第6話 王命
王城の謁見の間は、重い静寂に満ちていた。
第三隊隊長カイル・グレイは、王太子に単身呼び出され、玉座の前に立っている。
高く設えられた王座に座る王太子は穏やかに微笑んでいたが、その瞳の奥には鋭い光が宿っていた。
「……アステリア侯爵令嬢との婚約の件だが」
「はい」
短く答えるカイルに、王太子はわずかに沈黙したあと、静かに言葉を続けた。
「優秀な部下を失うのは惜しいと思っている」
「……どういう意味でしょうか」
カイルの眉がわずかに動く。
王太子はゆっくりと立ち上がり、玉座の階段を降りてカイルの前に立った。
「お前を、近衛へ引き抜きたい」
空気が静かに止まる。
近衛騎士──それは名誉であり、地位であり、出世の象徴でもあった。
だが王太子はすぐに本題を口にせず、一度カイルの反応を確かめるように視線を細めたあと、言葉を続けた。
「……だが、条件がある。侯爵令嬢との婚約は、一度白紙に戻してもらう」
低く落とされた声には、静かな圧が含まれていた。
カイルの拳が、ゆっくりと握られる。
「近衛は王家直属の騎士だ。貴族との縁は慎重であるべきだ」
理屈は通っており、否定しにくい提案だった。
だがそれは同時に、試すような問いでもあった。
「選べ──未来か。愛か」
王太子が穏やかな声で告げたその言葉には、カイルだけでなく、リリアーナを見定める意味も含まれていた。
◇
その頃、王宮の王妃のサロンにも、リリアーナは呼ばれていた。
繊細な彫刻の施された椅子に座り、王妃は優雅に微笑む。
紅茶のカップが静かに置かれる。
「あなたは聡明な娘だと聞いているわ……そして彼も、王家にとって必要な人材だと思っているの」
柔らかな声音だったが、その裏には別の意図が静かに潜んでいた。
「近衛に上がれば、彼の未来は保証されるでしょう。……あなたが身を引けば」
一拍の沈黙のあと、王妃は言った。
圧力はないが、選択を迫る空気だけがそこにあった。
そして、その言葉の奥には、王家の立場としてだけではなく、リリアーナという娘を静かに測る視線も混じっていた。
リリアーナは一度だけ小さく息を吐き、すぐに表情を整えると、ゆっくりと口を開いた。
「王家にとって最善をお望みですか?」
「ええ」
王妃は頷いた。
その目は、娘を諭す母のようでもあり、同時に別の可能性を静かに見ているようでもあった。
「でしたら──彼は私の隣にいるほうが、より強くなります」
その言葉に、王妃の目がわずかに細くなる。
一瞬、静かな考えの色がその瞳に浮かんだ。
政治的な判断と娘の意志、どちらも測るような目──リリアーナはその視線を逃さなかった。
言葉は柔らかくとも、その空気は確かに試されていることを告げていた。
「愛は弱みではありません。彼は逃げません。私も逃げません」
王妃は息を小さく吐き、視線を少し落とした。
リリアーナは微笑みを浮かべ、瞳の奥で自分の決意を確かめるように見つめた。
挑むでもなく、退くでもなく、ただ自分の選択を信じている者だけが浮かべる笑みだった。
「若いわね」
「はい。……ですが、愚かではありません」
◇
その夜。
窓の外では、夜風が静かに庭を揺らしていた。
カイルとリリアーナは、互いに言葉を交わさず向かい合っている。
沈黙は、もはや互いが何を聞き、何を選んだのかを理解している証だった。
先にその静けさを破ったのは、カイルの低い声だった。
「……近衛の話を」
「聞きました」
「出世の話だ」
「ええ」
短く返された言葉のあと、カイルは一度視線を落とし、静かに言葉を継いだ。
「……お前を守るには、力がいる」
「私は、あなたが私のために出世するのは望みません」
リリアーナが静かに一歩踏み出すと、その言葉の重みを受け取るように、カイルの瞳の色がわずかに変わった。
「選べと言われた」
「私もです。……あなたは?」
視線が絡み合い、互いの覚悟が伝わる。
その瞬間、カイルの心に迷いは微塵もなかった。
「選んだ。未来も、愛も。──両方掴む」
一歩距離を詰め、低く、しかしはっきりとした声で言葉を落とした。
「近衛に行く」
リリアーナの胸の奥で、息が小さく詰まる。
覚悟と期待が入り混じった、不思議な熱が体を巡った。
「だが──婚約は解消しない。条件は拒否した」
「……危険です」
王命に背くに等しい選択だった。
リリアーナが小さく警告のように言うと、カイルはそれを楽しむかのように、静かに笑みを返した。
「分かっている。……俺は、あなたの隣に立つ男だ。どちらかを捨てる選択はしない」
「……男前ですね」
リリアーナの胸が熱くなる。
思わず零した言葉に、カイルは一瞬、目を逸らした。
そのわずかな間の後、彼はためらうことなく身を寄せ、力強く彼女を抱きしめた。
「怖いか」
「いいえ。──あなたとなら」
王家を敵に回す未来があったとしても、それでもよかった。
この手を離すつもりは、互いに少しもなかった。
◇◇◇
試された。
愛か、未来か。
その問いは、王家からの試練であり、同時に評価でもあった。
王太子の瞳には、リリアーナそのものを値踏みする色も、わずかに混じっていた。
そして──どこか、惜しむような光も。
だが俺は迷わない。
彼女を失って得る地位など、空虚に過ぎない。
だが、彼女を守るには力がいる。
ならば──両方掴む。
王家にも証明する。
自分は彼女と並びながら、さらに上へ行ける男だと。
──絶対に。




