見張りコップ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うっへー、こうして改めて自分の部屋嗅いでみると、あんまよろしくねえ臭いだな。
この時期、どうしても部屋干しが多くなってな。天気が悪い日だと、どうにも生乾きの感じがして仕方ねえ。
ん、どうした? なんか洗濯物におかしいところでもあったか?
――どうして、洗濯物を裏返しにして干しているのか?
ええ? お前んち、洗濯物を裏返さねえの?
だってよ。服とかは表側こそ、外の汚れとかにさらされているが、内側だって相当なもんだぜ。外にいようが、室内にいようが俺たちの汗にさらされるわけだからな。表面より汚い説さえあるぞ。
それに表側って人にもたくさん見られるだろ? 傷みや色落ちって、はたから見ると目立つからな。それらがやってくるのを遅らせる意味でも、裏返しって有効らしいぜ。
まあ、俺が聞いた話ってのは、それだけじゃないんだがな。「裏返し」とか「ひっくり返し」の意味、実際にはもっと別の理由もあるらしいぜ。
その話、聞いてみないか?
俺は小さいころ、ふと疑問に思って親に尋ねたことがある。
「どうしてコップとかは、洗ったらひっくり返しておくの?」と。
母親は答えてくれた。それはコップの内側の水を切るためだと。けれど、その他にももうひとつ、理由を付け足したんだ。
「人が使っていない間は、あらゆるものは神様のもの。私たちが見ていないところで、神様が使われるのよ。
誰かに見られてはならない。それは私たちにとって、四六時中、監視されているのと同じようなこと。そして神様の授けてくださるものは、すべての命に必要なもの。
隠しなさい。しまいなさい。その全部が、大事なことになるからね」
俺には、その言葉の意味がさっぱり理解できなかった。
知っているんだ。目を離したものが、どうなってしまうかを。
俺はそれより前に、おもちゃを友達に貸したことがある。流行りのアニメのロボットのもので、せがまれてたった一日だけ、
結果、無残に壊されて返ってきた。詫びも経緯も、友達が頭を下げる姿も、弁償してもらったおもちゃも、ぼんやりと頭の中を通り過ぎていく。
右手が無残に取れたフィギュアの姿。そればかりが目に入り、頭の中でピカピカと、蛍光灯のように瞬き続ける。
――自分のものは、自分が見ていなきゃダメなんだ。いつ、なにが起こるか分からないなら、できる限り目の届くようにしなくちゃ。
そう感じた俺が、母親の「ひっくり返す」発言に逆らうのは、自然のことだった。
当時、俺は自分用のコップを持っていた。これもまたアニメのキャラクターをあしらった、取っ手付きの小さめのコップだ。これもまた、他のコップたちのように、洗い物のカゴの中でひっくり返っている。
俺はコップの姿を見つけると、あえてそれを上向かせる。まだ湿り気の残るコップの内側をじっと見て、母親が二階へ上がった後も、しばらく台所へとどまっていた。
――神様なんて、いやしない。いたら、俺のおもちゃだって守ってくれたはずなんだ。
神様がお使いになる? 人がいない間に、ちょっかいをかけるのは虫くらいのものだろう?
俺は寝るまで、ずっとコップを見張り続けていた。
虫、ほこり、その他の汚す要因の気配がするや、ただちに元を絶ち、触れようものなら、洗剤をふんだんに使って、その痕跡を消しにかかった。
そのたびに思う。
自分が見張っていてこれなんだから、コップをひっくり返していたなら、何が起こっているか分かったものじゃない。だから、こうして見張っているのが、正しいことなんだと。
一度、正しいと思いこんじまったら、直すのは容易じゃない。
俺は日に日に、ナイーブさを増していった。起きている時間はどんどん長くなり、風呂に入るときも、コップを中へ持っていく始末だった。プラスチック製だから、割れる心配はまずない。
そして風呂の中でも、俺は丹念にコップを洗っていた。このことは、親に話はしなかったよ。自分だけの秘密は、誰にだってばらしたくはないもんさ。
とうとう俺は、自分の寝床にまでコップを引っ張り込んだんだ。起きた時に、コップが元の位置へ戻っていないと、親へ怒られるって強迫観念があったからな。眠気がしてきたら、足を忍ばせて台所へ行き、コップを返すのが通例になっていたよ。
あの日までは、な。
その日は、夢の記憶どころか、いつ意識が途切れたのかもわからない、爆睡だったよ。
気づいたときには、いつも起きなきゃいけない時間の1時間半前を、時計が差していた。見張っていたコップは、枕もと。空っぽの中身をさらけ出している。
「やっちまった」と思った。母親がご飯の支度を始めるまで、もう間がないだろう。
音もなく飛び起きた。スリッパは履かない、音が出る。そのまま忍び足で台所へ行くも、水洗いするわけにはいかない。やはり音が立ってしまう。
俺は他のコップに紛れ込ませて、自分のものを裏返す。俺が部屋に戻ってほどなく、はす向かいにある親の部屋の戸を開ける音が響いた。階段を降りていく音は、間違いなく母親のもの。危なかったと、胸をなでおろすのも束の間のことだった。
いつも通り、コップに注いで飲む牛乳。それで腹を壊したのは、俺にとって初めてのことだった。
学校へ行く前へ1回。学校へついて帰るまでに8回。そして家に帰って寝入るまでに11回。どれもこれも「大」だと思って、個室へ閉じこもったんだ。
だが、俺の肛門から出てきたものはなかった。ブツはおろか、便器にたまった水はいささかも色を変えず、拭うトイレットペーパーもしかりだった。ただ屁をこいたように、腹にたまっていたものが、勝手に抜けていくんだ。
一日限りの奇妙なものだったが、少ししてから体重計に乗った俺は、自分の体重が十数キロ落ちていることを知る。
食べて取り戻そうにも、腹が受け付けてくれなくてさ。いまでもこうしてひょろがりな体型で、調子も崩しがちなのさ。
あのひっくり返している時間、神様へ用意するべきだったかな。




