第10話 触れるな、俺のだ
王都の中心街にある宝飾店は、昼下がりの柔らかな光に満ちていた。
結婚式に身につける装身具を選ぶため、リリアーナは店の奥にある大きな鏡の前に立っている。
店主が差し出した繊細な首飾りを首元にあてると、白い首筋にきらりと小さな輝きが落ちた。
「さすがでございます。お嬢様によくお似合いです」
店主が満足げに言う。
その声に小さく微笑みながら、リリアーナは鏡の中の自分を見つめていた。
そのとき、店の入り口のほうから軽やかな足音が近づいてくる。
「お久しぶりです、リリアーナ嬢」
振り向くと、若い貴族子息がにこやかな笑みを浮かべて立っていた。
礼儀正しく挨拶はしているものの、どこか距離が近い。
視線には、わずかに探るような色が混じっている。
「婚約、おめでとうございます。……ですが、まだ式前でしょう?」
わざとらしく言葉を区切りながら、彼は意味ありげに笑った。
その瞬間、店の空気がわずかに変わる。
リリアーナは動じることなく、落ち着いた声で問い返した。
「それで、何か?」
「近衛殿はお忙しいでしょう。寂しくはありませんか」
子息は肩をすくめて笑う。
そこまで言ったところで、背後から低い声が落ちた。
「──手を離せ」
振り返るまでもなく、誰の声か分かる。
いつの間にかカイルが立っていた。
子息の指が、ほんのわずかにリリアーナの手袋の端に触れていた。
そのささいな接触を見た瞬間、カイルの目が冷たく細められる。
先ほどまでの穏やかな空気は消え、近衛としての顔がそこにあった。
「これは失礼」
子息は慌てて手を引くが、その視線にはまだわずかな挑発が残っている。
「少しお話を──」
「必要ない」
カイルは間髪入れずに言い切り、一歩前へ出た。
その背中が自然とリリアーナを庇う形になる。
「彼女に用があるなら、俺を通せ」
静かな声なのに、圧がある。
店内の空気がぴんと張り詰め、子息は引きつった笑みを浮かべると、何も言わずその場を去っていった。
しばらくして、店内に静けさが戻る。
店主も気を遣ったのか、少し距離を取っていた。
リリアーナはそっとカイルの隣に並ぶ。
「……怒りました?」
「怒ってない」
即答だったが、その拳は白くなるほど握られている。
「触れた──俺以外が」
低く落ちたその言葉に、リリアーナの胸がじんわりと熱くなる。
「婚約者ですから、怒るのは当然でしょう?」
カイルは彼女を見つめた。
抑えていた感情が、今にも溢れ出しそうになっている。
「……当然じゃない」
一歩近づくと、鏡越しに視線が絡んだ。
「俺が欲しいと思って、選んだ女だ。──軽く触れていい相手じゃない」
吐息が触れそうな距離で、低く言う。
リリアーナは思わず喉を鳴らした。
それでも少しだけ悪戯な目を向ける。
「では……あなたは?」
カイルは一瞬、言葉を失った。
問い返された意味を理解した途端、胸の奥に溜め込んでいた感情が揺れ、うまく言葉が出てこない。
それでも、ゆっくりと手を伸ばす。
指先が彼女の頬に触れた瞬間、自分でも分かるほどわずかに震えていた。
「……俺は、触れていい」
低く、静かな声でそう告げると、カイルはほんの少しだけ目を細めた。
「俺の婚約者だから」
その言葉を聞いた瞬間、リリアーナの心臓が大きく跳ねる。
「……独占欲、強いですね」
「今さらだ」
カイルはそのまま彼女を引き寄せる。
幸い、周囲に人影はなかった。
互いの距離が一気に近づいた。
「嫉妬した……あなたが他の男に微笑むのも嫌だ」
カイルは視線を逸らさずに言った。
リリアーナはゆっくり息を吐くと、そっと彼の胸に指を置いた。
「安心してください。私が選んだのは、あなたです── 一生」
少し間を置いて、はっきりと続けたその言葉に、カイルの理性が音を立てて揺れる。
「……ずるい」
思わずそう呟き、彼女を抱きしめた。
今度はさっきよりも強く、けれど壊れ物のように大切に。
「あなたは、俺を暴走させる」
「止めるのも私ですよ。……でしょう?」
リリアーナは見上げて微笑む。
カイルは小さく笑った。
「確かに。俺の理性は、あなた預かりだ」
額をそっと合わせると、甘い沈黙が二人を包む。
やがてカイルは名残を振り払うように顔を上げた。
「帰るぞ」
「はい」
二人は手を繋いで店を出た。
王都の大通りの真ん中を、堂々と並んで歩く。
もう隠さないし、遠慮もしない。
繋いだ手が、まるで宣言するようだった。
──彼女は、俺のものだと。
◇◇◇
カイルはリリアーナの手を引いたまま、王都の通りを歩いていた。
人通りの多い通りでは、自然と視線が集まる。
近衛騎士と侯爵令嬢の婚約者という組み合わせなら、目立つのも無理はない。
それでも、不思議と気にならなかった。
むしろ構わないと思っている。
こうして手を繋いでいれば、この手が自分のものだと誰の目にも分かるからだ。
ふと隣を見ると、リリアーナは何事もない顔で歩いている。
だが、繋いだ指先がほんの少しだけ強く握り返された。
その小さな反応に、胸が熱くなる。
さっきの男の顔が、まだ頭の奥に残っていた。
彼女の手に触れた瞬間、理性が切れそうになったのを思い出す。
近衛としては情けない。
もっと冷静であるべきだ。
それでも──
彼女が「あなたを選んだ」と言ったあの声を思い出した瞬間、そんな理屈はどうでもよくなった。
守る──誰に何を言われても。
この人は、俺の婚約者だ。
カイルは繋いだ指を少しだけ強く絡めた。
逃げないようにではない。
ただ、離したくないと思ったからだった。
そのとき、隣から声がかかる。
「カイル」
「なんだ」
「手、強いです」
言われて初めて気づいた。
指を絡めたまま、思った以上に力が入っていたらしい。
慌てて少しだけ力を緩める。
「……悪い」
「いいえ」
リリアーナはくすっと笑った。
「離さないつもりなのだと、よく分かりましたから」
一瞬、言葉に詰まる。
──分かるのか。
胸の奥が、妙に落ち着かない。
「……離す気はない」
小さく呟くと今度は、リリアーナの方が指を絡めてきた。
「知っています」
当然のように言われて、カイルは言葉を失った。
すれ違った貴婦人が、小さく笑った。
「まあ……仲のよろしいこと」
カイルは聞こえなかったふりをした。
当然のことのように言われて、思わず小さく息を吐いた。
敵わないな、と思う。
それでも──この手だけは、絶対に離さない。




