第1話 世界が変わった日
ゆるめの身分差ラブコメです。
温かく見守っていただけたら嬉しいです。
「白か黒か、はっきりしてください」
夜風が金色の髪を揺らす。
静かな夜の中で、侯爵令嬢リリアーナは騎士隊長カイルをまっすぐ見上げていた。
逃げ場はない。
彼女は一歩も引かない。
「私は——好きです」
その言葉に、カイルの拳がわずかに震えた。
平民の騎士と、侯爵令嬢。
本来なら、並んで立つことすら難しい身分差。
それでも彼女は迷わなかった。
「あなたは?」
夜の静けさの中で、答えを待つ声が落ちる。
——こうして彼女は、騎士隊長を追い詰めていた。
すべては、あの日の春祭りから始まった。
◇◇◇
王都の春祭りは、人で溢れていた。
焼き菓子の甘い匂いが風に乗り、軽やかな楽団の旋律が石畳の通りを満たしている。
色とりどりの布飾りが春の陽光を受けて揺れ、人々の笑い声と混ざり合いながら、祝祭の空気を作り出していた。
侯爵令嬢リリアーナは、そんな賑わいの中を、人波の隙間を縫うようにゆっくりと歩いていた。
護衛は少し離れた場所で控えている。
過剰に守られるよりも、こうして自由に街を眺める方が好きだった。
社交界では、常に「侯爵令嬢」として見られる。
けれどここでは、ただの一人の娘でいられる気がした。
「貴族だからといって、楽しんではいけない道理はありませんもの」
小さくそう呟きながら、リリアーナは屋台に並ぶ菓子や小物を眺めた。
春の匂いに混じる甘さが、どこか心を軽くするようで、自然と足取りも緩やかになる。
そのときだった。
人々のざわめきの中、甲高い悲鳴が響く。
「馬が暴れている!」
反射的に振り返った視界の先に、黒い巨体が迫っていた。
蹄が石畳を打ち、鎖を振り切った馬が、まっすぐこちらへ突進してくる。
時間がゆっくりと流れるように感じた。
足がすくみ、息が浅くなる。
逃げなければ。
分かっているのに、足が石のように重い。
ああ、こんなふうに終わるのだろうかと、不思議なほど冷静な思考が一瞬よぎった。
そう思った瞬間、腰を強く引き寄せられる。
視界がふわりと回転した。
地面に叩きつけられる衝撃はない。
代わりに硬い胸板に包まれ、革と鉄の匂いが微かに鼻先をくすぐった。
「怪我は?」
低く、落ち着いた声が降ってきた。
見上げると、陽に焼けた肌と鋭い灰色の瞳があった。
騎士の制服をまとい、第三隊隊長の章が光を受けて静かに輝いている。
王都でただ一人、平民から隊長にまで上り詰めた男。
その名を、リリアーナも何度か耳にしたことがあった。
けれど実際に姿を見たのは、その日が初めてだった。
「あ……」
心臓が、ひどく騒いだ。
こんな音、自分の中にあっただろうか。
世界が変わったのではない。
きっと、自分が変わってしまったのだ。
さっきまでただの春祭りだったはずなのに、音も、光も、匂いも、すべてがやけに鮮明に感じられる。
──まるで、本当に魔法にかけられたみたいに。
「ご無事で何よりです」
それだけ言うと、彼はすぐに距離を取った。
まるで、最初から触れていなかったかのように、静かで無駄のない動作だった。
「お名前は……!」
思わず声を上げた。
しかし彼は小さく首を振る。
「職務中ですので」
短くそう告げると、暴れ馬を止めるために駆け出していった。
残されたのは、胸の奥で騒ぐ心臓だけだった。
どうにもならない衝撃。
──出会ってしまった。
手を伸ばしてはいけない人に。
伸ばせば、きっと傷つくと分かっているのに。
◇
翌日。
「お父様、騎士団を視察したいのです」
突然の申し出に、侯爵は不思議そうに眉を上げた。
「なぜ急に?」
「……お礼ですわ!」
それは嘘ではなかった。
昨日助けてもらったことへの感謝は本当だった。
それでも──それだけではなかった。
もう一度、会いたいと思ってしまったのだ。
理由を上手く言葉にできないまま、胸の奥がそわそわと落ち着かない。
◇
騎士団の訓練場は、朝の空気に満ちていた。
「リリアーナ様。本日はどのようなご用件で?」
第三隊隊長は、昨日と変わらない無表情でそう尋ねた。
「昨日は助けてくださって、ありがとうございました」
「当然の務めです」
「それでも、です」
そう言って、リリアーナは一歩、彼へ近づいた。
彼はわずかに後退する。
その反応に、ほんの少しだけ胸が締めつけられたが、それでも歩みを止めるつもりはなかった。
「それと……友達になっていただけませんか?」
その言葉に、周囲の騎士たちが盛大にむせた。
隊長は、珍しく動きを止めた。
「……友達、ですか」
「はい」
灰色の瞳が、困ったように細く細められる。
「……俺は平民です」
「だから?身分は関係ありませんでしょう?」
その言葉に、第三隊隊長──カイルは、一瞬だけ視線を揺らした。
そして、何も言えなくなったように口を閉ざした。
「友達なら、問題ありませんわよね?」
リリアーナは、にこりと笑った。
その瞬間、彼の耳がわずかに赤くなったのを、リリアーナは見逃さなかった。
──諦める理由には、ならない。
胸の奥で、静かに直感が告げる。
曖昧なままでは、何も伝わらない。
だから、動くしかないのだ。
世界が変わった日──
それは、侯爵令嬢リリアーナが、平民騎士カイルを諦めないと決めた日だった。
◇◇◇
侯爵令嬢リリアーナ。
社交界でも名高い才媛として知られる少女だった。
侯爵家の令嬢など、俺の人生に関わるはずのない存在だ。
そんな世界に足を踏み入れれば、きっと痛い目を見る。
昨日暴れ馬から助けた少女が、今日も騎士団の訓練場に立っていた。
春の光を受けたその笑顔は、やけに眩しく見える。
距離を取るべきだと、頭では理解していた。
俺は平民で、彼女は侯爵令嬢だ。
関わりすぎれば、きっと余計な騒ぎを呼ぶ。
それでも──
「友達になってください」
そう言われた瞬間、断ることはできなかった。
無邪気すぎるその言葉に、胸の奥が静かにざわつく。
護衛としてでも、騎士としてでもない。
ただ一人の男として、思ってしまった。
守りたい、と。
面倒なことになると、分かっている。
そう分かっていながら、同時に胸の奥で別の感情が囁く。
──もう、手遅れかもしれない、と。
たった一日で、俺は選んではいけない未来を想像している。
お読みいただきありがとうございます。
いきなり距離を詰める侯爵令嬢と、全力で距離を取ろうとする隊長の攻防が始まります。
次話もお付き合いいただけたら嬉しいです。




