軽く扱いたくなかった。
だからこそ、あの言葉を口にした。
「止めるなら今だ」
確認ではない。
むしろ──懇願だった。
もし彼女が迷えば、俺は止まれた。
いや、止まるつもりだった。
だが彼女は、逃げなかった。
「止めません」
その一言で、すべてが決まった。
理性が、静かに崩れ落ちた。
壊したくないと思っていたはずなのに、気づけば壊れかけているのは、俺の方だった。
彼女は強い。
俺より、ずっと。
俺はただ、欲に揺さぶられているだけの男だ。
「病気みたいに欲しい」
情けない告白だった。
騎士としても、男としても、あまりに格好がつかない。
それでも嘘はつけなかった。
だが──
彼女が小さく笑い、同じだと言った瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが、ふっとほどけた。
奪ったわけじゃない。
彼女が、自分で選んでここにいる。
その事実が、何よりの救いだった。
夜が明けるまで、俺は何度も彼女の名を呼んだ。
明日になれば、堂々と「妻」と呼べる。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
次話で本編最終話となります。
最後まで見届けていただけたら嬉しいです。




