第13話 共に立つ資格
王城の空気は、どこか澄みすぎているように感じられた。
朝の光が大理石の回廊に差し込み、床を白く照らしている。
行き交う文官や騎士たちは、すれ違いざまに自然と足を緩め、軽く一礼した。
柔らかな囁きが背後で交わされる。
「今日もお美しい……」
「侯爵令嬢はやはり別格だな」
聞こえないふりをしながら、リリアーナは穏やかに微笑む。
誰か一人だけに向けるのではない、場そのものを包むような微笑みだった。
足取りはゆったりとしている。
だが胸の奥では鼓動が少しだけ速い。
庭園で別れを告げられてから、三日。
たった三日だけれど、その時間は思いのほか長かった。
彼は姿を見せない。
正確には、見えない場所にいるのだと分かっている。
第三隊は変わらず任務に就き、働きぶりも以前と何ひとつ変わらないと報告は上がっている。
ただ──彼は、リリアーナの前にだけ現れない。
廊下の向こう、窓硝子に一瞬映った影。
視線が絡んだ気がした次の瞬間、彼は何事もなかったかのように進路を変えた。
明確な距離。
胸の奥がきゅ、と小さく締めつけられる。
それでも、背筋は崩れない。
彼が守るために離れたのなら、守られて終わるわけにはいかない。
「……お嬢様、最近お疲れではございませんか?」
侍女の問いに、リリアーナは足を止め、相手の顔をきちんと見た。
「心配をかけてしまったかしら? でも大丈夫よ。あなたこそ、昨夜は遅かったでしょう。無理をなさらないで」
思いがけない労りに、侍女は目を潤ませて深く頭を下げる。
その様子を見ていた若い文官が、思わず小さく呟いた。
「やはり……あの方は違う」
午後の社交サロンは華やいでいた。
紅茶の香りの中、自然と中央の席が空いているのは、誰がそこに座るかを皆が知っているからだ。
リリアーナが腰を下ろすと、場の視線が柔らかく集まる。
緊張しているらしい若い令嬢のカップがわずかに揺れているのを見て、リリアーナはさりげなく声をかけた。
「このお茶は初めてかしら? 少し香りが強いけれど、二口目からが美味しいのよ」
「そ、そうなんです……ありがとうございます」
少女はほっとしたように微笑み、空気が和らぐ。
それから、リリアーナは穏やかに話題を切り出した。
「第三隊の皆様の働きには、本当に頭が下がりますわね。最近は城内の巡回もいっそう丁寧になったと感じますの」
わずかに空気が揺れる。
先に名を出されたことで、牽制の矛先は鈍る。
「……リリアーナ様は、特に隊長殿とお親しいとか」
探るような声音に、リリアーナはゆっくりとカップを置き、相手をまっすぐに見つめた。
その瞳は澄んでいる。
「隊長殿は王城の要ですもの。敬意をもって接するのは当然のことでしょう? 皆さまも、頼もしく思っていらっしゃるのではなくて?」
問いかける形に変えられた一言に、数人が思わず頷く。
「……平民出身と伺いましたわ」
控えめな刃だった。
けれどリリアーナは微笑みを崩さない。
「実力でその地位に就かれた方を、家柄のみで量ることは王家に仕える者として恥ずべきことですわ。そうは思われません?」
否定ではない。
断罪でもない。
ただ、品位という高みに自然と皆を引き上げる。
沈黙のあと、誰かが小さく「その通りですわ」と呟いた。
サロンの空気は、いつの間にか穏やかに整えられていた。
噂は広がるだろう。
けれど同時に、彼女の名声もまた強く刻まれていく。
◇
夜、私室に戻りようやく一人になる。
月明かりの下で思い出すのは、あの掠れた声。
「今は、離れる」
苦しさを押し殺した響きだった。
「……ずるいわ」
小さく零れる。
