第5話 朝の体温
薄い朝日が、宿の部屋に静かに差し込んでいた。
朝の静けさの中、リリアーナはゆっくりと目を覚ました。
まだ眠気の残る視界を瞬かせながら顔を上げ⸻そして、目の前にあるものに思考が一瞬止まった。
カイルの胸元だった。
(……あ)
小さく息を呑む。
昨夜、あのまま境界線の手前で止まり、そのまま互いに背を向けて眠った⸻はずだった。
けれど今、彼の腕は彼女の腰に回っている。
完全に抱き寄せる形で。
無意識……いや、きっと完全に無意識だろう。
穏やかな寝顔の下で、腕だけが彼女をしっかり抱き込んで離さない。
(……これは)
逃げるべきか、それともこのまま黙っていようか。
少し迷ったあと、リリアーナはそっと手を伸ばし、彼の胸に触れた。
指先の下で、規則正しい鼓動が伝わってくる。
その落ち着いたリズムを感じているうちに、ほんの少しだけ、いたずら心が芽生えた。
「……隊長」
小さく囁くも、反応はない。
もう一度、今度は少しだけ甘く。
「……カイル」
その瞬間、腕の力がぴくり、とほんのわずかに強まった。
それでも、彼の目は閉じたままだ。
「……起きているでしょう?」
くすり、と笑いを含んで言う。
しばらくの沈黙のあと、低い声が落ちた。
「……起きていない」
あからさまな嘘に、リリアーナは思わず笑ってしまう。
「では、この腕は?」
「……無意識だ」
「そうですか」
彼女が少しだけ身をよじった、その瞬間だった。
ぐっと体を引き寄せられる。
完全に抱き込まれる形になった。
「……動くな」
目はまだ閉じているが、声はすでに完全に覚醒していた。
「理性が目覚める」
「もう目覚めております」
そう言うと、カイルは観念したようにゆっくりと目を開けた。
互いの息遣いがわかる距離。
朝日の中で髪を下ろしたリリアーナの顔がすぐ目の前にある。
どこか無防備なその表情に、思わず喉が鳴る。
「……試しているのか」
「いいえ?」
にこり、と微笑む。
だがその表情が、明らかに嘘であることはカイルには分かっていた。
カイルは小さく息を吐く。
「……昨夜は止めた」
「はい」
「だから今は⸻」
そう言いながら、彼の指がゆっくりと伸びる。
そしてそっと彼女の頬に触れた。
朝の光の中で、確かめるように優しく。
「少しだけ、甘えさせろ」
思いがけない言葉だった。
リリアーナの胸の奥で、心臓が小さく跳ねる。
彼が自分から甘えたいと言ったことは、これまで一度もなかった。
リリアーナは何も言わずそっと身を寄せ、そのまま彼の胸に額を預けた。
カイルの腕が、安心するように彼女を包み込む。
「……離れたくない」
「……私もです」
ぽつりと落ちた小さな本音に、リリアーナは微笑んだ。
昨夜のような激しい熱はない。
けれど、確かに深く穏やかな時間がそこにある。
ふと、カイルの指が彼女の手に触れた。
その指先が、彼女の指にはまった指輪をなぞる。
「現実だな」
「ええ」
「夢ではない」
「ふふっ、残念ながら」
くすりと笑ったその次の瞬間、カイルはそっと彼女に口づけた。
まるで朝の挨拶のような軽い、短いキスだった。
だがそこには、確かな愛情が込められている。
唇が離れたあと、カイルが低く言う。
「次に同じ状況になったら」
「はい?」
「保証はしない」
リリアーナの頬が少し赤くなる。
だがすぐに、強い女の笑みを浮かべた。
「では……理性を鍛えておいてください」
カイルは完全に言葉を失った。
戦いでは決して味わわない種類の敗北が、静かに胸の奥に落ちていた。
◇
宿を出ると、朝の街はまだ静かだった。
石畳の道を二人で並んで歩く。
その途中で、カイルがふと口を開いた。
「……少し寄る場所がある」
