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第一章:赫赤山の星霜 第二幕:静寂に刻まれた絶叫

赫赤山かぐあかやまの冷気は、骨の髄まで浸透する。濃霧が視界を数メートル先まで遮り、星霜館学園の建物は、闇に浮かぶ巨大な影絵のように見える。警報サイレンの低い唸りが、霧のベールを通して不気味に響き、学園全体が異様な緊張に包まれていた。


観乃透みのとおるは、蒼角寮そうかくりょうの裏口から這い出すようにして外へ出た。フードを深くかぶり、吐く息が白く瞬いて消える。心臓の鼓動が耳元で高鳴っている。管理AIオルカヌスが発動した「レベル3封鎖」は、星霜館周辺半径50メートルを立ち入り禁止区域とし、侵入者を検知すれば即座に警備システムが作動する。物理的なバリケードと、至る所に張り巡らされたセンサー、そして上空を飛ぶ小型ドローンの監視網が、鉄壁の防御を築いている。


透が目指すのは、星霜館の真下に位置する隔離庭園「静寂回廊せいじゃくかいろう」だ。表向きは幾何学模様の植栽が整然と並ぶ美しい空間だが、その名の通り、なぜか音が異常に反響せず、吸い込まれるように消えていく。その不気味な特性ゆえに、生徒たちは近づこうとしない。透は、図書棟・万智楼まんちろうの夜間整理補助として持つアクセスカードが、静寂回廊の管理用裏口(主に園芸資材の搬入口)を開けられることを知っていた。そこからなら、星霜館の壁面や、塔の基部に設けられた緊急用階段の下部を、直接見ることができるかもしれない。


(星位儀が暴走した…あの轟音と光…玲音先輩は?)


透の脳裏を、玲音の指先に浮かんだ「漆黒の点」と、星霜館から迸った破壊の歪みが駆け巡る。彼の「幻視」は、今も微かに星霜館の方向から漂ってくる「灰色のうめき」のような歪みを感知していた。塔そのものが、深い傷を負い、苦しんでいるようだった。


霧の中を慎重に移動する。足音は霧に吸い込まれ、ほとんど聞こえない。これが静寂回廊の特性なのか、それとも霧のせいなのか。オルカヌスの監視ドローンが、低いブーンという音と共に頭上をかすめて飛び去る。透は影に潜み、息を殺す。ドローンが去ったのを確認し、急ぎ足で目的の裏口へと向かう。


静寂回廊の管理用裏口は、星霜館の巨大な基礎壁に寄り添うように設けられた、頑丈な金属製のシャッターだった。その脇に、地味な制御パネルがある。透はアクセスカードをかざす。認証ランプが一瞬赤く点滅したが、すぐに緑に変わり、小さな音と共にシャッターがわずか数十センチだけ持ち上がった。園芸資材搬入用の小さな隙間だ。透は横になり、這うようにして内部へ潜り込んだ。


シャッターが背後で静かに閉じる。外の世界のざわめきや警報音が、一気に遠のいた。否、消えた。まるで水中に潜り込んだかのような、重い静寂が透を包み込んだ。これが「静寂回廊」の真の姿だ。自分の心臓の音さえ、妙に鈍く、遠くに聞こえる。空気が粘るように重い。


懐中電灯のスイッチを入れる。細い光の束が、幾何学的に刈り込まれた低木や、砂利を敷き詰めた通路を照らし出す。霧はここにも立ち込めているが、外よりは幾分薄い。透の目的は、星霜館の壁面だ。彼は回廊の奥、塔の基部に向かって歩き始めた。砂利を踏む音さえ、すぐに静寂に消えていく。


(ここからなら、緊急階段の下部が見えるはず…)


塔の基部は、巨大な岩を削ったような重厚な造りだった。そこに取り付けられた鉄製の緊急階段は、星位儀がある最上階まで螺旋状に伸びている。階段の入り口は、地面から約三メートルの高さにあり、頑丈なゲートで閉ざされていた。当然、封鎖中だ。


透は懐中電灯の光を壁面と階段下部に向ける。そして、息を呑んだ。


「…これは」


壁面に、無数の細かい傷がついている。それは、鋭い工具でこすったような、あるいは硬いものが激しくぶつかったような痕跡だ。さらに、その傷の周囲には、かすかだが確かな「歪み」が漂っている。焦げたような茶色と、鋭い銀色が混ざり合った色だ。それは…金属同士が激しく摩擦した時の残像と、強い衝撃のエネルギーを感じさせる。


透の視線は、傷の集中している地点から、地面へと移った。砂利の上に、何かが散らばっている。小さな破片だ。透が近づき、しゃがんで拾い上げる。それは、金属片だった。冷たく、わずかに歪んでいる。表面には複雑な細工が施されていた。


(星位儀の…歯車の一部?)


