成層圏の果てで
「────」
意識の空白が埋まったとき、ゲオルグは自身が置かれた状況を把握した。
ツェオによる最大の破壊行為の結果、多角的重力の影響で、ゲオルグは遥か高空へと落下したのである。
結果として、彼はいま、〝世界樹〟の中層付近まで昇降したのと同じ状態に置かれていた。
突っ伏していた状態で目を開き、ゲオルグは詳細な情報の収集をはじめた。
彼の探査網膜を通じ、脳髄が分析を開始する。
星の雫としての性能の一端が示されたいま、量子モノクルがない状態でも、ゲオルグは走査が可能になっていた。
真っ暗闇のなか、視野がいくつも拡張され、平時と変わらぬ視界が構築される。
周囲を取り囲む物質は透明度が異常に高く、光はほとんど屈折されない。
ガラス張りの部屋のようなその場所からは、外の景色がよく見えた。
眼下に広がるのは、雲海。
一面の、どこまでも続く、雲の海。
鉛色の重たい雲が、ただただ立ち込めている。それ以外に、下方向に見えるものはなにもない。
せいぜい〝世界樹〟の幹が見えるぐらいだ。
そうして視線を上へと向けて、彼は、そこで息をのんだ。
広がっているのは、ひどく心を揺さぶられる光景だったのだ。
知らず、ゲオルグは目を閉じ、嗚呼とつぶやく。
いま彼は、戦いの渦中にいる。
その事実すら忘れ、ゲオルグはただ、空を見上げ続けた。
一面に波打つ、極彩色の紗幕。
オーロラが、天を流れる川のように、揺らめいていた。
それは、かつてゲオルグが見た世界。
彼が、少女とともに、この世の行く末を見詰め続けていた場所。
草原ではなかったのだ。
それは投影されたイメージに過ぎなかった。
重要なのは、空を覆う虹色の光。
彼の中で呪縛が──月種が、彼を世界に縛り付けるために施していた呪いが、僅かにほどけて──
「俺たちは、こんなにもかけ離れていたんだな……」
「──はい、ゲオルグ。そのとおりです」
静謐のなかに響いた可憐な声音に、ゲオルグは視線を落とす。
数十メートル先に、純白のままの少女がいた。
庭園騎士、執行者、ネクロイド、アリストテレス・シンドローム。
幾つもの要素、幾つもの顔を持ちながら、それでもやはり、ゲオルグにはその少女が、このようにしか映っていないのだった。
即ち、
「ツェオ」
──と。
「…………」
名を呼ばれて、少女はほんの少し、悲しげに表情を歪めた。
度重なる戦闘を経ていながら、少女の肉体に欠損は見られない。
ただ、星の雫であるゲオルグにはわかる。
慧可珪素置換症は、もはや取り返しのつかない状態まで少女を蝕んでいた。
ゲオルグは無言で、ずっと掴んでいた棺桶を、純白の少女へと向けた。
「もうやめろ、ツェオ。おまえは、誰も殺さなくていい。おまえは……人間になればいい」
「……その言葉の矛盾に! いちばん気が付いているのはあなたではありませんか、ゲオルグ!?」
くしゃりと顔を歪め、震える声で叫ぶツェオ。
ゲオルグは答えない。
ただ無言で、ターン・アークの火器管制を疎通にする。
ギミックが展開。
剥き出しになる、幾つもの兵装。
そのひとつにして、究極なるもの。
解放される前方部分。
突き出される射出管。
|電磁投射式弾体加速装置が、その冷気をあげる射出口をツェオへと向けた。
「俺は、おまえから離れない。必ず、おまえをひととして生きていけるようにする」
「夢物語です、それは。御伽噺なんです、ゲオルグ」
「それでもだ」
床を蹴ったのは、ゲオルグが早かった。
だが、先に到達したのはツェオだった。
咄嗟にターン・アークを防壁にした彼を、極大の衝撃が貫通する。
凄まじい加速と、更なる上方への浮遊感。
自分が殴り飛ばされたのだとゲオルグが自覚する前に、その肉体が構造体へと激突。壁を次々に粉砕しながら、彼の肉体は上の区画へと貫通していく。
「──っ」
100メートル以上も上昇し、ようやく止まる肉体。
瓦礫と粉塵に塗れながら、ゲオルグは棺桶を突き立て、なんとか体を起こそうとする。
気配に顔を跳ね上げた。
掌底を振り下ろしてくる純白の少女。
ターン・アークを跳ね上げることでその一撃をいなし、最大出力のレールカノンを叩きこむべく振り抜く。
だが、振り抜いた棺桶を、その腕ごと、ツェオが巻きつくようにして拘束し、その強力で捻り上げる。
顔面から、床へと叩きつけられるゲオルグ。
鼻面を強く打ちつけ、血が噴き出す。
ギリギリとゲオルグの右手を関節技の要領で拘束するツェオは、自らの金属塊と化している右足を振り上げると、それを金槌のように変化させた。
そして、一切の躊躇なくゲオルグの左足へと振り下ろす。
膝が、関節とは逆の方向へ圧し折れ、骨が砕け、血肉が噴き出す。
苦痛に呻くゲオルグを見下ろしながら、無機質な戦闘者となった彼女は、右足も潰そうと金槌を振り上げた。
閃光。
ツェオの眼前で爆発的な光輝と音響、電磁波が荒れ狂い、その走査系が一時的に麻痺する。
拘束が緩んだことを知ったゲオルグは、身をひねるようにしてその場から離脱。
鈍い音ともに掴まれていた腕の一部が千切れるが、気にするゆとりもない。
「……遅いぞ」
「イイ女は、男を待たせるもんなのよ」
膝をつきかけたゲオルグを、咄嗟に支えてみせたのはヘレネーだった。
しかし、無傷であるツェオとは対照的に、彼女の肉体は傷に塗れている。
彼女は肩であらく息をつき、ぼたぼたと脂汗を垂らしていた。
「演算リソースが限界で」
「……ヘレネー、頼みがある」
弱音を吐きかけた情報知性体に、ゲオルグが視線を向ける。
アイコンタクトによる情報のやり取り。
そして、たった一言の言葉。
「ツェオを、本気にしてくれ」
それだけで、ヘレネーはすべてを悟った。
彼女は、苦渋を呑み込むように頷く。
「あんたには、世話になったわね」
「おまえは、いらないお節介ばかり焼く女だった」
「そういう役回りなのよ」
「……そうか」
ヘレネーは目を丸くした。
なぜなら、そのときゲオルグは──
「離れろ、私のアルブレヒトから! ──堕ちた月種めええええええええええええええええええええええええええええええ!!!」
獣じみた咆哮とともに、憎悪の眼差しで飛来するツェオ。
その高速度の一撃に吹き飛ばされながら、ヘレネーは叫んだ。
「あんたも笑うのね!」
「……いいことがあればな」
彼の答えに、ヘレネーは大きく頷き、自らに組み付いたツェオへの対処をはじめる。
眼尻からこぼれた液体の意味を、彼女は可能な限り、考えないことにした。
「ゆくぞ、ツェオ──幕引きの刻限だ」
ゲオルグが──
砕けた足にアンプルを突き立てながら、そう宣言した。




