世界の終焉
世界が、終焉りを迎える。
地球を、〝物理的形質を帯びた限界点の量子化〟という状態に縫い留めていた〝くびき〟たる世界樹が、崩壊していく。
月面まで届き、それを超えてそびえていた巨大な樹木は、月から切り離され、バラバラにほどけ、消えていった。
星の命が形となった世界樹が死に絶えることで、連鎖的に複製子株であった〝神樹木〟も枯れ落ちる。
すべての人間、すべての生命が、重大な大気汚染と放射能に曝され、次々に死に絶えていく。
それを耐え抜いたものも、星自体の消滅という状況に至り、生存の可能性は完全に断たれた。
存在したという因果さえ、消滅したのである。
いまこの場に残ったのは、意志を失ってなお鼓動を続ける、星が実らせた果実の心臓と、それに寄り添う、もとより死した騎士のみだった。
世界が──おわる──
(──否)
誰かが。
かつて何者かであったそれが、強く否定した。
(そんなことは、あってはならない)
なにがそれを突き動かすのだろうか。
原動力は、いったいなんなのか。
疑問に思うものなどいない世界で、それでもそれは、否定を続けた。
(否定する。否定する。否定する)
なぜならば。
「俺は、彼女を人間にすると誓ったからだ」
『──残念ながら、その願いは叶わない』
気が付けば、ゲオルグは真っ白な空間に裸で浮かんでいた。
いや、正しくは無数の流星が円形に流れる、暗闇のような白い場所──と、彼には認識されるどこかだ。
思念が響いた。
『簡単なことだよ。世界は、君の認識下でのみ、物語として紡がれる──そして、ここは君の認識が及ばない場所だというだけさ』
「……おまえは、何者だ」
ゲオルグは問いかけた。
低い声であったが、そこには純然たる疑問も含有されていた。
彼に話しかけているものは、小さく笑ってみせる。
声だけが、気配だけがそれを伝える。
『我々は──神さまを超えたものだよ』
「神?」
『君たちが月種と呼ぶ存在──それが我々だ』
瞠目するゲオルグ。
そこで初めて、彼は自分が、何者かの掌の上にいることに気が付いたからである。
巨大な、あまりにも概念的スケールが甚大な存在の、その手の平の上に、彼の精神体はあったのだ。
『おや、そう固くなる必要はない。我々は、君にだけは危害を加えられないし、そもそも、もはや地球というものに固執する段階は過ぎてしまったんだ。なにせ、かつては君から恩恵を得ていたが、いまや我々は、君すら超越しているのだからね』
「……では、なんのために俺を生かしている?」
それも純粋な疑問だった。
ゲオルグは、確かにあの瞬間死んだ。
彼はそう認識している。
事実、彼の脳髄は重力の投射によって、ナノ単位まで圧縮されたはずなのだ。
だから訊ねた。これに、月種は笑って答える。
『……そうなった原因が、我々だからさ』
「なに?」
『バーンアリスが──つまりは新たな月種が、このルーチンで生まれることを、我々は望まなかった。もしあの状況で、君が事態をなんとかしてしまえば、恐らく我々に敵愾心を持つバーンアリスが生まれただろう。いや、それ自体は構わないことだ。握り潰してしまえばいい。だが、産まれると一度確定した因果は、何度でも繰り返される。収穫を行い、あらたに地球環境を設定しても、次から産まれ堕ちる月種は、すべて我々を憎むものになるだろう』
「それが気に食わなかった……というわけか」
ありていに言えばそうだと、巨大存在は肯定した。
空間がざわめく。
誇示するように力場が軋む。
『我々は、これからも膨張を続ける。こんな太陽系などという、矮小な枠組みでの全知全能に固執するつもりはない。いずれ月種が完全にそろえば、外宇宙へと旅立つだろう。しかし、そのときに不和があるのは望ましくない。我々はあくまで、42にして1の存在なのだから』
だから、因果が発生する前に、ゲオルグを止めたのだと、それは言った。
物語の誤謬を、ただ破棄しただけだと。
その答えに、ゲオルグは眉根を寄せる。
僅かに覚えがあった。
視界が、乗っ取られたようにノイズまみれになったこと。
そして、あの決着の瞬間に、肉体が完全な停止状態に陥ったことを。
思考が消えたことを。
彼は、思いだしていた。
「あれは、おまえたちの仕業か」
『そうなるね。我々の介入の結果、君の精神だけが死んだのだ。ただ……星の雫自体を失うのは、聊か勿体ない。それは我々の根幹だ。星の命そのものだ。再現性があるものではないし、できれば手元に置いておきたい。現状41しかいない我々は、次の、正しいバーンアリスも作りたい。そこで君に、提案がある。ヴェルトが言わなかったかな? だとしたらとんだ失敗作だが……星の雫よ、我々に、協力をしてくれないだろうか?』
その、人知を超えた存在は、どこまでも穏やかに、どこまでも傲慢に、言い放った。
『じつに簡単な頼みだ。庭園騎士ツェオ・ジ・ゼル。彼女を月種にすることを、あきらめてくれないか』
「……もとより。俺にそんなつもりはない。俺はあいつを、おまえたちのようなものに為り果てさせる心積もりなど、ありはしない」
『だが、人間にはしたいのだろう? それが困る』
「何故だ」
『君によって観測され、上位観測者と再定義されたものは……つまり永遠の命を得たものは──即ち、我々と同じバーンアリスになるからだ。肉体を棄てれば、取り込むこともできようが……脳などというものに残された記憶に固執する彼女には、難しいだろう』
「…………」
『彼女は特例だ。我々が作り上げたもののなかでも、人種に近い。おまけに慧可珪素置換症候群に対し、適応性を見せている。己が肉体の変容を許容できる──認識の変化を受け入れる才能──これはバーンアリスの大きな資質だよ。君がそうしたんだ。一度滅んだプログラムを再起動するから、こんなややこしいことになる。このまま、記憶を保ったまま彼女に月種になられては、ミルタの二の舞なのだよ。それは、よろしくないのさ』
ミルタ。
その名前に、彼は聞き覚えがあった。
ゲオルグは、問い質す。
ヘレネーとは何者かと。
『そうか……ヘレネーと、君には名乗ったんだったね? 彼女は元月種だ。だが、我々が不要と判断し切り捨てた。珍しいことではない。あの星には越種がいただろう? 彼女たちはそういったものの為れの果てだ。超越など莫迦らしい。それができなくて、生物ですらなくなった堕ちたものさ』
「それで?」
『うん。ミルタははるか以前のルーチンで生まれ、我々の一員となり、そしていまの地球生命の基盤を築いた。君たち風に言うのなら、女神といったところだが……我々がいうのなら、ただの堕落者だ。彼女は自らが生み出した生物を愛するあまり、我々がそれを改良することを嫌ったのだよ。おかげで、バーンアリスの誕生まで間が空き、このざまだ』
その言葉は、心底どうでもよさそうでありながら、これ以上なく疎ましく思っているようにもゲオルグには感じられた。
憎しみに似た感情さえ、彼らはヘレネーに向けているようだった。
『だから。我々は君に協力を求める。このような惨事が二度と引き起こされないために。地球の世界樹とリンクする月面の楽園樹、我々の存在を確定させるための、もうひとつのくびきに問題を生じさせないために、外宇宙への階を残すために、我々はここに、ある提案をさせてほしいと思っている』
そう言って彼らは。
月種は、ゲオルグへと、ふざけきった勧告をしたのである。
『ツェオ・ジ・ゼルを──今度こそ、確実に殺して欲しい』