彼の「幻視」が反応した。手にした金属片から、微かな「青白い火花」のような歪みがぽつぽつと浮かび上がる。それは、機械が無理な力を加えられ、破断した瞬間の衝撃の残像だ。間違いない。この破片は、星位儀の一部だ。それが、ここまで飛んできたのか? それとも…?


透は金属片をポケットにしまい、懐中電灯をさらに注意深く周囲に照らした。砂利の上には、金属片以外にも、細かいガラスの破片や、何かの黒い粉(おそらく絶縁体の破片)が散乱している。明らかに、高い場所から落下・飛散したものだ。


そして、その落下物が集中している地点のすぐ脇の砂利が、乱れていた。誰かが、激しくもがいたような足跡が、くっきりと残っているのだ。靴の跡は、学園指定の上履きのものだった。その足跡は、壁に向かって一直線に伸び、そこで乱れ、そして…消えている。まるで、壁に吸い込まれたかのように。


透はその地点に近づいた。足跡が消えた壁の前で立ち止まる。壁そのものには、先ほどの摩擦痕はあるが、特別な開口部は見当たらない。しかし、透の「幻視」が、強烈なシグナルを発していた。


壁の表面に、巨大な「手形」のような歪みが浮かんでいるのだ。それは、人間の手のひらよりもはるかに大きく、不気味なほど鮮明な「漆黒」だった。玲音の指先に現れたのと同じ、深い絶望と恐怖の色だ。しかも、その「黒い手形」は、壁に向かって押し付けられたように広がり、その中心部からは、蜘蛛の巣のように無数の「黒い亀裂」が壁全体に広がっているのが見える。それは物理的な傷ではなく、空間に刻まれた感情の亀裂だった。


(玲音先輩…? こ、ここに…?)


透は思わず壁に手を伸ばした。指が冷たいコンクリートに触れた瞬間――


「――っ! 離して! お願い、離してッ!!」


耳元で、女性の絶叫が炸裂した! それは玲音の声だった! しかし、音ではない。透の視界全体を覆い尽くすほどの「歪み」として、直接脳裏に焼き付いたのだ! 漆黒の手形が脈打ち、黒い亀裂が激しくうねる! その中心から、玲音の姿が歪んだ映像のように浮かび上がる。彼女は壁に押し付けられ、何者かに両手を掴まれ、もがいている! 首にかけていた計算尺ペンダントが激しく揺れ、彼女の顔は恐怖と痛みで歪んでいた!


「うぐっ…!」


透は壁から手を離し、後ずさりして砂利の上に膝をついた。視界がぐらぐらと揺れる。激しい吐き気と共に、玲音の絶望が、透自身の感情として流れ込んでくる。あの「漆黒の点」は、この体験の予兆だったのか? 玲音はここで、何者かに襲われたのか? そして、その行方は?


(壁…この壁の向こうに何かあるのか? 隠し通路? でも…)


透は必死に呼吸を整え、壁を調べ始めた。しかし、レンガ積みの壁は一枚岩のように見え、継ぎ目も隙間もない。アクセスカードをかざしても反応しない。物理的には、何もない。


(幻視が捉えたのは、現実の出来事の残像…だが、場所がおかしい。玲音先輩は壁に吸い込まれたように見えた…いや、連れ去られたんだ。でもどうやって?)


その時、異変が起きた。


静寂回廊の重い静寂を破って、微かな「電子音」が聞こえた。それは、透のすぐ背後からだった。透が振り向くと、霧の中に、小さな赤い光点が二つ、浮かんでいる。監視カメラだ。しかも、可動式のものだ。ゆっくりと、透の方を向いた。


(オルカヌス…!? 見つかった!)


