90. 気配の主
――その、咆哮とも衝撃ともつかない『何か』に晒されて。
森の中を走っていたブレイズとラディは、思わずその場に足を止めた。
周囲の木々が、まるで生きているかのようにざわめき、音を立てて枝葉を揺らす。
枝に止まっていた鳥たちが、一斉に空へと飛び立っていった。
「なんだ……?」
ラディが不安げに眉を寄せて、恐る恐る周囲を見回す。
そんな彼女の数歩先で、ブレイズは額に冷や汗を浮かべていた。
(あいつだ)
ウィットを拾った、あの雷雨の夜に、森を支配していた気配。
あれ以来まったく出てこなかったので、どこかへ去ったか、ひょっとしたら自分の気のせいだったかと思いかけていた。
(ウィットが森に入ってるときに、か)
この気配の主がウィットだとは思えない。
あの夜に彼女がまとっていたのは、もっと別の、無機質な雰囲気だった。
だが、もしかしたら何か関係があるのかもしれない。
「――イズ、ブレイズ?」
「あ、悪い」
ラディの呼びかけで我に返った。どうやら考え込んでしまったらしい。
心配そうに見上げてくる相棒に「大丈夫だ」と言って、ブレイズは周囲を見回した。
森は静まり返っている。先ほどのざわめきが嘘のようだ。
しかし異様な気配は消えることなく、いまも森に満ちている。
「ウィットは無事かな」
息をするのもためらうような空気の中、ラディがぽつりと呟いた。
そうだ、ウィットと子供を連れ戻しに来たんだった。
ラディがちらりと視線を向けてくる。
「どうする?」
「そうだな……」
いま最優先ですべきは、ウィットを探すことだ。
だからひとまず、森の東側へと向かっていたわけだが……。
「……この気配、ウィットと森で出くわしたときと同じやつだと思うんだ」
「あの、『得体のしれない何かがいた』って言ってたやつか?」
「ああ」
肯定すると、ラディは少し考える様子を見せて。
「……この気配の原因がウィットだとしたら、気配をたどっていけば会えるかもしれない」
「確かにな」
この気配がウィットと関係あるものならば、その近くに彼女がいる可能性は高い。
無関係だったら無駄足になってしまうが――。
「賭けるか」
「一応、二手に分かれることもできるけど?」
「やめとく。腹空かせた肉食獣がごろごろしてんだ、一人で歩いてて群れで襲われたらまずい」
そうだな、とラディが頷いた。本当に『一応』聞いただけだったらしい。
「それで、気配の出どころに心当たりはあるのか?」
相棒の質問に、今度はブレイズが頷いた。
気配の濃い方角からしても、おそらく間違いないだろう。
「――白の小屋だ」
◇
それから一度も獣の襲撃を受けることなく、ブレイズたちは白の小屋までたどり着いた。
普段なら考えられないことだが、いまの森の雰囲気ならおかしくないと思ってしまう。
相変わらず、小屋の周辺に生き物の気配はないようだった。
この異様な気配に怯えて、どこかへ逃げ去ってしまっただけかもしれないが。
「ウィットは……いねえか」
「小屋の中かもしれない」
ラディが小屋へ向かって足を踏み出す。
その瞬間にわかに嫌な予感がして、ブレイズはとっさに彼女の腕を掴んだ。
「ブレイズ?」
訝しがる相棒を、何も言わず引き戻す。
その直後、彼女の足があった場所を何かがえぐった。
「え?」
「――下がるぞ!」
何が起こったかわからず、目を見開くラディ。
彼女の腕を掴んだまま、ブレイズは森へ逃げ込むべく踵を返した。
周囲の木々が揺れ始める。震えるように、断続的に。
木の幹に蹴りを入れたときの揺れ方に似ている――そう思ったのと同時、近くに生えていた木の樹皮が弾け飛んだ。
(何が起こってるんだ?)
目の前で、木の幹に大きな傷がつく。
反射的にラディを森へ突き飛ばし、振り返りながら構えた剣に強い衝撃。
(なんだよ、これ?!)
