93. カチェル
次に目が覚めたとき、見えたのはまた別の天井だった。
眠る寸前までしていた血の臭いは消えて、いまは木と日向の、よく知っている匂いがする。
(――ギルドか)
商業ギルド、ファーネ支部。慣れ親しんだ我が家である。
眠っているうちに、兵舎から移動されたらしい。
(ラディとウィットは……)
周囲を見回そうと、ブレイズは首を動かした。
今度は首や背が痛むことはなかったが、全身がやけに重たく感じる。
腕を持ち上げようとしたら、固定されていて肘が曲がらなかった。
気を取り直して、周囲を見回す。
ファーネ支部なのは間違いなさそうだが、ブレイズの自室ではないようだ。
出入り口のドアが開け放されていて、そこから暗い廊下が見える。
――と、ブレイズが廊下を見たタイミングで、そこを銀髪の女が通りがかった。
両手にシーツを抱えている。洗濯だろうか。
その目が何気なくこちらへ向いて、女――カチェルと視線がかち合った。
「ブレイズ! 起きたの?」
こくりと頷いて応じる。口の中がカラカラに渇いていた。
「ちょ、ちょっと待ってて」
そう言って、カチェルが視界から走り去る。
しばらくして戻ってきた彼女の手には、シーツの代わりに吸い飲みがあった。
ルシアンに飲まされた薬湯の味を思い出して、顔をしかめる。
「そんな嫌そうな顔しないの。ただのお水よ」
カチェルは小さく笑いながら、吸い飲みの口をブレイズに添えた。
口の中に流れ込んできたのは確かにただの水で、頬の裏側に残っていた薬湯のえぐみを洗い流してくれる。
三、四口ほど飲んで、ブレイズはそれ以上を断った。
「あら、もういいの?」
「あとは自分で飲む」
「医者の許可が出たらね」
そう言って、カチェルは吸い飲みをベッドサイドに置いた。
ちゃぷん、と水が波打つ音が小さく聞こえる。
水をもらって随分とましになった喉で、ブレイズはカチェルに問いかけた。
「……ラディとウィットは?」
「まだ眠ってるわ」
それは意識が戻っていないと言うんじゃないだろうか。
ブレイズが表情を曇らせると、カチェルはなぜか呆れた顔をした。
「あのねえ。あなたたちが医務室に担ぎ込まれてから、今日でまだ三日目よ? 起きてくるあなたがおかしいの」
「おかしいってなんだよ」
「昔からやけに頑丈よねー、骨折もすぐ治っちゃうし」
包帯の巻かれた腕を、カチェルが指でつんつん突っついてくる。
痛くはないが、こそばゆいのでやめてほしい。
「……医務室でも、一回起きたんだって?」
「ああ」
「じゃあ、私が何やってるかも見ちゃったか」
「見てねえけど、ルシアンから聞いた」
「そう」
ブレイズをつつく手を止めて、カチェル小さく息を吐いた。
「……ラディも大丈夫よ。肋骨が折れて肺も破れてたけど、セーヴァと一緒に全部治したから」
「そういや、治癒魔術士だったんだって?」
「すぐ飛び出しちゃったんだけどね」
それから、カチェルは隣国の治癒魔術士について、簡単に教えてくれた。
隣国ハルシャで育った治癒魔術士は、その全てが国の管理下におかれる。
自国の貴族や外国の王侯貴族に仕えることもあるが、それも『国からの派遣』という形だ。
ハルシャの王――あちらでは『皇』と呼ぶらしいが、その一存で引き上げさせることもあるという。
致命傷すら癒す強力な存在を、意のままに与えたり取り上げたり。
そうやって、他者の命を握るような真似をして、ハルシャという国は秩序を保ってきたのだそうだ。
「でも、不満に思う貴族が出ないわけないわよね」
カチェルは苦く笑いながら言う。
「私が派遣された貴族の家の、跡取り息子がそうだったわ。何があっても国に取り上げられない治癒魔術士を欲しがって……それで、私が目をつけられた」
そこでやっと、ブレイズは彼女がこれまで見たことのない暗い瞳をしていることに気がついた。
嫌な思い出なら別に話さなくても、と思うのだが、いまさら口にできる雰囲気ではない。
カチェルは少しためらったのち、ため息のような声で続けた。
「当主自身が治癒魔術を使えれば、国に取り上げられることもない。――私が当主の血を引いた子供を産めば、治癒魔術を使える跡取りができる」
