第3話 婚約者の余裕、崩れる
第三隊の訓練場には、今日も規則正しい掛け声が響いていた。
剣が振られ、鎧の擦れる音と足音が整然と重なる。
そんな訓練の様子を、リリアーナは静かに見つめていた。
視察という名目で訪れた彼女は、堂々とその場に立っている。
婚約者として。侯爵令嬢として。
そして──誰の隣にいても揺るがない、強い女として。
第三隊の隊員たちも、今ではすっかり慣れたものだった。
訓練の合間にちらりと視線を向け、軽く礼をしてから、またすぐ動きに戻る。
そんな穏やかな空気が流れていた、その時だった。
「隊長!」
明るい声が訓練場に響いた。
振り向けば、若い女性騎士が小走りでカイルのもとへ駆け寄っている。
どうやら新任の補佐官らしい。
彼女は笑顔のまま書類を差し出しながら、自然な仕草でカイルの腕に触れた。
おそらく、まったく意識していない動作だったのだろう。
だが──触れている。
その瞬間、リリアーナの視線がぴたりと止まった。
カイルはすぐに一歩だけ後ろへ下がる。
「机に置け」
短く、素っ気ない声だった。
しかし女性騎士は、その微妙な距離の変化に気づいていない。
「さすが隊長ですね。頼りになります」
屈託のない笑顔。
近い距離。
無防備な空気。
その光景を見つめながら、リリアーナの胸の奥に、小さな棘のような感覚が生まれていた。
(……近い)
強い女でありたい。
そう思っているのに──気づけば、足が自然と動いていた。
次の瞬間には、二人の間にそっと立っている。
「こんにちは」
にこりと完璧な微笑みを浮かべると、女性騎士が一瞬だけ固まった。
「あ、侯爵令嬢様……」
「婚約者です」
「え?」
「婚約者です」
穏やかな声で、しかしはっきりと訂正する。
その一言で、空気がわずかに変わった。
カイルは短く息を吐き、口を開く。
「こちらは優秀な補佐官だ」
フォローのつもりだったのだろう。
だが、その言葉が逆にリリアーナの感情を刺激したことに、彼はすぐに気づいた。
「ええ、存じております」
リリアーナの微笑みは崩れない。
けれど、その目はまったく笑っていなかった。
女性騎士はようやく空気を察したのか、慌てて一礼すると足早にその場を離れていった。
背中が遠ざかり、訓練場の一角に小さな沈黙が落ちる。
「……怒っているのか」
「いいえ?優秀な補佐官なのでしょう?」
即答した声は穏やかだが、わずかに硬い。
そのやり取りを、訓練場の端で見守っていた隊員の一人が小声で呟いた。
「……隊長、詰んだな」
「静かにしろ。殺されるぞ」
「いやでもあれ、リリアーナ様が可愛い……」
「分かる。あの『婚約者です』、破壊力高すぎる」
「俺もあんな可愛くて美人な婚約者ほしー……」
「お前ら後で走れ」
遠くからカイルの低い声が飛び、隊員たちは慌てて姿勢を正した。
その様子を横目に、リリアーナは小さく息を吐く。
するとカイルが一歩近づいた。
「嫉妬しているのか」
「していません」
きっぱりとした否定だった。
だが、その後にほんの少しの間が空く。
そして、声が小さく落ちた。
「……少しだけです。婚約者として、気になってしまっただけですから」
あまりにも正直な言葉だった。
カイルの目が、静かに柔らかくなる。
そしてリリアーナがぽつりと呟く。
「……触れていたんですもの」
「無意識だ」
「分かっています」
「俺は避けた」
「見ていました」
短い言葉が交わされ、再び沈黙が落ちる。
リリアーナは視線を少し下げ、胸にそっと手を当てた。
「分かっているのに……嫌でした」
その言葉に、カイルの理性が揺れた。
気づけば、訓練場の隅で人目も構わず腕を引き寄せていた。
「俺は……あなた以外に触れない。あなた以外を見ない」
視線を合わせると、リリアーナの瞳がわずかに揺れた。
「あなたが選んだのは、俺だ」
「ええ」
「なら、自信を持て」
そっと額が触れ合う。
「──俺はあなたのものだ」
以前言った言葉を、静かに返す。
頬が熱くなるのを感じながら、リリアーナは小さく呟いた。
「……ずるいです」
「婚約者の特権だ」
そう言って、軽く唇が触れる。
短く、しかし確かな口づけだった。
遠くで隊員たちがざわめく。
「……今の見たか」
「見た」
「隊長、訓練場でやるタイプだったのか」
「黙れ。聞こえる」
慌てて姿勢を正す気配が広がる。
だがリリアーナはそんな様子など気にした風もなく、そっとカイルの腕に腕を絡ませ、小さく笑った。
「では、私も特権を使います」
「何だ」
リリアーナは答えなかった。
その代わりに、くるりと振り向く。
訓練場にいる第三隊の騎士たちを見渡し、にっこりと微笑んだ。
そして──
「皆さん」
澄んだ声が訓練場に響く。
隊員たちがびくりと姿勢を正す。
「隊長は私の婚約者ですのでーーどうぞ、お手柔らかにお願いしますね」
リリアーナはにこりと微笑んだ。
その瞬間、訓練場がぴたりと静まり返る。
隊員たちは互いに顔を見合わせた。
次の瞬間──
「隊長、完全に囲い込みだな」
「いやむしろ公表された」
「俺たち何に気をつければいいんだ」
「距離だろ」
「距離だな」
遠くから、低い声が鋭く飛んだ。
「お前ら全員走れ」
次の瞬間、隊員たちが一斉に動き出す。
慌てて散る足音と鎧の音が訓練場に響いた。
その騒ぎの中で、誰かがぽつりと呟く。
「……第三隊、平和だな」
◇◇◇
──彼女が揺れた。
あの強い彼女が。
それだけで胸が熱くなる。
独占欲は、自分だけのものではない。
彼女もまた、同じだった。
ならば、守るだけでは足りない。
奪われない強さを持つ。
そして──次に誰かが触れたなら。
理性が保てる保証は、どこにもなかった。