透は体が凍りついた。封鎖区域への侵入は、厳重な懲罰の対象だ。ましてや事件現場に近いこの場所へ。説明など通用しない。


「侵入者を検知。静寂回廊、セクターD。生徒ID:M-207(観乃透)。直ちに身分を明かし、その場で待機せよ。抵抗は認めない」


オルカヌスの冷たい機械音声が、どこからともなく、この静まり返った空間に直接響き渡った。カメラのレンズが、微かに焦点を合わせる音がする。


逃げなければ。しかし、出口の裏口は遠い。カメラがここまで気づいた以上、他のセンサーやドローンも集中するだろう。


「…ちっ、やっぱり来てたか、空気男」


突然、見知らぬ声――いや、聞き覚えのある声が、透の斜め上から聞こえた。透が驚いて見上げると、静寂回廊を囲む生け垣の上に、黒いシルエットが腰掛けていた。スマートグラスが微かに光る。


朱城燎あかぎりょうだ。


「朱城…!?」


「お前の行動パターン、だいたい読めてたよ」朱城は軽やかに生け垣から飛び降りた。手には、小型のタブレット端末のようなものを持っている。「図書委員のアクセス権限で入れそうな場所はここくらいだ。で、見つけたか? 玲音様の…」


朱城の言葉が途切れた。彼の目が、透が調べていた壁の前の、乱れた足跡と、散乱する破片の痕跡を捉えたからだ。そして、透のまだ青ざめた顔と、壁に触れた右手の震えも見逃さなかった。


「…どうやら、大当たりらしいな」朱城の声が低く、真剣になった。


「警告。生徒ID:A-101(朱城燎)も検知。二人とも、直ちにその場で待機せよ。繰り返す――」


オルカヌスの声が再び響く。カメラの赤い光点が、二人をしっかりと捉えている。


「うるせえな、このガラクタAIが!」朱城は舌打ちし、素早くタブレットを操作した。「…よし、こいつに『一時的な盲目』をプレゼントしてやった。でも長くは持たねえ。せいぜい30秒だ」


カメラの赤い光点が、突然、不規則に点滅し、そして完全に消えた。


「今だ! こっちだ、観乃!」


朱城は透の腕を掴み、生け垣の陰へと引っ張る。透は抵抗する間もなく、朱城に引きずられるようにして、回廊の複雑な植栽の間を縫って進んだ。オルカヌスの警告音声は続いているが、カメラの目は確かに狂わされているようだ。


「お前、あの壁の前で何を見た?」走りながら、朱城が鋭く問い詰める。「あの足跡は玲音のだろ? それに…お前の顔色が明らかに悪い。幻覚か何か見たのか?」


透は迷った。だが、今は協力するしかない。この男のハッキング能力がなければ、ここから逃げ切れない。


「…玲音先輩だ」透は息を切らせて言った。「壁の前で…誰かに襲われてた。もがいてた…絶叫してた…」


「襲われてた?」朱城の目が危険な光を宿した。「映像か?」


「違う…俺の…幻視だ。残像として見えた」


「なるほど、超能力ってのはこういうことか」朱城は意外にも疑わず、むしろ興味津々の口調だ。「で、相手は? 見えたか?」


「…手だけだ。巨大な…黒い手。玲音先輩を壁に押し付けてた」


「黒い手?」朱城は一瞬、思考するように目を細めた。「…副校長の手下、用務主任の『いわお』か? あの大男なら手もでかいが…」


二人は静寂回廊の最も奥まった場所、星霜館の基礎壁が大きくカーブする死角に身を隠した。頭上では、複数の監視ドローンのブーンという音が近づいたり遠ざかったりしている。オルカヌスはまだ二人を追っている。


「ここなら少しは安全だ」朱城がタブレットの画面を確認しながら言った。「オルカヌスはこっちのセクターに目星をつけてるが、ここの生体センサーは俺がさっき無効化しておいた。…で、他に何か見つけたか? 物理的な証拠は?」


透はポケットから、星位儀のものと思われる金属破片を取り出した。「これが落ちてた。星位儀の一部だと思う。それと…」


透は、もう一つ、砂利の中から拾い上げた小さなものを示した。それは、細い銀色のチェーンの切れ端だった。その先端は、無理に引きちぎられたように歪んでいる。チェーンの一部には、微かに複雑な目盛りが刻まれているのが見える。


