第8話 選ばれた男
王城の謁見の間には、張り詰めた空気が満ちていた。
近衛昇格者の発表が行われるその場には、王族と貴族たちが並び、誰もが固唾をのんで中央を見つめている。
広い石床の中央で、カイルは片膝をつき頭を垂れていた。
動く気配はない。
ただ静かに、その時を待っている。
観覧席の一角では、リリアーナが背筋を伸ばして座っていた。
先日の演習場での出来事以来、彼女の表情には一切の迷いがない。
もう止めることも、揺れることもない。
ただ、彼の選ぶ道を見届けるだけだ。
やがて、玉座の前に立っていた王太子がゆっくりと立ち上がった。
謁見の間の空気がさらに重くなる。
「最終試験、及びこれまでの功績を総合し⸻第三隊隊長カイル・グレイを、近衛騎士に任ずる」
その宣言が落ちた瞬間、張り詰めていた謁見の間の空気が弾けた。
抑えきれなかったざわめきが、波のように広がっていく。
その中でただ一人、カイルだけが静かに跪いたままだった。
だが、握りしめた拳だけが、わずかに震えていた。
「はっ」
カイルの返答は、それだけだった。
短く簡潔な一言。
だがその声には、揺るがぬ覚悟がはっきりと宿っていた。
その様子を確かめるように、王太子はゆっくりと玉座の階段を降りる。
そして静かな足取りで、まっすぐカイルの前まで歩み寄った。
「顔を上げよ」
カイルがゆっくりと顔を上げる。
その瞬間、二人の視線が真正面からぶつかった。
「お前は条件を拒否したな」
「はい」
「王命に近いものだった」
「承知の上です」
王太子の言葉が落ちた瞬間、謁見の間から音が消えた。
誰も口を開こうとはせず、広い空間には重い沈黙だけが満ちていく。
その静寂の中で、王太子はふっと小さく笑った。
「合格だ」
その言葉に、カイルの目がわずかに動いた。
驚きとも戸惑いともつかない感情が、ほんの一瞬だけその瞳に揺れる。
だがすぐに、彼は表情を引き締めた。
「近衛に必要なのは忠誠だけではない⸻自らの意思で選び取れる男だ」
王太子の声は静かだった。
だが、その言葉は謁見の間にいるすべての者の耳に、はっきりと届いた。
そうして彼は一歩、ゆっくりとカイルへ歩み寄る。
「お前は、愛を捨てなかった。……それでいい」
やがてその視線が、ゆっくりと観覧席へ向けられた。
そして、リリアーナとまっすぐに目が合う。
その様子を見た瞬間、カイルは思わず息を止めた。
次に響いた王太子の声は、先ほどよりわずかに低かった。
「王家は、お前のような男を欲している。……彼女のような女もな」
その言葉を受けて、リリアーナの背筋がわずかに伸びた。
王太子の視線を正面から受け止めながら、静かに姿勢を正す。
「公の場で止めに入る度胸。理で語る頭。情で動く覚悟……末恐ろしい」
王太子の口元が、ほんのわずかに上がった。
その言葉に、場に小さな笑いが広がる。
張り詰めていた空気が、ようやくほどけていった。
やがて王太子はゆっくりと周囲を見渡し、最後に静かな声で告げる。
「婚約は認める。王家としても祝福しよう」
その一言で、すべてが決着した。
◇
式が終わり、人の波が去ったあと。
王城の回廊には、ようやく静かな空気が戻っていた。
誰もいない石壁の前で、カイルはそっと壁に手をつく。
そして堪えていたものを吐き出すように、大きく息を吐いた。
張り詰めていた緊張が、ようやく体の奥から抜けていく。
そのとき、静かな回廊に軽い足音が近づいてきた。
カイルが振り向くと、そこに立っていたのは、リリアーナだった。
視線が合う。
言葉は交わされないまま、数秒の沈黙が流れた。
そして次の瞬間、カイルは衝動のまま彼女を強く抱き寄せていた。
腕の中に閉じ込めるように、逃がすまいとするかのように。
「……どうしたの?」
彼の胸に押しつけられたまま、リリアーナがくぐもった声を漏らす。
「カイル?」
その呼びかけに答えるように、カイルはそっと額を彼女の肩へ押しつけた。
「無理だった」
「なにがです?」
「冷静な顔」
リリアーナは小さく笑うと、そっと彼の背に腕を回した。
抱きしめ返すように、やさしく。
「心臓、止まるかと思った」
「私もです。……でも、あなたは選ばれました」
リリアーナの言葉に、カイルは静かに首を振った。
「……違う」
その瞳がわずかに柔らぐ。
けれど彼は、迷いを振り払うようにもう一度ゆっくりと首を振った。
そして低い声で告げる。
「俺が選んだ。未来も⸻あなたも」
カイルはそっと手を伸ばし、彼女の頬に触れた。
カイルは言葉を選ぶように、ただ静かに彼女を見つめた。
その沈黙の中に、言葉にできない想いだけがあった。
指先がなぞるように頬をすべり、そのままゆっくりと唇の近くで止まる。
カイルは一度だけ、何かを堪えるように目を閉じた。
触れられた指先のぬくもりに、リリアーナの頬はみるみるうちに赤く染まっていった。
「……王城ですよ」
「関係ない」
カイルはそっと身をかがめ、彼女の唇に軽く口づけた。
触れるだけの、やわらかなキス。
けれどそこには、言葉にしきれないほどの想いが込められている。
甘く、穏やかな時間が二人の間に流れた。
もう⸻試されることはない。
二人は、同じ未来を選んだのだから。
「これからは……堂々と、あなたの隣に立つ」
カイルが彼女の耳元で静かに囁く。
その言葉に、リリアーナは穏やかに微笑んだ。
「もとより、私の隣はあなたの席です」
迷いのない声音だった。
その一言に、カイルは完全に言葉を失う。
しばらくして、ようやく小さく息を吐いた。
「……ずるい」
「なにがですか」
首をかしげるリリアーナに、カイルは苦笑する。
「強すぎる」
「……ふふっ、あなたの婚約者ですから」
その答えに、リリアーナはくすっと笑った。
誇らしげでもなく、当たり前のことのように。
その言葉に、カイルはもう一度だけ彼女を抱き寄せた。
まるで確かめるように。
静かな回廊に、二人の穏やかな時間が流れる。
リリアーナは、そっと指先で唇に触れ、静かに微笑んだ。
そしてこれから先も⸻彼の隣には、きっと彼女がいる。
◇◇◇
その様子を、遠くから見つめていた男⸻王太子がいた。
あの男は使える。
剣の腕だけではない。
命令に従うだけの騎士ではなく、自ら選び取る強さを持っている。
だがそれ以上に、王太子の視線はリリアーナ・アステリア侯爵令嬢へと向いていた。
理で考えながらも、情で決断する胆力。
あれほどの気概を持つ女性はそう多くない。
もし王家に迎えることができるなら⸻王妃に据えたいと思ったのは本心だった。
だが、王太子は小さく息を吐く。
遅かったというよりも⸻最初から遅れていたのだ。
すでに、あの男が隣に立っている。
二人は一つの存在のようだった。
引き離すべきものではない。
むしろ、並び立つことで本来の力を発揮する類の人間だろう。
ならば⸻王家の敵に回すより、味方として迎える方がよい。
だからこそ試した。
そして、静かに⸻合格と判断した。




