【望月星夜】
事件から四年。
空を漂う巨大な施設【能力開発部署スカイ・タートル】は、五大陸を巡るようにゆっくりと移動していた。
その甲羅の上で、望月星夜は今日も走っていた。
まだ暗い空。誰もいない廊下。
星夜の足音だけが、静かに響いていた。
彼は六歳。
けれど、その瞳は六歳のものではなかった。
あの日――守れなかった。叫んでも、何も変わらなかった。
だから星夜は決めた。強くなる。誰にも奪わせない。
訓練室の扉を開けると、そこに“じぃちゃん”がいた。
杉山庇紫。王の称号を持つ武人。
星夜は彼に弟子入りしていた。
「じぃちゃん!今日こそ僕は勝つよ!」
叫びながら跳び蹴りを放つ。
でも杉山は動かない。
ただ、掌を軽く動かしただけで――星夜の身体は壁に叩きつけられた。
「今日こそ?おぬしがわしに勝つことは、まだ百年早いわ」
高笑い。でも、目は優しい。
「今日は能力の使い方を試すんじゃろ?」
星夜は拳を握りしめ、もう一度突進する。
でも、また床に叩きつけられる。
「くっそおおおおお!」
天井に向かって叫ぶ。
涙は出ない。でも、胸が痛い。
杉山は笑いながら、星夜を持ち上げる。
「そんなに急がんでもええ。気楽にいこうや」
星夜はムスッとした顔でそっぽを向く。
でも、心の奥では――その言葉に少しだけ救われていた。
その時、扉がノックされた。
大男が入ってくる。困った顔で、深く頭を下げる。
「杉山様。サウススノース上空でゲートが開きました。直ちにご参加を――」
空気が張り詰める。
杉山は短く「わかった」とだけ返す。
「今日はここまでじゃ。風呂入って、飯食って、歯磨きして寝るんじゃぞ?」
「しってるし……」
星夜は呆れたように返す。
でも、どこか寂しそうだった。
星夜が暮らすこの施設には、もうひとり――事件の日から共に過ごす少女がいた。
愛宮咲。絆の界核を宿す存在であり、星夜にとって“守るべき本体”だった。
彼女は星夜の“本体”とも言える存在。
星夜が分体として生まれた理由は、彼女を守るためだった。
すると、扉が勢いよく開いた。
小さな女の子が飛び込んできて、星夜に抱きつく。
「せーやー!はやくかえって一緒におフロいこー!」
星夜は疲れた顔で、呟きそうになる言葉を飲み込んだ。
でも――その小さな体温に、少しだけ救われていた。
湯気が立ちこめる浴場。
スカイ・タートルの空中施設にあるとは思えないほど、静かであたたかい空間だった。
星夜は湯船に肩まで浸かり、目を閉じていた。
訓練の疲れが身体に残っている。杉山の掌底は、今日も容赦なかった。
「せーやー、こっちこっちー!」
咲の声が響く。
湯の中をバシャバシャと泳ぐように動く彼女は、無邪気で、眩しかった。
星夜は目を開け、彼女を見つめた。
その笑顔は、あの日の記憶を遠ざけてくれる。
でも――同時に、胸の奥を締めつける。
「……咲、空……見た?」
「んー?さっきちょっとだけ。なんか、青じゃなくて……紫っぽかった?」
星夜は湯から上がり、窓の外を見た。
空が、微かに揺れていた。
スカイ・タートルの外壁に設置されたセンサーが、低く警告音を鳴らす。
その瞬間――星夜の胸が、熱を帯びた。
絆の界核が、咲の存在に反応している。
「……なんだ、これ……」
彼は胸元を押さえ、息を整える。
杉山の言葉が脳裏に響いた。
『おぬしの力は、まだ目覚めておらん。だが、絆は近くにある。』
咲は湯船から顔を出し、星夜を見上げた。
「せーやー?だいじょぶ?」
星夜は笑顔を作った。
守らなきゃ。この子を。
誰にも知られなくても。誰にも理解されなくても。
その夜、杉山は戻らなかった。
星夜は一人、訓練室に立った。
誰もいない空間。
彼は木刀を握り、構えた。
「……僕は、守る。絶対に。」
湯気の残る髪が、静かに揺れた。
咲の笑顔が、胸の奥に灯る。
その灯を、消させはしない。




