第9話 甘々地獄のはじまり
近衛任命から三日が経ち、王都はまるで嵐の前のようなざわめきに包まれていた。
市街のあちこちでささやかれる噂は、昼も夜も途絶えることがなく、人々の視線は自然とその話題に向かっていた。
「例の近衛、婚約者が本当に絶世らしいらしいぞ」
「そういえば、公の場で止めに入った令嬢のことか……」
話はすぐに広がり、噂はまるで王都の空気を震わせる波紋のように街角から街角へと伝わっていく。
その当人たる近衛と婚約者は、そんな世間の喧騒など意に介さず、侯爵邸でひっそりとした時間を共有していた。
カイルは近衛制服を身にまとい、侯爵邸の石敷の玄関に立っていた。
制服は彼に驚くほど似合い、まるで生まれながらにして近衛としてここに立つべく運命づけられていたかのようだった。
リリアーナは正面からその姿を見つめることを必死に避けようとしていたが、胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちた。
自然と視線が上に向かい、胸の奥が熱く締めつけられる。
「……どうかしたのですか?」
問いかけるリリアーナに、カイルは柔らかく微笑むだけで答えた。
その笑みは、彼女の心の奥底にある小さな防壁を、静かに崩していくようだった。
視線が合う瞬間、リリアーナの胸は跳ね、思わず小さな声でつぶやく。
「……似合いますね」
その一言だけで、カイルの動きが一瞬止まる。
驚き、戸惑い、そして喜びが入り混じった表情で、彼はリリアーナを見下ろした。
「それだけか?」
「え?」
低く響く声が近づき、距離が一歩詰まる。
息をひそめるリリアーナの胸に、彼の声は甘く響く。
続けて、重く低い声で囁いた。
「もっと……何か、ないのか」
「誇らしいです」
リリアーナは咄嗟に答えた。
その言葉に、カイルの喉が、小さく動いた。
心臓が早鐘のように打ち、手のひらが熱くなる。
自然と彼の体がリリアーナを引き寄せ、腰が軽く触れる距離に迫った。
「……あなたは……俺を殺す気か」
小さな声で問いかけるカイルに、リリアーナは瞬きするだけで答えず、ただ自分の身体を彼に委ねる。
するとカイルはさらに低く囁いた。
「……王家公認だ」
「はい」
「もう遠慮はしない」
顔が近づき、息が触れ合う。
廊下にいることも忘れる距離。
カイルの手がそっとリリアーナの腰に回り、彼女は呼吸を乱す。
「試験でお前が立ち上がった時……俺はこの女の隣に一生立つと決めたんだ」
囁かれる言葉の重さに、リリアーナの胸は甘く震えた。
彼の意思がぶれず、ただ自分だけを見つめるその視線に、理性もためらいも溶けていく。
「今さら逃がすと思うな」
圧倒的に力強い。
リリアーナは微笑みながら、指で彼の胸を軽く押す。
「逃げません。ですが……私も遠慮しませんよ?」
その言葉に、カイルは一瞬止まり、目を見開いた。
リリアーナは背伸びをして、耳元で囁く。
「カイルは、私の婚約者です」
ぞくりと背筋を走る衝撃。
耳に唇がそっと触れるその瞬間、カイルは完全に理性を失った。
「外では凛々しく……内では甘えてください」
強く抱きしめ、二人は息をひそめながら廊下に立ち尽くした。
理性がすべて崩れたカイルに、リリアーナは静かに笑みを返す。
◇
応接室に移動し、扉が閉まると空気は静まり返った。
カイルは壁際にリリアーナを追い込みながらも、手は優しく背を撫でる。
「本当に、いいのか」
「何がですか?」
「俺が甘える……」
真顔で告げるカイルに、リリアーナは柔らかく微笑む。
「私だけに、でしょう?」
その言葉に、カイルは撃沈する。
ぎゅっと抱き寄せ、さらに強く身体を預けた。
「……疲れた」
近衛としての初任務や挨拶回りで神経をすり減らしていた彼は、リリアーナの肩に顔を埋めて小さくぽつりと呟く。
「よく頑張りました」
背を撫でられ、温かさに包まれる。
外で守る強さと、内で見せる柔らかさが、初めて完全に交わる瞬間だった。
「外では、俺が守る。……家の中では、隣で支えてくれ」
その低い声に、リリアーナは頬を柔らかく緩ませる。
「ええ……あなたの居場所は、ここです」
唇がゆっくり重なり、甘く長く、互いに息を重ねる。もう試されることはなく、奪われる心配もない。
二人の選び合った未来は、穏やかに、しかし確かに熱を帯びていた。
◇
その夜、カイルが帰宅した後。
侍女が小さな声で感想を漏らす。
「お嬢様、少し雰囲気が変わられましたね」
「そう?」
「ええ、まるで公爵令嬢のようです」
リリアーナは一瞬だけ目を瞬かせ、それから静かに首を振った。
「……違うわ」
窓の外へ視線を向ける。
夜の王都には、柔らかな灯りが静かに広がっていた。
その光を見つめながら、ゆっくりと口を開く。
「私は……近衛騎士の婚約者よ」
誇りを胸に。
その凛とした声は、静かな王都の夜へと、まっすぐに響いた。
◇◇◇
近衛制服の襟を無意識に整える。
理由は分かっている。
緊張しているわけではない──彼女に、見られるからだ。
侯爵邸の玄関で立ち止まったとき、視線が自然と上がった。
正面から見ないようにしている彼女の横顔。
分かっている。
分かっているのに、胸が少しだけ熱くなる。
「……似合いますね」
小さな声だった。
それだけで、心臓が強く跳ねた。
もっと言わせたい。
もっと聞きたい。
そんな感情が静かに首をもたげる。
近づく。
逃げないように。
逃がさないように。
彼女は俺の婚約者だ。
選んだのは俺だ。
未来も──この女も。
頬に触れたとき、少しだけ震えた呼吸が伝わっ
た。
視線を交わした瞬間、俺の胸は跳ねた。
この娘にだけは、強がらずにいられない──それを知ってしまった。
愛しいと思う。
守りたいと思う。
同時に、俺が守られていることも理解している。
「外では、俺が守る。……家の中では、隣で支えてくれ」
そう呟いたとき、胸の奥が静かに満たされていくのを感じた。
彼女が隣にいる未来を、もう疑うことはない。
だから──離すつもりは、ない。