「お仕事ですか?」
「いや」
彼は少し言葉を選ぶようにして続ける。
「王太子殿下に顔を出しておいた方がいいかと思ってな」
リリアーナは頷いた。
王太子は今、この街を視察中だ。
騎士団の隊長として挨拶をしておく必要があるのだろう。
「私はここで待っております」
「すぐ戻る」
そう言って、彼は建物の中へ入っていった。
リリアーナが通りの端で待っていると、背後から声が落ちた。
「一人か」
振り向くとそこにいたのは、王太子だった。
リリアーナは静かに礼をする。
「王太子殿下」
「そう固くなるな」
王太子は軽く手を上げた。
そして視線は建物の方へ向く。
「……カイルは中か」
「はい」
王太子は小さく笑った。
「昔から変わらないな、あの男は」
「殿下は隊長をよくご存知なのですね」
「騎士団に入る前から知っている」
少しの沈黙のあと、王太子は空を見上げるように言った。
「だから驚いた」
「何がでしょう?」
「君を選んだことだ」
まっすぐにリリアーナを見つめて王太子は言った。
瞬きをするリリアーナに、王太子は肩をすくめて少し笑った。
「誤解するな。彼が君を選んだのではない。君が彼を選んだのだ」
その言葉にリリアーナはわずかに表情を柔らげる。
王太子はふっと笑い、低く続けた。
「本当は……君を王妃にと考えたことがある」
空気が静かに止まった。
だがリリアーナは驚かなかった。
ただ、静かに答える。
「光栄です」
「だが遅かった。君はもう選んでいる」
「ええ。私は、自分で選びました」
迷いなく頷くリリアーナをみて、王太子は小さく笑った。
「そうだろうな。彼はいい男だ。……だが、騎士だ」
何か意味を含んだ言葉だった。
しかしそれ以上は続けず、王太子は背を向ける。
「安心しろ。奪うつもりはない……もう遅い」
その言葉を残してそのまま去っていった。
そのすぐ後、カイルが戻ってくる。
「……待たせたな」
「いいえ」
リリアーナは微笑んで返すも、カイルは一瞬周囲を見渡し、少しだけ目を細める。
「……殿下に会ったな」
「どうして、分かったのですか?」
「顔だ」
「顔?」
「……そんな顔をしている」
リリアーナは驚くも、少しの沈黙のあと小さく笑った。
「ふふっ、さすがですね」
「……何を言われた?」
「大したことではありませんわ。ただ……昔、私を王妃にと考えたことがあるそうです」
空気が一瞬止まった。
だがカイルは歩き出しながら、淡々と言う。
「……そうか。……殿下の目は確かだ。だが」
そう言って、自然に彼女の手を取る。
視線が一瞬、彼女の指輪に落ちた。
「選ばれたのは俺だ。⸻それだけで十分だ」
リリアーナが不思議そうに見る。
「怒らないのですか?」
「今さらだ。お前はもう俺の婚約者だ」
そのまま歩きながら小さく続けた。
「……渡さない」
リリアーナの心臓が跳ねた。
カイルは前を向いたままだったが、耳だけがほんの少し赤かった。
◇◇◇
朝、目覚めると腕の中には彼女がいた。
無意識——いや、きっと分かっていた。
昨夜の理性の反動が静かに残っている。
だが焦る必要はない。
急ぐ必要もない。
それでも⸻次は、本当に危うい。
◇
殿下の話を聞いた。
昔、王妃にと考えたことがある、と。
当然だろう。
あの方なら、リリアーナの価値に気づくはずだ。
むしろ、気づかない男の方がおかしい。
胸の奥がわずかにざわついたが、今さらだった。
視線を落とすと、彼女の指先に指輪が光っている。
⸻婚約の証。
それは自分が用意したものではない。
だが、それを選んだのは彼女だ。
……離す気はない。
彼女は隣にいる。
それだけでいい。
渡す気はない⸻絶対に。




