第14話 迎えに行く
侯爵家の書斎は、いつもと変わらぬ静謐に包まれていた。
重厚な扉の前に立ち、リリアーナは一度だけ呼吸を整える。
「お父様、お時間を頂戴できますか」
入室を許されると、侯爵は書類から視線を上げた。
その目に驚きはない。
「来ると思っていた。隊長殿に会ったな」
「はい」
「一度、思い留まるよう伝えた」
「存じております」
リリアーナがすぐに返事を返すと、侯爵はゆっくりと椅子にもたれた。
「恨んでいるか?」
静かな問いだった。
だがそこには、父として娘を案じる重みが、確かに宿っていた。
「いいえ。……感謝しております」
一瞬だけ、侯爵の瞳がわずかに揺れた。
すぐに表情は戻るが、その奥に、父としての静かな思いが滲んでいた。
「彼は本気でした」
「……そうか」
「だからこそ、離れたのです。私を守るために」
書斎に、静かな沈黙が落ちた。
侯爵は言葉を続けることなく、ただ娘の瞳をじっと見つめる。
そこに涙はなく、揺らぎもない。
ただ、選び取った道をまっすぐに見据える強さだけが、静かに宿っていた。
「お父様。私は、守られるだけの娘ではありません」
リリアーナは一歩、前へ出た。
言葉は穏やかだが、芯は揺るがない。
「政略の駒になる覚悟もございます。侯爵家の娘として、それは当然のことです。……ですが、自分で選ぶ覚悟も、持っております」
その言葉に書斎の空気が張り詰める。
「私は⸻彼を選びます」
侯爵の目が細まる。
「身分は?」
「超えます」
「困難は?」
「共に越えます」
「後悔は?」
「いたしません」
一歩も退かない。
やがて侯爵は、深く息を吐いた。
「似てきたな」
「……誰にでしょう?」
「……私にだ」
小さな笑みが、口元に浮かぶ。
そして、声音を引き締めた。
「……条件がある」
リリアーナの背筋が、すっと伸びる。
「私は父だが、同時に侯爵だ」
静かな声が、書斎の空気にゆっくりと溶けていくように続いた。
「王太子殿下が、お前を高く評価しておられることは知っているな」
その言葉に、リリアーナはわずかに瞳を細めた。
王太子からの正式な婚姻の申し出はまだ届いていない。
だがもし王家が望めば、その選択は国の意思と無関係ではいられない。
つまり、彼女の選択はすでに個人の感情だけの問題ではなく、国という意志の影にも触れる場所にあった。
侯爵は娘を見た。
試すようでもあり、父として案じるようでもある視線だった。
「そのすべてを承知した上で、それでも彼がここへ来るのなら——父として、私は答えよう」
静かでありながら、決して揺るがない宣言だった。
「必ず、来ると信じています」
その言葉に、彼女は迷いなく微笑み、確信に満ちた声で返す。
侯爵はゆっくりと頷く。
「ならば、好きにしろ」
その一言は、拒絶でも祝福でもなかった。
ただ、選択を許す静かな許しだった。
その一言を胸に、リリアーナは深く一礼した。
扉を出る頃には、迷いは消えていた。
父としての許しと、侯爵としての試し。
その両方を受け取ったまま、彼女は扉を開いた。
向かう先は⸻第三隊訓練場。
◇
夕暮れの訓練場に、鋭い金属音が響いていた。
隊長は一人、剣を振るっている。
荒々しく、それでいてどこか追い詰められたような太刀筋だった。
「隊長」
その声で、剣が止まる。
振り返った瞬間、彼の呼吸が止まった。
「……なぜ来た」
かすれた声だった。
リリアーナはまっすぐ歩み寄る。
「迎えに来ました」
夕陽を背にしたその姿から、迷いは感じられない。
「離れたはずだ」
「離れられておりません」
ゆっくりと、距離が縮まる。
胸が触れそうなほどの近さ。
互いの体温が届くかもしれない境界で、リリアーナはまっすぐに彼を見上げた。
「⸻お父様と話しました」
その言葉に、彼の表情がわずかに硬くなった。
「……怒られただろう」
「いいえ」
リリアーナは、静かに微笑んだ。
「条件付きで、許可をいただきました」
「条件?」
わずかに彼の声が硬くなった。
リリアーナは、落ち着いたまま静かに首を振る。
「あなたが、正面からお父様の前に立つことです」
その言葉に、彼の呼吸が一瞬止まる。
逃げずに来い、という意味。
身分も、立場も、覚悟も、すべて背負ったまま侯爵家に向かえということだった。
「……分かっている」
低く掠れた声が、静かな空気に落ちた。
言葉を探すように、彼はわずかに視線を揺らし、握り締めた手に小さな震えが走る。
その沈黙の中に、迷いと覚悟の境界が、確かに揺らいでいた。
「俺は……」
「逃げないでください。……守ると仰いました」
「……ああ」
「迎えに行くとも」
リリアーナはさらに一歩、踏み込んだ。
夕陽が、訓練場を赤く染めていた。
長く伸びた影が、二人の足元で交わる。
彼の呼吸は荒く、握られた剣先がわずかに震えている。
離れると決めた男の、揺らぎ。
リリアーナは、そのすべてを見た。
逃げない。
視線を逸らさない。
一歩、踏み出すと砂を踏む音が、やけに大きく響いた。
彼との距離が、あと半歩ほど。
胸が触れそうなほど近くで、静かに告げる。
「……私は来ました」
言葉は強くない。
だが、退路を断つ響きだった。
その瞬間、彼の理性が音を立てて崩れた。
強く、迷いなく抱きしめる。
「……勝てない。あなたには」
低く零れるその言葉に、リリアーナはその腕の中で、静かに笑った。
「勝たなくて結構です。……並んでください」
彼の瞳に、熱が宿る。
しばらくして、彼は小さく息を吐いた。
「……侯爵の前に立つ。逃げない」
腕の力が、さらに強まる。
リリアーナはその胸に額を預けた。
キスはない。
ただ、確かな鼓動だけが重なる。
言葉にならない想いが、胸の奥で静かに熱を持つ。
触れた体温だけが、互いに選んだ未来を確かにしていた。
「待っています」
彼女の囁きに、彼は深く頷いた。
夕暮れの空の下、二人の影は、同じ未来を見て伸びていた。
◇◇◇
彼女の温もりが、確かに腕の中にあった。
離れたはずだったのだ。
守るためだと、何度も自分に言い聞かせ、そうすることが最善だと信じ込もうとしてきた。
それなのに⸻「私は来ました」
あの一言で、積み上げた理屈も決意も、すべて崩れ落ちた。
俺は強くなろうとしていた。
彼女の隣に立つ資格を得るために、追いつこうと足掻いていたつもりだった。
だが違った。
あの人は、とうに隣に立つ覚悟を決めていたのだ。
俺を置いていくのではない。
並ぶために、自ら踏み込んできた。
勝てない、と思う。
強さでも。
覚悟でも。
それでも⸻だからこそ。
もう逃げるわけにはいかない。
侯爵の前に立つ。
身分差も、嘲笑も、向けられるであろう敵意も、すべて受け止める。
あの人が選んだ男として。
腕の中で、彼女の額がそっと胸に触れる。
「待っています」
その静かな声は、どんな剣よりも重く、そして誇らしかった。
俺は、もう逃げない。
この想いを、剣ではなく言葉に変えて伝える日が、必ず来る。
次に膝を折るときは、騎士としての忠誠のためではない。
一人の男として、願いを告げるためだ。
侯爵家の大広間で、胸を張り⸻彼女の隣に立つ未来を、静かに見据えた。




