はじまりの少女 ‐バーンアリス‐
「星の雫は、生命体をより高次元の観測者へと押し上げる奇跡のような機構よ。同時に、この惑星そのものでもある」
防寒着にマフラー、合成繊維の帽子、ゴーグルと、完全防備に身を固めたゲオルグを抱え、高空を音速の半分ほどで飛行しながら、ヘレネーは骨伝導通信によって説明を続ける。
難解な説明を、風圧と加重に耐えながら、ゲオルグは必死で聞いていた。
ヘレネーの演算リソースは、すでに人知を超えた状態であり、彼女がその気になれば、ゲオルグが寒さに震えることも、大気の毒や放射線を気にする必要もない。
しかし、それはすでに試され、失敗していた。
ゲオルグの肉体は、その右手の起動とともに、ヘレネーによる改変能力を受けにくくなっていたのである。
「かつて人類は、そのシステムを発見し、月種へと至った。でも、それは同時に、地球という惑星の不用性も意味していた。だって、高い次元から観測すれば、地球環境程度、存在しなくても彼らが在り続けることは容易かったのだもの。それこそ、好きな物を好きなタイミングで取り出せるし、あらゆる時間を超越して思考を重ねることだってできる」
「つまり、月種は直轄者と同じ真似ができるということか」
ゲオルグがそう叫ぶと──叫ばないと〝声〟では通じないのだ──ヘレネーは微妙な表情を浮かべた。
自分の言いたいことが伝わっていないと理解し、彼女は説明の密度を上げる。
「あれは、スケールが随分と劣化しているのよ。本来はそういった規模で測れるものではないし、月種は文字通り、過去の人類が思い描いた〝神〟という概念に近い──でも、その神さまであっても、自らたちを増やすことはできなかった。そもそも全能になった時点で、生殖という行為が無為になったのよ。完全無欠が増える理由なんて、どの次元を見渡したって存在しないのだもの」
追加されたヘレネーの説明に、彼はなるほどと頷いた。
それから、ふと疑問に思ったことを尋ねる。
「ならば、月種は1体だけなのか?」
当然といえば当然の疑問。
ヘレネーも答えを用意していたようで、一度頷くと間を置かずに答えてみせた。
「いいえ、あたしが知る限り42体存在し、時折あたしのように欠けていくものよ。ちなみに、欠員が出た場合、彼らはどうすると思う?」
ヘレネーの問いかけに、ゲオルグは少しのあいだ思考し「それが星の雫なのか?」と訊ね返した。
ヘレネーはゲオルグを抱えたまま、器用に指を鳴らす。
正解の合図だった。
「ビンゴ。それが、不要になった地球を放棄しない、最大の理由。星の雫は地球でしか実らない。そして、現在では月種に至る方法はそれしかないのよ」
「つまり……星の雫もまた、ひとつではない?」
「いいえ、そっちは違う。唯一無二よ。ただ、すべてを費やせば再利用できるというだけ」
「……よくわからないな」
「いまのあんたとあたしたちじゃ、立っている場所も見えている景色も違い過ぎる。仕方がないことよ。そして、あたしと月種も、また見据えているものは違う。彼らは罪を重ね、すべてを自分たちの思うとおりに操り、自らの同胞を集めている。星の雫を使って、炭素の檻を脱ぎ捨て、高次の生命体となった現生人類を、あたしたちはこう呼ぶの──〝はじまりの乙女〟と」
「夢見る女……それは、月種には女しかなれないということか?」
「答えはネガティブよ」
ヘレネーは、その誤解を速やかに否定する。
「一番初めの月種が女性だった、というそれだけの話よ。そして、生み出すものという一面が強調された結果、性別を超越した彼らは、女という区分になる。同時に、生物としての本能はそぎ落とされ、無垢に夢見るものになるってわけ」
「世界の観測を、夢と断じるか」
「ええ、その程度には傲慢なのよ、彼らは。ちなみに、地球の利用法は他にもあるわ。月面の枯渇した資源の収集のために使用されている。月面には月種の存在認識を固定化するくびきが存在するの。エメト・オリジンと対を為し、同じ幹に連なる枝──終末の樹。それを維持するためには、いかに全能の月種であっても、材料と労力が必要なのよ。自分たちの根幹に根差すものだから、安易に介在できないの。矛盾が生じてしまうわ」
