第10話 夕暮れの温度
王都の外れ、小さな丘へ続く道は、夕暮れの光に静かに染まっていた。
空はゆっくりと朱色を深めていき、地平の向こう側へ沈もうとする太陽が、薄く伸びた雲をやわらかく照らしている。
人通りは少なく、風だけがゆっくりと草を撫でながら丘の上を流れていた。
少し冷たい空気が頬に触れるたび、日が落ちていく時間の気配を強く感じる。
「待たせた」
低く落ち着いた声が背後から聞こえた。
リリアーナは振り向く。
そこに立っていたカイルは、いつもと同じように真っ直ぐこちらを見ていたが、夕暮れの光を受けたその表情はどこか硬く、少しだけ緊張しているようにも見えた。
「待っていませんわ」
すぐにそう答えた。
本当は三十分ほど前からここにいた。
丘の上から王都の街並みが赤く染まっていくのを眺めながら、彼が来るのを静かに待っていたのだが、それを口にするつもりはなかった。
二人はゆっくりと並んで歩き出した。
指先が触れそうで、しかし触れない距離。
昨日は手を握った。
今日はどうしようかと、どこかで考えながらも答えは決まっている気がしていた。
沈黙は不思議と重くなかった。
むしろ、甘くゆっくりと時間を包み込むような静けさだった。
「……寒くないか」
「少しだけ」
そう答えた瞬間、肩に温もりを感じた。
彼の外套が静かにかけられていた。
「風邪を引く」
短い言葉だったが、距離は近い。
外套の中に包まれると、自然と体が彼の方へ寄ってしまう。
すぐ近くに胸板の存在を感じてしまい、鼓動が聞こえてしまいそうな気がした。
「隊長」
「……何だ」
「今、どきどきしています?」
「していない」
即答だったが、耳の奥に届く鼓動は明らかに速い。
リリアーナはそっと手を伸ばし、彼の胸元に触れた。
指先に伝わる鼓動は、予想以上に強く、速く、まるで理性を必死に抑え込んでいるようだった。
「嘘つき」
小さく笑った瞬間、カイルの手が反射的に彼女の手を掴んだ。
逃がさないように、ぎゅっと力が込められる。
「……触るな」
低く落とした声は、掠れていた。
自分でも抑え込んだはずの熱が、言葉の端に滲み出てしまう。
吐息が触れてしまいそうなほどの場所に、彼女がいる。
逃げたいのに、離したくない。
矛盾した感情が胸の奥で静かに軋み、喉の奥がわずかに乾く。
「……どうして?」
夕暮れが静かに沈んでいく。
外套の中に包まれると、彼の体温だけがやけに近く感じられた。
鼓動が聞こえてしまいそうなほど、距離は短い。
「……理性が持たない」
低く零れた声は、逃げ道を探すようで、しかし本気で逃げる気はない響きを含んでいた。
「持たなくても、いいのでは?」
試すような問いに、カイルの喉が小さく動く。
一歩、木の幹へ背が触れる。
もう後退する場所はない。
吐息が混ざりそうな距離。
それでも彼は動かなかった。
「……あなたは、ずるい」
「分かっています」
リリアーナは小さく笑う。
「でも、好きなんです」
その言葉に、額がそっと触れた。
指先が頬を撫でる。
壊れ物に触れるように、ゆっくりと。
「好きだ。何度でも言う」
掠れた声は、抑え込んだ熱を隠しきれていなかった。
顎を軽く持ち上げられる。
唇が触れそうになる直前、動きが止まる。
「……まだ、ここまでだ。大切にしたい」
「何を?」
「……あなたを」
苦笑混じりの声が落ちる。
リリアーナは、少しだけつま先立ちになった。
唇が触れたのかどうかさえ曖昧なほど、ほんの一瞬だけ距離が重なった。
それでも確かに熱だけが残り、カイルの体が一瞬止まる。
「今のは」
「覚悟してくださいと、言いました」
外套の中で、腕が静かに背を包む。
強くはない。
それでも、離すつもりのない力だった。
「……本気で溶ける」
零れた独白に、リリアーナは胸元に顔を埋める。
「一緒に溶けましょう」
風が吹く。
それでも寒くはなかった。
夕暮れは静かに深まり、二人を包む時間だけが、ゆっくりと王都の外れに沈んでいった。
◇◇◇
もし、あのまま距離を詰めていたら、どうなっていたか分からない。
たぶん、止まれなかった。
自分が自分でいられる境界線を、簡単に越えてしまっただろう。
あの瞳。
まっすぐで、迷いがなくて、こちらを信じている色をしていた。
あの声。
静かで、それでいて逃げ道を作らせない強さを持っていた。
そして、あの小さな口づけ。
触れたかどうか分からないほどの距離だったのに、確かに熱が走った。
ほんの一瞬だったはずなのに、感覚だけが妙に長く残っている。
本気で危険だった。
理性が崩れかける瞬間を、自分で自覚してしまったことが一番危険だったのかもしれない。
守ると誓った。
大切にすると決めた。
だからこそ、踏みとどまった。
——だが、次は保証できない。
彼女を失う未来だけは——考えることすら拒絶した。
彼女は静かに、確実に、俺の内側を揺らしてくる。
抵抗する隙も与えずに。
それなのに、不思議と逃げたいとは思わなかった。
むしろ喜んで壊されている自分を、どこか冷静に理解している。
彼女は静かに、確実に、俺を壊していく。
そして俺は——それを止める理由を、もう持っていなかった。




