上層へ
「そこは左よ」
背中から響く打突音に促され、ゲオルグは進む方向を変える。
棺桶の上に乱雑に縛り付けられた木乃伊──情報知性体ヘレネーは、その乾燥し切った上あごと下あごをぶつけ、器用に音声を発していた。
彼らがいま進んでいるのは、暗黒に近い領域だ。
最下層から10キロメートル近く上昇しているが、いまだに光源と呼べるものはない。
ヘレネーの全身が放っている、〝神樹木〟の胞子に似た光と視覚を拡張する量子モノクルが、わずかな道しるべとして機能していた。
これまでに数度、彼らは殺処分罠と呼べるものに出くわしていたが、その度にヘレネーの警告もあって、ゲオルグは辛うじて切り抜けることができていた。
そう言った恩恵がなければ、開始数百メートルでゲオルグは行動不能になっていたかもしれない。
それでも、ヘレネーのことを信じるつもりがないゲオルグは、左手に自衛のための銃剣を握ったままだった。
上方へと続く通路は、あまり大きくはない。
がけっぷちに作られた、連絡用の細い線のような道だ。腹を壁に這わせるようにして、ゲオルグは進んでいる。
通路は少し進むたびに袋小路へぶつかるのだが、ヘレネーが枯れ木のような指先をかざすと、粒子化した情報素子が具現化、挿入され、カタカタと積木細工がほどけていくようにして開錠されていく。
そんな風にして、ゲオルグとヘレネーは、構造体の上層部を目指してひたすら歩いていた。
ゲオルグが、油断なく銃剣を構えながら、奇妙な構造体の昇降機構を昇っていると、ヘレネーが小さな声で右奥を見るように促してきた。
彼はそちらに視線を向けるが、距離があるため見通せない。
一度銃剣を収め、単眼鏡を取り出すと、暗視モードで起動する。
「600メートル先よ」
促されるまま倍率を上げると、確かになにかが見て取れた。
巨大なマニピュレーターを備えた、いびつな物体。
一部は化石化しており、他の箇所はたえず崩壊している。
骨組みだけが露出している状態だった。
その巨大な腕の中には、ゲオルグが上層で見た円筒がいくつか握られている。
周囲を見渡せば、同じような状態の物体がいくつも見て取ることができた。
「あれはなんだ?」
「初期型の開拓者よ。それと、培養槽。それよりその先、もっと奥を見て」
「────」
ゲオルグが目を凝らした瞬間だった。
トスっと、軽い音を立て、なにかが背中に押し当てられた。
同時に、凍えるような寒気と引き攣るような痛みが、彼の左胸を貫通する。
「──ッ!」
「うそ?」
うめき声と、意外そうな呟き。
ゲオルグは背面の棺桶ごと、ヘレネーを投棄する。
彼の心臓のすぐ横を、鋭利に変形した骸の左上腕骨が貫通していた。
「あのタイミングで心臓を躱す? というか、それでも十分致死傷なんだけど? これで死なないのか……現生人類も随分変わったものね」
「おまえ──」
血反吐を吐きながら、ゲオルグは銃剣を取り出す。
猛禽のような眼光でヘレネーを睨みつけると、彼はトリガーに指をかけた。
ヘレネーが慌てたように顎を揺らす。
「ちょ。ちょっと待ってプリーズ! 殺そうとしたのは謝るから、話を聞いて! ドンムーブ!」
「目的を言え」
「上層に近づいたから演算リソースが一部回復したのよ! それで、だったら手ごろなあんたの身体を接収したほうが楽かなって!」
「……やはり、有害か」
「イッツアジョーク! そしてイッツアピーンチ! 撃鉄を引かないで! 判断が早すぎるのよ! だいたい、生きてるわけない傷で動かないでアンデット! あ、まって、ゲオルグ! 無駄口はこれ以上叩かないから殺さな──」
BANG。
銃声が、どこまでも続く深淵のストラクチャーに残響する。
ゲオルグが放った重合金製弾頭は、フォーミュラーが建造した破壊不可能なはずの壁面を容易く砕いた。