「…………」
ゲオルグが2~3度首を振り、それから辟易した表情で続きを促した。
ヘレネーはそれをどう受け取ったのか、少しだけ物足りなさそうな顔をして、しかし続ける。
「最初の月種の演算能と高次観測によって、地球は──この滅んだ惑星は、〝物理的形質を帯びた限界点の量子化〟という特異な状態に位置されている。それは、演算のリソースさえ得ることができれば、どのようにでも観測し、自在に変化する、させることができる世界。そう、かなり危ういバランスの状態ね。いまのあなたに、言って伝わるかどうかは怪しいのだけど……」
視線を向けられて、ゲオルグは首肯を返した。
それを見て取って、ヘレネーも語る内容を微妙に修正する。
「えっと……いまの地球は、大型演算装置の中に浮かんでいる仮想モデルのようなものよ。だから、高い演算リソースを割り振られているものは、自在にすべてを変化させることができる。ひとつだけ特異性があるとすれば、この状態ではじめて、地球上には命が芽生えるということ。星の雫があることで、生物は成立する。以前見た、培養槽のようなもので生み出された新規の生命体──現生人類がね」
ゲオルグは、疑問の声を上げた。
「それになんの意味がある?」
情報知性体は、確認するように口にした。
「ひとつはさきに言った通り、欠けた月種を補うため。もうひとつは同じく、素材を補うためよ。慧可珪素置換症が代表的な例かしらね。肉体の変性を許容できない程度の観測者は、すべて資源に変わるよう、月種が意図してばら蒔いた病よ。脆弱性を破棄する意味合いもあるわ。現生人類はその無意識化で、世界のくびきであるエメト・オリジンを認識し、それが星の雫を実らせることを知っている。星の雫に到達したものは、高次観測者にいたる。じゃあ、それ以外の人間はどうなると思う?」
彼女の問いかけに、彼は沈黙した。
それは、答えがわからなかったから──ではなく、簡単に理解できてしまったからだ。
その右手が震えながら握り込まれ、鋼鉄の爪が鋼鉄の手の平を軋ませるまでを見届けて、ヘレネーは悲しそうに解答を示した。
「文字通りの〝収穫〟よ。すべては初期化される。次の星の雫を生み出すため、可能性にすら至れなかった哀れな現生人類は、限られたリソースを有効活用するために、養分となり果てるのよ」
「すべてを費やして、ようやく実るとは、そういう意味か」
「そう。そういった意味で、星の雫は生命の凝縮体であるともいえるわ。これが、月種の企てで、そして罪。これまで何度となく繰り返されてきた世界の歴史。リセット・アンド・スタート。世界樹の年輪。庭園における収穫祭」
「ツェオは、それを防ごうとしているのか?」
「……いいえ、逆ね」
「逆?」
首を傾げて、振り返って彼女の顔を見たゲオルグに、ヘレネーは沈鬱な表情を見せた。
その瞳は、未来を見通したもの特有の、憂いの色にジットリと濡れていた。
「世界のくびき。この世界を〝物理的形質を帯びた限界点の量子化〟たらしめている象徴、エメト・オリジンを破却し、すべての現生人類を滅ぼす。それによって、リソース自体を消滅させ、また消費させないことで、永遠に星の雫を存続させる。二度と奇跡の結晶を実らせない。それが──毀れることも、狂うこともできなかった彼女の、切なる願いよ。喪いたくないと願った、彼女のね」
「俺には、よく意味がわからない……なぜ、ツェオはそんな真似を……」
「ゲオルグ、それはね──」
なにをか言いかけて、彼女は言葉を呑み込んだ。
そうして、前方を見つめ。
ややあって、硬質な声を紡いで、こう言った。
「……話は、後にしましょう。どうやら目的地が見えてきたようよ。あれが世界で最初の神樹木、原初の木、世界樹──」
エメト・オリジン。
ヘレネーが、その名称を呟く。
ゲオルグは顔を戻し、前方を見詰めた。
まだ遥か彼方であるというのに見える威容。
成層圏まで届かんばかりの巨大な樹木──そこに、蒼い胞子を放出する世界樹が、神話のように聳え立っていた。
ブルリと、彼は背筋を震わせる。
ゲオルグたちは、北極圏へと入った──




