辞書になった幼馴染、アホすぎて使えない。
――――何が起きている?
現役高校生の俺、大治は学校の図書室に入った瞬間、そう思った。
確かに俺は勉強のできない幼馴染を教えるために図書室に来たはずだった。
その幼馴染が目の前に転げ落ちている。
完全に辞書となって。
元の女子高生らしき姿は跡形もなく、辞書という本になり果てている。
最初は俺も嘘と思いたかった。
「大治~、勉強教えて~!」
――――こんな風に喋っていなければな。というかこの状況で何で勉強を教わろうとしてるんだ、コイツ。
「一応、中身を見てみるか」
とりあえず、何か情報がないかと机で辞書の内容を見てみる。
「いや~ん、エッチ!」
「しばくぞ」
幼馴染の戯言はさておき。中身は――――
「…………何もない」
――――ほぼ白紙だった。
辞書だよな、これ。
辞書のはずの目の前の本はほとんど言葉が載っていなかった。
「ん? 何?」
「……コイツだからか」
その理由は一瞬で分かった。
幼馴染がアホだからだ。
俺がテスト前に勉強を教える幼馴染。
彼女は教えたことを秒で忘れる。
そんな彼女が辞書に必要な量の言葉を知っているはずがない。
つまり、幼馴染が知らない言葉はこの辞書に載っていないということだ。
「勉強教えて~」
幼馴染の言う通り、勉強を教えて辞書を完成させてあげれば何か起きるかもしれない。
あと辞書を開閉させてちょこちょこ寄ってくるのやめろ。
「悪いが、明日にしてくれ」
「え!」
まあとにかく、この幼馴染の辞書を完成させることは不可能に近い。
明日になったら元に戻ってるかもしれないし、そうじゃなかったらもう一度考えるとしよう。
「嘘つき! 勉強教えてくれるって言ったじゃん!」
――――いやここは助けてくれないことに文句言うべきだろ。
「あら? この辞書見覚えがないけれど…………白紙?」
「あ」
俺と辞書が揉めているとやってきたのは図書室の先生。
「うちの本じゃないわねえ。あっ」
「あ」
そして、先生が手に取った辞書を奪い取る犬。
「いやぼうっとしてる場合じゃねえ!」
「助けて~!」
あの幼馴染がまともに助けを求めるなんてよっぽどのことだ。
一刻も早く助けなければならない。
「というか何でここに犬がいるんだよ!?」
「あ、この子私の犬」
「自業自得じゃねえか!」
というか、飼い犬なら助けなくてもいいんじゃないか?
「私だよ私」
幼馴染もそれに気づいたようで犬に呼びかける。
「いたいいたいいたい」
何故か、犬が嚙む力増した。
――――恨まれてない? この子に何したんだよ。
犬と辞書は図書室の出口へと向かう。
「む。しょうがない。大治、私が入っていた本棚のところ見て!」
「何だ、解決できる道具が!?」
辞書となった幼馴染の声に従って、本棚を探る。
「右、もうちょい左! そこの間!」
「間?」
『私がいなくなっても、この手紙を見て私のことを思い出してね♥️』
「もうこのまま連れていかれろ!」
指示に従って見つけたのは一通の手紙。
――――何でこの内容の手紙を丁度ここに挟んでるんだよ!?
「違った違った、これ使って!」
「何だ。また、辞書?」
既に廊下を連れてかれている辞書の幼馴染から飛んできたのは辞書。
それもまた、幼馴染と同様にほぼ白紙。中身自体は幼馴染と同じだろう。
「!?」
俺が辞書をめくっていると、犬が急に高く飛び上がる。
――――何が起こった?