守るために離れるなど、そんな優しさは望んでいない。
欲しいのは──並び立つこと。
◇
翌日、訓練場で彼の剣を見る。
荒々しく、それでいて迷いのない剣筋。
あれは己を鍛えるための剣だ。
胸は痛むが、誇らしくもある。
声はかけない。
代わりに、静かに決意を固める。
彼が迎えに来られる男になるのなら、私は迎えに行ける女になる。
守られるだけの存在ではない。
誰かの名声の陰に立つ存在でもない。
共に選び、共に立つ。
◇
翌朝、鏡の前に立つ自分の瞳は、揺らいでいなかった。
廊下を進めば、人々が自然と道を開ける。
侯爵家の書斎の前で足を止め、ひと呼吸。
守られる娘ではなく、選ぶ娘として。
扉を叩く。
「入りなさい」
父の視線を真正面から受け止め、リリアーナは静かに告げた。
「お父様、お時間をいただきたく存じます」
その声には、迷いはなかった。
◇◇◇
訓練場に乾いた金属音が響き渡り、振り下ろした剣が鈍い火花を散らした。
打ち合った衝撃が腕を震わせ、握り締めた柄が軋む。
荒い息を吐きながらも、カイルは剣を下ろさない。
「隊長、少し休まれては」
「問題ない」
副官の控えめな声に彼は短く首を振り、それだけ告げると、再び剣を構える。
身体を痛めつけていれば余計な思考は消えるはずだった。
だが、どれだけ刃を振るっても、胸の奥に巣食うものは消えてくれない。
三日前、庭園で告げた言葉が何度も蘇る。
──今は、離れる。
守るためだった。
自分が側にいれば、彼女に火の粉が降りかかる。
それは正しい判断だったはずだ。
理屈では、間違っていない。
それなのに、廊下の向こうを歩く彼女の姿を、思わず目で追ってしまう自分がいる。
朝の回廊では、自然と人々が道を開けていた。
文官が一礼し、若い騎士が頬を赤らめる。
彼女が柔らかな微笑みを向ければ、それだけで相手はどこか誇らしげになる。
あの人は、誰のものでもない。
分かっている。
だが同時に思い知らされる。
──俺がいなくても、あの人は揺るがない。
訓練場の端で、別隊の若い騎士たちの声が耳に入った。
「今日のサロン、侯爵令嬢がおいでになるらしい」
「一度でいいから話してみたいものだな」
何気ない会話のはずなのに、胸の奥に鈍い重みが落ちる。
理屈ではない。
自分から距離を置いたはずなのに、彼女の隣に誰かが立つ光景を想像しただけで、呼吸が浅くなる。
縁談の話も進んでいるだろう。
侯爵令嬢なら、申し込みは少なくないはずだ。
格式、財力、血筋──どれを取っても、自分より上だ。
剣を握る手に、無意識のうちに力がこもる。
俺は、まだ彼女の隣に立つ資格を掴めていない。
だから離れた。
そう自分に言い聞かせてきた。
そのとき、ふと視線を感じて顔を上げる。
回廊の向こう、訓練場を見下ろす位置に、彼女が立っていた。
一瞬だけ目が合い、胸が跳ねる。
だが彼女は何も言わない。
ただ誇らしいほど真っ直ぐな瞳でこちらを見つめ、静かに背を向けた。
追わないし、追えない。
喉の奥が焼けるように熱くなる。
あの目は、弱さを求めていなかった。
迎えに来いと、そう告げている目だった。
剣を握り直す。
奪われるかもしれない。
他の誰かが、あの隣に立つかもしれない。
その恐怖が、ようやくはっきりと形を持つ。
守るために離れた。
だが本当は──失うのが怖いのだ。
剣を振るう。
風を裂く音が、胸の奥の迷いを削り落としていく。
迎えに行ける男になる。
誰にも奪わせないためではない。
それは誇りのためでも、意地のためでもない。
あの隣に立つ資格を、自分の手で掴むために。
振り抜いた剣先は、まっすぐ前を向いていた。




