第2話 お礼という名の侵入作戦
騎士団視察は「本日限り」の予定だった。
──そう思っていたのに。
「本日もお邪魔しておりますわ」
朝の光が差し込む第三隊訓練場に、今日も侯爵令嬢リリアーナが現れた。
春の空気を背に、変わらずにこやかな笑みを浮かべていた。
騎士たちは顔を見合わせ、隠す気もなく小声で囁く。
「また来たぞ」
「隊長、逃げてください」
「いや、もう無理だろ」
当の隊長は、部下たちの視線を一身に受けながら小さく息をついた。
「……本日は、どういったご用件で」
努めて平静を装った声は、わずかに硬い。
その問いを待っていたかのように、リリアーナは微笑んだ。
「差し入れです」
軽く手を叩くと、控えていた侍女が一歩進み出て大きな籠を差し出す。
布越しに、ほのかに甘い香りが漂った。
「焼き菓子を用意しましたの。皆さまでどうぞ」
訓練場の空気がふっと和らぐ。
「「ありがとうございます!」」
先ほどまで剣を振るっていた騎士たちの顔が、一斉に明るくなった。
「隊長! いただいても!?」
「毒味します! 俺が!」
「失礼なことを言うな」
ぴしゃりと叱責が飛び、騎士たちは慌てて背筋を伸ばす。
だがその厳しさとは裏腹に、カイルの口元はわずかに緩んでいた。
浮き立つ部下たちを、完全に咎める気はないらしい。
その変化を、リリアーナは見逃さない。
灰色の瞳の奥に宿る柔らかさも、声の端に滲んだ温度も、そっと拾い上げる。
そして、内心で静かに微笑んだ。
「隊長は召し上がらないのですか?」
「任務中ですので」
「では、休憩になりましたら?」
ためらいなく一歩、距離を詰める。
それに呼応するように、カイルは半歩だけ後退した。
わずかな差。
けれど、互いの呼吸がかすかに交わる間合いは、今日で三度目になる。
「……なぜそこまで」
低い問いに、かすかな戸惑いが混じる。
リリアーナは小首を傾げた。
「お礼ですわ」
「それは昨日、受け取りました」
「では、これは友達としてです」
カイルの眉が、わずかに動く。
「友達という関係は」
「継続するものです」
間を置かない返答に、周囲の騎士たちがとうとう小さく噴き出した。
「隊長、詰んでません?」
「理詰めで来てる……!」
カイルは小さく息を吐き、灰色の瞳でまっすぐ彼女を見つめる。
「……俺と親しくしても、令嬢に利益はありません」
「利益で友達を選びませんわ」
迷いのない声だった。
さすがのカイルも言葉を失い、わずかに息を詰まらせる。
その沈黙を逃さず、リリアーナはさらに一歩踏み出した。
ほんのわずか。
けれど確実に、距離が縮まる。
「それとも……」
少しだけ背伸びをするように顔を上げ、逸らされがちな視線を正面から捉える。
「迷惑、ですか?」
柔らかな声音。
だが逃げ道は与えない。
その瞬間、カイルの表情がかすかに揺れた。
灰色の瞳がわずかに見開かれ、言葉を探す沈黙が落ちる。
「……迷惑では、ありません」
低く落とされた声は小さい。
それでも確かに届いた。
胸が、ふわりと弾む。
「では問題ありませんわね!」
花が開くように、リリアーナは笑った。
第三隊の空気が一瞬、止まる。
「……可愛い」
「おい、声出てるぞ」
「令嬢、天使では?」
張りつめていた空気は一気に崩れ、騎士たちの頬が緩む。
「また差し入れ楽しみにしてます!」
「俺、甘いの好きなんです!」
口々に飛ぶ声に、リリアーナはくすくすと笑って頷く。
「ええ、皆さまの分もご用意しますわ」
さらに歓声が上がった。
まるで、彼女を囲む輪の中心がそこに移ったかのように。
──その輪の外側に、ひとり距離を置く男がいる。
灰色の瞳が、わずかに細められた。
笑う彼女の姿を、無意識のうちに目で追ってしまう。
「……訓練に戻れ」
低い声が飛ぶ。
「隊長、顔赤い」
「黙れ」
即座に返すものの、耳の先は赤いままだ。
理由は分からない。
ただ、胸の奥が静かにざわついている。
それを知ってか知らずか、リリアーナはくすりと笑った。
「侯爵令嬢が第三隊に通っているらしい」
そんな声が、騎士団内でひそやかに囁かれ始めていた。
それを面白く思わない者も、当然いる。
◇◇◇
甘い匂いが、まだ胸の奥に残っている気がした。
焼き菓子ではない。
あの令嬢が残していった笑顔の余韻だ。
春の陽だまりのように無防備で、まっすぐで、眩しい。
距離を取れ、と何度も言い聞かせる。
身分も立場も違う。
本来なら交わるはずのない世界の住人だ。
そう理解しているはずなのに、意識は勝手に彼女を追ってしまう。
「迷惑ですか?」
あんな顔で問われて、否定できる人間がいるだろうか。
利益で友達を選ばない、と彼女は言った。
あの瞳が偽りでないことくらい、分かっている。
だからこそ危うい。
噂になれば笑われるのは俺で済む。
だが傷つくのは、きっと彼女だ。
近づくべきではない。
理性は、何度もそう告げている。
それなのに。
「また来ても?」
期待に満ちた瞳を向けられた瞬間、拒絶の言葉は喉で消えた。
「……訓練の妨げにならない範囲で」
口にしたのは、許可だった。
小さな苦笑が漏れる。
自制が、少しずつ崩れている。
その事実に、わずかな安堵すら覚えている自分を、まだ認めきれずにいた。




