生命議論
「覚えていないって……」
「断片的な記憶はある。ツェオと語り、ツェオに世話を焼かれ、ツェオを失うまでの記憶だ。だが、それは一部を切り取ったものに過ぎない。俺自身が、どうして死者隷属術を使えるのか、これを──」
彼が触れたのは、棺桶の形状をした複合調律解析機だった。
「──これを使えるのかも、わからない」
「CRA──それは禁裏をおさめる聖櫃よ。それこそ、本来ならあんたが探し求めているものが入っているはずの」
「……なに?」
「いくつか質問に答えて。そうしたら、星の雫について知っていることを話してあげる」
「やはり知っているのか、星の雫を!」
「大声を出さないで」
激発したゲオルグの怒声に耳を押さえながら、ヘレネーはいさめるように続ける。
「あたしは高位情報知性体。大部分の機能を制限されて、ほとんどの情報ソースを読み取ることはできないけれど、それでも一部はあのエメトから取り戻した。そのなかに、星の雫に関するデータがあったの」
「言え。いますぐにだ」
「……質問に答えてくれたら、必ず教えるわ」
「…………」
ゲオルグの左手が激情に震え、CRAからなんらかの兵装を取り出す直前まで伸びた。
しかし、その手はそれ以上伸びることはなく、震えながらも戻される。
音がなるほど奥歯を噛み締めた彼は、その瞳に宿った恩讐を、ギリギリのところで抑え込んでみせた。
冷や汗をかき、腰を浮かしかけていたヘレネーも、安堵の息をつきながら座り直す。
そうして、彼女は彼に、こう尋ねる。
「あなたは、命をどう定義する?」
「命……?」
ゲオルグは困惑に顔を歪めた。
彼にとって、その質問は場違いだったし、なによりもいま、必要だとはとても思えない話題だったからだ。
しかし、ヘレネーは容赦なく続ける。
「現生人類をネクロイドに変性するということは、その生命活動を剥奪し、固定化された指示式による隷属を要求するものよ。この過程で、精神と記憶は崩壊し、使役者に忠実な人形と化す……まさか、これを知らないということはないわよね?」
「……ああ」
自明というよりも、基礎の基礎である。彼はそれについては知悉しているつもりだった。
だから、ゲオルグは混乱しながらもうなずいたのだ。
その様子を見て、ヘレネーは一度口を閉ざしたが、やがて問いかけを再開した。
「あんたにとって、ツェオちゃんがどんな存在だったか、あたしは知らない」
「ツェオは俺を赦さない」
「そりゃあそうでしょうよ」
呆れたように手の平を天井へと向け、肉の檻にとらわれた高位情報知性体は、肩をすくめてみせた。
「自分を屍人にした人間を許せる女なんていないわ」
「ツェオの存在意義を奪ったのは俺だ。これからも奪うことになるだろう。だから、それは当然の罰だ。だが……」
「だが、なに?」
「……俺も、〝彼女〟を許せない」
「…………」
「ツェオが俺を赦さないことを罰だとするなら、それが俺の罪だ。彼女は自らという存在を軽く扱い過ぎた。彼女を失うことに、俺がどれほど恐怖したかを知らなかった。それがどういうことか知ってもらうためにも……それこそ命の価値を彼女に知らしめるためにも、だから俺は、ツェオ・ジ・ゼルを人間に──人間として蘇らせなければならない」
「記憶がないのに?」
「心は覚えている」
「それじゃあ、まるで復讐ね」
「どう受け取られてもかまわない。だが、それだけが俺にできる贖いだ。記憶ではなく、もっと別のなにかがそう言っている」
「その為に、星の雫が必要だと?」
ゲオルグは、深くうなずいた。
ヘレネーは、眉間にしわを寄せる。
「星の雫がなんであるか、ゲオルグ、あんたは知っているの?」
「いや、命を蘇生させるものとしかわからない」
「……もう一度聞くわ。あなたは命をどう定義する?」
「漠然としすぎている。それでは答えをしぼれない」
「…………」
淡々と答えるゲオルグに対して、ヘレネーの顔には苛立ちが積もりつつあった。
彼女は、小刻みに膝を揺らし、左手の親指の爪を噛むと、苦渋を呑んだような声音で答える。
「命とは──不可逆であるかどうかという、問いかけよ」
「…………」
「たとえ、星の雫があなたの願ったとおりのもので、それでツェオちゃんが人間になったとして──おそらく、彼女の人格は再生しない」
「────」
「記憶も、想いも、願いも、心と呼ばれるものはすべて、魂と呼ばれたものはすべて、別のものにすり替わってしまう。それを記憶した媒体が他にあるというのなら別だけれど……227TBの42乗という途方もない情報量を保存しえる媒体なんて、それこそ現時点ではたったひとつしかないのよ」
「月種も、それを持たないのか?」
「あたしはもう月種じゃない。でも、たぶんないわ。それは、一度の世界に、たったひとつしかありえない奇蹟だから」
「…………」
ゲオルグは黙りこむ。
その猛禽のように険しく細められた瞳のなかでは、ありえないほどの感情が混沌と渦巻いていた。
たった一色、黒色の、だけれど複雑な想い。
それがなんであるかヘレネーは──その場で彼女だけが理解しながら、それでも尋ねずにはいられなかった。
「ねぇ、ゲオルグ」
あんたは。
「生者創生されたツェオちゃんが、まったく別人になるとしても──それでも、星の雫を求めるの?」
「ああ、そうだ」
返答は、驚くほどはやかった。
彼の目は、もはや平時と変わらない漆黒で塗り固められている。
輝きを失った黒曜石のようなそれは、すべてを呑み込むような奈落を開きながら、一切の迷いなく断言する。
「俺は、ツェオをよみがえらせる。彼女を人間にする。その為だけに、俺はいる。だから、ヘレネー」
彼は、頭を下げ、言った。
「星の雫の在処を、教えてくれ」
「…………」
沈黙が、長く続いた。
軌道列車が進む音だけが、レールと車輪がこすれる音だけが、長い時間、響いていた。
一滴の水が空気中に蒸発するぐらいの時間が経ったころ。
おもむろに彼女は、口をひらいた。
その口調は、酷く呆れたような、だけれど、どこか楽しげなものだった。
「北よ。前にも言ったとおり、星の雫は北にある」
ヘレネーは、告げた。
「かつて極圏と呼ばれた場所に、それはある。星の雫は、はじまりの神樹木が実らセル──セ、せせ、セル──ルルルルルルルルルルルルル」
唐突に、彼女のぷっくりとした口唇が、無意味な音の連続を吐き出した。
そして、その鼻梁と両耳、そして目じりから、血液が滴り落ちる。
ぐるりと眼球が白目をむく刹那、ヘレネーは焦燥に満ちた声で警告を飛ばした。
「ク、玖、来る! ゲオルぐ気を付ケテ──この反応は直轄者ノ──」
彼女が言い終えるまえに、凄まじい衝撃が。
移動中の軌道列車を、震撼させた。




