第12話 突き放す手
翌日。
王城の空気は、朝からどこか張り詰めていた。
磨き上げられた大理石の廊下はいつもと変わらぬ静けさを保っているはずなのに、足音がひとつ響くたび、見えない視線が絡みつくように感じられる。
第三隊隊長カイルは、その廊下を迷いなく歩いていた。
呼び出しを受けたのは、早朝。
差出人の名を見た瞬間、覚悟は決まっていた。
⸻侯爵。
重厚な扉の前で立ち止まり、ひと呼吸置く。
扉を叩くと、すぐに中から入室を許す声がかかった。
執務室奥の窓辺に立つ男は、柔らかな微笑を浮かべている。
「隊長殿」
その声音は穏やかだった。
だが、瞳の奥は凪いでいない。氷のように澄み、そして冷たい。
「娘に近づいているそうだね」
回りくどい前置きはなかった。
隊長は沈黙する。
否定はしない。
できない。
「身分は理解しているね?」
「……承知しております」
「では、なぜだ」
その一言に、目に見えぬ圧が乗る。
空気が、重く沈んだ。
カイルは視線を逸らさなかった。
「守るためです」
「……守る?」
わずかに侯爵の眉が動く。
だが、問い返す声は淡々としていた。
「噂、政略、王家の思惑……彼女は、利用される立場にあります」
言葉を選ばずに告げる。
逃げるつもりはない。
「だから?」
「俺が盾になります」
はっきりと、一歩も退かない。
侯爵の視線が鋭く細められる。
「あなたが側にいること自体が火種だと、理解しているか?……平民出身の隊長と侯爵令嬢。社交界は格好の見世物を欲しがる」
ゆっくりと、言葉を重ねる。
「娘を利用し、あなたを引きずり下ろす者も出るだろう。……彼女は強い。……だが、娘だ」
その一言に、父としての感情が滲んだ。
「夜ごとに届く縁談の書状も、陰で交わされる取引も、あの子はすべて知っている。それでも笑っている」
視線が鋭くなる。
「だがな、強いからといって、傷つかぬわけではない」
侯爵が静かに言う。
その一言は、理ではなく情だった。
「あなたが本気なら⸻一度、手を離せ」
空気が凍りついた。
カイルの呼吸が、わずかに乱れる。
「守るとはな、側にいることではない……自分を憎ませてでも、遠ざけることだ」
静かに、だが断罪するようなその言葉は、刃のように落ちた。
「娘を泣かせる覚悟がないなら、最初から近づくな」
拳が震える。
⸻それでも。
「……勘違いするな、隊長」
ぴしゃりと低い声が続く。
「私は、あなたを試しているのではない……あなたに選ばせているのだ」
ゆっくりと言葉を選ぶが、鋭い視線がカイルを射抜く。
「娘を選ぶか。娘の未来を選ぶか——両方を守れるほど、この国は甘くない」
そして、ほんのわずかに。
「あの子はな……幼い頃から、自分の望みを口にせず生きてきた」
微かに揺れた声で、静かに告げる。
「侯爵家の娘だからと、笑って飲み込んできた」
一瞬だけ、父の顔が滲み、鋭い視線に戻る。
「だからこそ⸻初めて望んだものを、軽い覚悟で壊すな」
それがどれほど残酷な命令か、分からぬ男ではない。
反論できない。
胸の奥で、何かが軋む。
「……承知しました」
搾り出すように答える。
その声が、自分のものではないように遠かった。
侯爵は何も言わなかった。
ただ、視線だけが重く残った。
◇
その日の夕刻。
約束の時間、庭園の一角でリリアーナは静かに立っていた。
西に傾いた陽が花々を淡く染め、風が柔らかく花弁を揺らしている。
足音が近づく。
振り返った瞬間、胸がわずかに痛んだ。
⸻違う。
距離が、遠い。
目が、合わない。
「……今日は、長くいられない」
硬い声だった。
感情を削ぎ落としたような、冷たい響き。
