第4話 理性の境界線
王都郊外の夜だった。
視察を終え、王都へ戻る途中のことだ。
乗っていた馬車が不運にも故障し、やむを得ず近くの小さな宿に泊まることになった。
宿は街道沿いの簡素な建物だった。
遅い時間だったこともあり、空いている部屋はほとんどないらしい。
宿の主人が申し訳なさそうに頭を下げた。
「大変申し訳ありません。空きが一室だけでして……」
その言葉に、しばし沈黙が落ちる。
隣でカイルの顎がわずかに強張った。
対してリリアーナは、驚くほど平然としている。
「構いません」
あっさりと言い切った。
どうやら、彼女は構わないらしい。
構わなくないのは──カイルの方だけだった。
◇
案内された部屋は質素だった。
簡素な寝台が一つと、小さな机というそれだけの狭い空間だ。
当然ながら、距離は近い。
夜着に着替えたリリアーナは、いつもより柔らかな雰囲気を纏っていた。
長い髪を下ろした姿は普段よりもずっと無防備で、部屋の灯りの下で静かに揺れている。
カイルは窓際に立ち、外を見ていた。
夜の街道は静かで、遠くに虫の声が聞こえる。
「隊長」
「……何だ」
短く答えたきり、カイルは振り向こうとしなかった。
「こちらを向いてください」
リリアーナがそう言うと、間髪入れずに返事が返ってくる。
「向かない」
あまりにも即答だった。
その反応に、リリアーナは思わず小首をかしげる。
まるで子どもが意地を張っているようだった。
「なぜです?」
「……理性があるからだ」
カイルは少しだけ間を置き、低く答えた。
あまりにも率直な言葉に、リリアーナの頬がわずかに赤くなる。
だが──今日は、少しだけ意地悪をしたくなった。
静かに歩み寄り、リリアーナは彼の前で足を止めた。
ほんのわずかに見上げる距離。
「私、信用されていませんか?」
その言葉に、カイルがついに振り向いた。
そして次の瞬間、視界に入ったものに息を呑む。
柔らかな夜着。
肩に落ちる下ろした髪。
そして、灯りを受けて静かに光る婚約指輪。
どれもが、いつもより無防備に見えた。
思わず、カイルの喉が小さく鳴る。
「……そういう意味ではない」
「では?」
リリアーナが、もう一歩だけ近づく。
それだけで、互いの息遣いがわかる距離になった。
「私は婚約者です。……怖いのですか?」
リリアーナが微笑みながらそう言った、その一言が引き金になった。
次の瞬間、カイルの腕が伸びる。
ぐっと腕を掴まれ、そのまま引き寄せられた。
背中が壁に触れたのは、一瞬後だった。
逃げ場を失い、リリアーナの息が思わず止まる。
「怖い?……あなたを傷つけることが怖い」
低い声が耳元に落ちる。
その近さに、思わず息が揺れた。
次の瞬間、カイルの額がそっと触れる。
気づけば、互いの呼吸がかかるほどの距離だった。
二人の間には、もうほとんど隙間がない。
「……俺は男だ」
「知っています」
「あなたが思っているより、ずっと──欲がある」
熱を帯びた視線とその言葉に、リリアーナの胸が大きく高鳴った。
それでも、逃げない。
「……欲、ですか?」
「あなたに触れたい。……全部、俺のものにしたい」
カイルの手がそっと顎を持ち上げた。
リリアーナの瞳がわずかに揺れる。
その視線を見たカイルが、低く息を吐いた。
「……そんな顔で、俺を見るな」
「私は、あなたの理性を信じているわ……カイル」
小さくそう返すと、カイルの目が細くなる。
「……わざとか?……タチが悪いな」
指がそっと顎を持ち上げる。
「──後悔するぞ」
次の瞬間、唇が触れた。
最初は確かめるような、静かな口づけだった。
だがすぐに、それは深く長いものへと変わっていく。
互いの息が絡み合い、なかなか離れない。
思わず、リリアーナの指が彼の服を掴んだ。
無意識の仕草だった。
その小さな動きに応えるように、カイルの腕が背に回る。
ぐっと引き寄せられ、距離はさらに縮まった。
逃げ場のないほど近い距離で、体温が一気に上がる。
あと一歩で、本当に境界線を越えてしまう──その瞬間だった。
カイルが、ぴたりと止まる。
唇がわずかに離れた。
荒くなった呼吸が、すぐ近くで重なる。
そのまま額を押しつけるようにして、まるで自分を押さえ込むようにカイルが目を閉じた。
そして、ゆっくりと距離を取る。
「……まだだ。大切にしたい」
わずかに震えた声でそう言った。
息を整えるように目を閉じ、そっと額を合わせる。
「あなたを……あなたが選んだ未来を、こんな衝動で壊したくない」
カイルは、強くリリアーナを抱きしめた。
その腕には迷いがない。
けれど、それ以上のことはしない。
ただ、抱きしめるだけだった。
「俺はあなたを愛している。……だから、待つ」
真剣な声での言葉が落ち、しばらく沈黙が続いた。
リリアーナの瞳が潤み、小さく笑った。
「……ずるいです。そんなことを言われたら」
そっと彼の胸に顔を埋めた。
「もっと好きになります」
カイルは完全に言葉を失った。
理性は──ぎりぎりで保たれていた。
◇
本当に、危なかった。
止めなければ、きっと止まらなかった。
彼女は逃げなかった。
それが、余計に理性を揺らす。
指が、彼女の髪に触れかけて止まった。
奪うのではない。
選ばれ続ける男でいたい。
……とはいえ、今夜は眠れそうにない。
彼女が、すぐ隣にいる。
さっきまで腕の中にいた温もりが、まだ消えない。
……試練だ。