ヘレネーが唖然と口をつぐむ。
「次は当てる」
「……OK. 素直に謝るわ、ごめんなさい。あんた、外見よりいい奴なのね」
「…………」
驚いたような彼女の言葉に、ゲオルグは渋面を浮かべたが、そのまま黙って棺桶を担ぎ上げた。
そうして、彼らはまた上層を目指して進んでいく。
ヘレネーは二度と、同じような真似をしなかった。
逆に、率先して案内をこなすようになった。
無数の長方形を無秩序に積み上げたようなエリアを抜けたころ、かすかな明かりが見えてきた。
ゲオルグは一定のペースのまま、それに近寄る。
「端末ね」
「掌握できるか」
「無理ね。でも、監視装置の一部を閲覧するぐらいは──」
ヘレネーの虚ろな眼窩から、接続チューブが垂れる。それは生きているかのように蠢き、モニターと操作部からなる端末へと取りついた。
量子モノクルを介することで、周囲の情報が目まぐるしく書き換わっていることにゲオルグは気が付いたが、口出しはしなかった。
突如、右手側の構造体が電磁投射を伴って変形──金属が無数の棘もつ茨となってゲオルグに迫る。
手元のレバーで三点射に切り替えた銃剣、そのトリガーをゲオルグが引く。
射出されたのは数千発の極小金属球を内包した特殊弾頭だった。
合計9000以上の破壊の礫が、彼へと迫った茨の檻へと激突。
そのすべてを食い散らすようにして粉砕する。
微塵となって床に落ちた金属粒子が変性。今度は魔獣の咢となってゲオルグたちへと襲い掛かった。
「まだか──」
「──いいえ、終わりよ」
ゲオルグの呟きに応え、ヘレネーが囁くと、収束しつつあった磁場が霧散し、同時に死の咢もただの粉末となって地に落ちる。
ハッキングに呼応した攻勢防壁は、侵入者の手によって再生不可能な状態まで破却されたのだった。
セキュリティが落ち着いたことを見て取り、ゲオルグは目を閉じ、息をついた。
頬に流れる冷や汗を、なにかがすっと拭った。
ヘレネーが顎をカチカチと鳴らす。
「わかったことがあるの。モニターを見て」
促されるまま──ただし今度は銃剣を突き付けながら──モニターを見るゲオルグの目が、大きく見開かれる。
「忌々しいカンファエットめ。この施設を再稼働するための中枢を探していたな? このネクロイド──慧可珪素置換症の屍人は演算脳の器としてこれ以上ないのよ。まず特別製だし、構築者たる月種への経路が残っている──つまり〝エメト〟に直接つなぐことができるから、容易に器として支配できる──いわば、祭壇と巫。空っぽで自由意識のないあの屍人を使い潰して、奴はやり直すつもりなのよ。月種との交信を──施設自体の更新を!」
そこに映し出されていたのは、無数の接続チューブによって拘束され、脊髄の制御領域に電子端末を差しこまれたツェオの姿だった。
金属置換を起こしている四肢は既に〝神樹木〟の〝苗木〟と溶融を始めており、このままではヘレネーが言うとおり──といっても、ゲオルグには半分程度も理解できなかったが──なんらかの生体パーツとして使い潰されることは目に見えていた。
そして、それは非常に近い将来起きうる出来事だったのである。
「とっくの昔に廃棄されたものにしがみ付いたうえ、あたしのものをこんなにも穢して、使い潰してしまうなんて……あのマザーファッカー!」
「急ぐ方法は?」
巌のように表情を硬くした彼が尋ねると、木乃伊は、それまでの怒りを収め、一度だけガクンと頷いた。
そのまま、首が捥げて地面へと落ちる。
「ここに近道を作る──」
跳ねた木乃伊の首が言葉を口にし、それに同期するよう、モノクルがまた演算リソースの変化を感じ取った。
だが、それはセキュリティの応対ではない。
ゲオルグは気配を感じ取って顔を上げた。
遥か頭上から、ナニカがやってくる──