両手で剣を支えながら、ブレイズはひどく混乱していた。
何かに攻撃を加えられている、というのはわかる。
しかし、その『何か』の正体がわからない。
ブレイズは目がいいほうだが、その視力をもってしても、相手の姿をとらえられないのだ。
何度も剣に衝撃が走る。
受け止めることしかできないでいると、急に周囲の空気が冷えた。
ぱきん、と足元でかすかな音がする。
「捕らえた!」
ラディの声が聞こえた直後、目の前に分厚い氷の壁が現れた。
同時に、それまで続いていた剣への衝撃もなくなる。
ほっと息をついて剣を下ろした直後、ブレイズは自分の目を疑った。
氷壁の中心に近いところに、丸い穴が開いている。
人間の胴回りに近い大きさで、その先には白の小屋が見えた。
なのに、穴の周囲から白くヒビが入って、氷壁全体へと広がっていく。
何もないはずの穴の内側から、何かが力を加えている。
見る見るうちに、半透明だったはずの氷壁は、ヒビに覆われて白く濁ってしまった。
ピシリと音を立てた直後、粉々に砕け散る。
何かを振り回したような風が巻き起こって、近くの灌木が吹き飛ばされた。
「おっと」
「ブレイズ、こっちだ」
「おう」
ぎりぎりで後ろに飛び退いて難を逃れたブレイズは、ラディの声がけに応じてそちらへ駆け寄る。
太くて丈夫そうな木を選び、二人でその陰に引っ込んだ。盾にくらいはなるだろう。
「見たか、さっきの」
小声で聞くと、ラディはこわばった表情でこくりと頷いた。
「間違いなく、氷の壁で捕まえたはずなのに……」
ブレイズもそこは疑っていない。
あの氷壁が砕け散るまでの間、確かにこちらへの攻撃は止んでいたのだ。
ブレイズの剣を打ち据えていた『何か』を氷壁に閉じ込めた、その結果があれだということは――。
「何も見えなかったのは、動きが速いとかじゃなくて……そもそも見えねえ奴だったからか」
信じられないことだが、実際この目で見てしまったのだから認めるしかない。
目の前には、不可視の肉体を持った『何か』がいて。
その『何か』は、なぜか白の小屋の周辺で暴れ回っている。
「どうすっかな……」
自分たちだけでは手に余る相手だ。
姿が見えなくとも、殺すだけなら色々とやりようがある。ラディが周辺一帯を焼き払うとか、水没させるとか、氷漬けにするとか。そのくらいの魔力はまだ残っているだろう。
しかし、そもそも自分たちの目的はウィットたちの保護なのだ。
あれを殺すことにこだわる必要はないし、もしもウィットが白の小屋の中にいた場合、巻き添えにしてしまう可能性が高い。
ふと、ラディが眉をひそめた。
「……ブレイズ。音、止んでないか」
言われて木の陰から小屋を窺ってみれば、いつのまにか、あたりは静けさを取り戻していた。
揺さぶられていた木々はもう揺れておらず、嵐のような風圧も感じない。
ただ、異様としか表現できない気配だけは、変わらずその場に満ちている。
「俺らが離れたからか?」
かもしれない、とラディが頷いた。
「小屋に近づかなければ何もしない、ということかな」
だとすれば、この近くにウィットはいないのかもしれない。
あてが外れたか――そう思ったのとほぼ同時。
離れた位置にある茂みから、音を立てて何かが飛び出した。
「あれは――」
「ウィット!!」
相棒の声をかき消すほどの大声で、ブレイズは飛び出した子供の名を叫ぶ。
一直線に、白の小屋へと駆けていく黒髪の子供。
抜き放った剣や服のあちこちに、赤黒い血がにじんでいる。
「ウィット、ダメだ! 近づくな!」
ブレイズが制止のために声を上げるが、ウィットが立ち止まる様子はない。
まったく聞こえない距離ではないはずだ。なのに、こちらへ目を向けることすらしない。
(なんだんだよ……!)
さっきから混乱しっぱなしだ。
わからないことばかりの状況に苛立って、ブレイズはぎしりと奥歯を鳴らす。
新たな侵入者に気づいたのだろう、再び周囲の木が揺らされはじめた。
地面がえぐられ、強い風が巻き起こる。
「間に合えっ……!」
ブレイズの隣から、ラディがウィットの方へと手をかざした。
走るウィットの前方がきらきらと輝き、彼女を守るように、行く手を阻むように、氷の壁が作られる。
――ウィットは右手に握っていた剣で、その壁を横に斬り裂いた。
「え」
ラディが小さく声を上げた直後、斬られた氷壁の上半分がふっ飛んでいく。
何かに弾かれたようなふっ飛び方だった。弾いたのはウィットではなく『あれ』のほうだろう。
周囲に飛び散る氷の欠片を紙一重で避けて、ウィットは再び走り出す。
風で巻き上がった前髪の下で、その両目は緑色に光っていた。
ここ1ヶ月ほど更新日時を金曜夜にしていたのですが、水曜日くらいには書き上がってて「これもう更新できるんだけどなあ」と思いながら寝かせておく週が多かったのでどうしようかなーと考え中です。
ひとまず年内(93話くらいまで)はこのままの予定ですが、年明けからはまた考えたいと思います。朝更新はやめるかもしれない。