「おい、それ――」
「実際、そんな簡単に遺伝するものでもないんだけどね。親が同じでも、妹には素質なかったし」
言葉を遮られたブレイズは、それ以上何も言えず黙り込む。
何をされたか、されそうになったかは想像がつく。これ以上は喋りたくないのだろう。
「それで、逃げてきたの。向こうは貴族だし、国内じゃ逃げ切れないと思ったから、船に乗って国を出て。でも、遠くまで行くほどのお金もなくて……」
「で、ファーネに来たと」
「来たときはびっくりしたわ、どこもかしこもボロボロなんだもの。宿屋もやってないって言われて、あのときは本当にどうしようかと思ったわね」
カチェルがファーネの街に来たのは、十年前の大襲撃から一年経つか経たないかくらいの頃だ。
南の防壁を立て直しつつ生きていくのに精一杯で、他人を受け入れる余裕なんて誰にもなかっただろう。
「……あのとき声をかけてくれたのが、まだ子供だったあなただったわね」
「そうだったか?」
「覚えてないの? もう……」
カチェルが楽しそうにくすくす笑う。その瞳からは、先ほどまでの暗さが失せていた。
いまはもう、大丈夫なのだろう。ファーネで暮らしているぶんには、嫌な過去を思い出すことはない。
……いや、『なかった』。
いままでは。
「……いいのかよ、バラしちまって」
「あなたとラディを見殺しにするよりはいいわ」
「生きづらくなるぞ」
「それも大丈夫」
見て、とカチェルは左手をブレイズの目の前に突き出してきた。
手首に焦げ茶色の革紐が巻かれていて、その下で金色の平べったい飾りが揺れている。
飾りには、何かの印らしきものが彫られていた。
「金の飾りに刻印があるでしょ? ……ケヴィン殿下の紋章なんですって」
「どういうことだ?」
どうしてそこで、あのやたら声のでかい第三王子殿下が出てくるのか。
いまいち理解できないでいると、カチェルが手を引っ込めながら教えてくれた。
「とりあえずの『貴族避け』だそうよ。……ほら、ここの領主様とかしつこそうじゃない」
「ああ……」
精霊使いのロアを伴い、王都へ向かったときのことを思い出した。
致命傷の治療ができない精霊使いですら、あれこれ付きまとって閉口させるほど欲しがっていた連中だ。
領内で在野の治癒魔術士など見つけたら、手段を選ばず取り込もうとするだろうと容易に想像がつく。
「だからひとまず、『第三王子が勧誘してる最中だから割り込むな』って印だって」
「勧誘されたのか?」
「どっちでもいいそうよ。いまは切羽詰まってる状況じゃないから、ずっと保留中のままでも別にいいって」
無断で出国した、後ろ盾のない他国人にしては破格の扱いだ。
もちろん、事情が変われば強引にカチェルを召し抱える可能性はあるだろうが……。
どういうつもりか聞いてみたいところだが、ケヴィンは王への報告のため、昨日すでに王都へ発ってしまったらしい。
マーカスやリアムも一緒に行ってしまったらしいので、彼の思惑を尋ねられそうな人物がいない。……いや、国軍のレスター隊長なら知っているだろうか。彼が残っているかは知らないが。
「そうそう、ケヴィン殿下から伝言よ。『これで借りは返した』だって」
「借り?」
「前に来たとき、あなたに世話になったからって言ってたけど?」
「ああ、確かそんなこと言ってたような……」
いまいち思い出せないが、当人が言っているならそうなのだろう。
(それで、カチェルを守ってくれたわけか)
納得していると、カチェルが困ったような顔をした。
「ごめんなさいね、私のことで返されちゃって」
「それは別にいいんだけど」
どうせ覚えてすらいなかった貸しだ。返してもらう当てがあったわけでもない。
ファーネ支部から彼女を取り上げられないために使われたのなら、それでいい。
「……返されすぎて、逆に借りができちまったような気がする」
ブレイズのぼやきに、カチェルが小さく吹き出した。
「そう思うなら、返せるように頑張りましょうか」
「もう書けてるし出すか」という軽い気持ちで更新しました。
来週の更新が遅れたら指さして笑ってください。