「何かありました?」
穏やかに問う。
けれど胸の奥では、小さな不安が騒ぎ始めている。
沈黙が落ち、夕風だけが二人の間を通り抜けた。
「……もう会うのはやめよう」
世界が、止まった。
音が遠のく。
鼓動だけが、やけに大きい。
「どうして?」
「あなたのためだ」
彼は目を合わせない。
「噂が広がる」
「広がれば、否定します」
「身分が違う」
「分かっています」
言葉が交わされるたび、距離がはっきりしていく。
リリアーナが一歩近づくと、彼は、一歩下がる。
それが、何より雄弁な答えだった。
胸が強く締めつけられる。
けれど、涙は落とさない。
強くあると決めたから。
「……俺では、足りない」
低く落ちたその言葉が、嘘だとすぐに分かった。
本当は、怖いのだ。
傷つくリリアーナを見る未来が。
「隊長。本心ですか?」
もう一歩、踏み出すと、今度は彼は動かなかった。
静かに問いかけると、返ってきたのは、答えではなく沈黙だった。
否定しないということが、何よりの答えだった。
彼は自分を守ろうとしているのではない。
私を守ろうとしている。
だからこそリリアーナは背筋を伸ばした。
瞳は、揺れない。
「では、私は諦めません。あなたが離れても、私が掴みます」
はっと、彼が顔を上げる。
真っ直ぐに、逃げ場を与えぬほどに。
「守ると言ったのは、あなたです。……なら、最後まで守ってください」
その強さが、別の意味で彼の理性を軋ませる。
「……俺は」
何かを言おうとして、言葉が続かない。
拒むはずの心が、揺らぐ。
「好きです。……あなたが思うより、ずっと。」
重ねるように、彼女が告げた。
涙は零れない。
けれど、かすかに震えるその声が、真っ直ぐに胸を刺す。
守るために離れようとしているはずなのに、その想いが強いほど、足は地に縫い止められる。
思わず手が伸びかけた。
抱き寄せたい。
壊れるほどに、強く。
すべてを忘れて、その温もりだけを選びたくなる。
だが⸻そこで、止める。
「今は、離れる」
その言葉を吐くたびに、胸の奥が裂ける。
本心は違うと叫んでいるのに、それでも続ける。
「……必ず迎えに行ける男になる」
掠れた声でそれだけを告げると、彼はゆっくりと背を向けた。
振り返らない。
振り返ってしまえば、きっとすべてが終わる。
理屈も覚悟も投げ捨てて、彼女を抱き寄せ、そのまま連れ去ってしまうだろう。
だから歩く。
衝動を押し殺すように、ただ一歩ずつ、確かめるように。
夕暮れの光の中で遠ざかっていくその背中を、リリアーナは追わなかった。
追えば、彼の決意を踏みにじることになると分かっている。
ただ静かに、その名を胸に抱いたまま、そっと呟いた。
「待ちませんわ。⸻私が迎えに行きます」
その声は祈りではなく、決意だった。
◇◇◇
カイルは振り返らなかった。
振り返れば終わると、分かっている。
あの距離で彼女の瞳を見てしまえば、理性など簡単に崩れる。
衝動のまま抱きしめ、すべてを捨ててでも連れ去ってしまうだろう。
抱き寄せれば、きっとあの甘い花の香りが衣に残る。
それを振り払う覚悟など、今の自分にあるはずがない。
侯爵の言葉は正しい。
自分は火種だ。
平民出身の隊長と侯爵令嬢⸻それだけで十分、彼女の未来を燃やしかねない。
脳裏に焼きついて離れないのは、あの瞳。
揺れもせず、逃げもせず、真っ直ぐに自分を見上げた強さ。
「私が迎えに行きます」
あれは強がりではない⸻本気だ。
彼女は来るだろう。
誰に止められようと、奪いに来る。
その時は⸻もう逃げない。
だから今は、離れる。
次こそは⸻手を離さない。