「……そうか」
俺が開いていたページには『上』という言葉の項目が書かれていた。
そして、俺はその項目に触れた。これが、今の現象を引き起こしたんだ。
つまり、この辞書の項目に触れることでその言葉の通りに幼馴染を動かすことができる。
いわば、幼馴染のコントローラー。
「にしても、言葉なさすぎだろ!」
本来なら瞬時に解決できそうなアイテムだけれど、相手はあの幼馴染。
載っている言葉がなさすぎて、ほぼ何もできない。
「ふふ、我が辞書に不可能の文字はないってやつ?」
「可能の文字もないけど! というか何で知らないんだよ!?」
ちょっと疑問だ。
いくら幼馴染とはいえ、『可能』とか日常生活で使う言葉の意味は知っているはずだが。
「え~、知ってるよ~。かのう? ってなんかこうやってするやつでしょ?」
――――ダメだコイツ。完全に言葉を何となくで覚えてやがる。
あとジェスチャーやってもお前今辞書だからわからんぞ。
…………とりあえず、上下左右は動かせるな。
とにかく、試行錯誤。
辞書のコントローラーを使って、幼馴染を動かす。
――――無理だ。アイツが犬に強く噛まれたせいか、どれだけ動かしても犬は振りほどけない。
…………やっぱりアイツ、そのままでよくない?
放っておいてもいい気がしたけど、あれでも一応幼馴染。
アイツを助ける策を考える。
――――動かすくらいじゃダメだ。『引っ張る』とかなら?
コントローラーのページをめくる。
は行から白紙のページをめくっていく。
――――何でないんだよ!?
目的の言葉があるはずのページは、当たり前のように白紙だった。
というか言葉がなさ過ぎて今どのあたりのページなのか感覚でしかわからないんだが。
これじゃ、ただ分厚いだけの五十音表だ。
――――いや、待てよ。
俺は今、は行を見たはず。
普通なら載っていなければならない言葉があるはずだ。
だけど、俺が見たページは全て白紙。
だから、あの幼馴染はそれを忘れているんだ。
『人』という存在を。
まさか、そこまでとは思いたくないけど。
というかそうだとしたら俺のこと何だと思ってるんだと聞きたくなるけど。
「おい、お前は人だ!」
「人?」
可能性があるのであればやってみる価値はある。
「人ってなんだっけ?」
…………この忘れ具合がこの異変によるものだといいんだが。
逆にこのアホさが異変に繋がっていたのであれば俺の手に負えない。
「人は俺やお前のことだ」
「私、辞書だよ?」
――――大丈夫かな。このやり取りをしているとあまりにも不安だ。
というか、この言動だと辞書になっていることがおかしいってことにすら気づいてなさそうだなおい。
ひとまず俺は辞書の幼馴染に向けて写真を投げる。
かつて俺と撮った、人間だったころの幼馴染の写真を。
「!」
反応があった。
「あ、あ」
アイツが辞書になったのはおそらく人という言葉を忘れたからだ。
いや、忘れたとしても何で辞書なのかはわからんが。
とにかく、それなら人という言葉を思い出させてあげればいい。
「ああ! 思い出した! 私、この子と辞書ごっこしてたんだった!」
「…………へ?」
――――何か、どうでもいいことまで思い出したようだけど。
「わああ、なにこれ!」
幼馴染が人であった記憶を取り戻した時だった。
犬に咥えられた辞書。
それが元の姿に戻っていく。
現れるは、見た目は普通の女子高生。
「…………とにかく、戻れたようだな」
「うん、ありがとう」
「あとちゃんとこんなことになった経緯を説明しろ」
「えっとね。私、この子と辞書ごっこしてたんだよ」
「…………それはなんだ」
「ああ、私が辞書としてこの子に咥えられる遊びだよ」
「…………ああ、まあとりあえず話進めようか」
「まるで辞書のようになってやる! ってしてたら夢中になっちゃっていつの間に…………」
「遊びで本当にそれになるやつがいるか! 二度とやるな!」
…………というか、この犬。その辞書ごっこを全うしようとしていただけなんじゃ。全部この幼馴染が悪くないか?
「ワン!」
俺の心の声に呼応するかの如く犬が吠える。
この犬は飼い主と似ず賢いのかもな。
…………はあ。どっと疲れた。
幼馴染のボケ具合を再確認した珍事件にして、俺をここまで疲れさせた小さな災害のような異変。
俺は、二度とこんなことが起きないように彼女に釘を刺した。
後日、案の定辞書になっていた彼女に、『燃える』という単語を教えたのはまた別の話。