「…っ!」朱城が息を呑んだ。「玲音の…! あの計算尺ペンダントのチェーンだ!」


確かに、映像の中で玲音が首にかけ、そして守るように握りしめていたペンダントのものに違いない。それがここで、しかも引きちぎられた状態で落ちている。


「襲われた時に…ちぎれたんだな」朱城の声が冷たくなった。「で、肝心のペンダント本体は?」


「…見つからなかった」


「ふむ…」朱城は顎に手を当て、高速で思考を巡らせている。「星位儀が暴走、同時に玲音が星霜館近くで何者かに襲われ、ペンダントのチェーンをちぎられて拉致られる…または消される。副校長との確執もあった。こりゃあ、単なる事故や失踪じゃ済まねえな」


朱城はタブレットを操作し、静寂回廊の簡略な地図と、先ほど透が痕跡を発見した地点をマークした。


「観乃、お前の『幻視』、あの黒い手の主の正体や、玲音がどこへ連れて行かれたかは見えなかったか?」


透は首を振った。「…壁に吸い込まれるように消えた。でも、物理的な通路はない」


「壁か…」朱城は星霜館の巨大な基礎壁を見上げた。「この塔、創設時からあるらしいが…もしかしたら、知られてない通路や隠し部屋があるのかもしれん。副校長なら知ってるだろうな」


その時、朱城のタブレットが警告音を発した。画面には「オルカヌス 監視網再構築 87%」の文字。


「チッ、時間切れだ。そろそろ撤退するぞ。お前の寮に戻るルートは確保しておいた」朱城が言った。「今夜のことは誰にも言うな。特にオルカヌスや副校長にはな。口を滑らせたら…お前の『幻視』のことも、ここに侵入したことも、筒抜けだ。わかってるな?」


脅すような口調だが、朱城の目は真剣だった。彼もまた、オルカヌスと副校長を敵に回すことの危険を理解している。


「…わかってる」透は答えた。彼には選択肢がない。


「よし。それと…これ、持っておけ」朱城はポケットから、米粒ほどの大きさの極小通信機を取り出し、透に渡した。「暗号化済みだ。オルカヌスの監視をかいくぐって連絡できる。新たな情報や、また幻視で何か見えたら、すぐに連絡しろ。玲音の行方は、俺たちが探り当てる」


透は小さな機械を受け取り、握りしめた。冷たい感触だった。


「行くぞ。俺の合図で、一気に東側の生け垣を越えろ。向こうは管理棟の裏で、監視が手薄だ」


朱城がカウントダウンを始める。三、二、一――


二人は影のように生け垣を飛び越え、再び濃霧の中へと消えていった。背後では、監視カメラの赤い光点が再び点灯し、無人の静寂回廊をゆっくりと見渡し始めていた。


透は蒼角寮の自室に戻り、ドアに鍵をかけた。心臓はまだ激しく鼓動を打っている。右手のひらには、玲音のペンダントのチェーンと、星位儀の金属破片が冷たく収まっていた。左手には、朱城から渡された極小通信機。


壁に触れた時に見た玲音の絶叫と恐怖が、鮮明に蘇る。あの「漆黒の手」の正体は? 玲音は今、どこにいるのか?


窓の外、星霜館は相変わらず不気味な沈黙を保っていた。オルカヌスは、異常事態の調査結果をまだ発表していない。副校長の安否すら不明のままだ。


(副校長…あなたは、あの時、どこにいた?)


透は、壁に映った巨大な黒い手を思い浮かべた。副校長の部下、用務主任の巌は、確かに巨大な男だ。しかし、あの歪みは…単なる巨漢の手というには、あまりにも不気味で、悪意に満ちていた。


ふと、透はある人物を思い出した。図書委員長、白銀瑠璃はくぎんるりだ。彼女は学園の歴史と「星霜七謎」に精通している。あの壁…静寂回廊の壁に隠された秘密を知っているかもしれない。そして、玲音が禁書庫で何を調べていたのかも。


(明日…万智楼に行かなければ)


透は震える手で、拾ったチェーンをじっと見つめた。銀色の細い鎖が、微かに玲音の「純白の結晶」のような集中力の名残と、引きちぎられた時の「黒い絶望」の歪みを、交互に放っているように感じられた。


星霜館の闇は深い。玲音を飲み込んだ闇は、さらに深く、そして冷たかった。観乃透は、自らがその闇に足を踏み入れつつあることを自覚した。朱城という危険な道連れと共に。すべては、星位儀が暴走した深夜0時から、そして静寂回廊に刻まれた絶叫から始まった――。

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