89. 靴屋のイヴと大トカゲ
一方その頃、森の中では。
「あ、危なかった……」
片目を潰されて逃げ去っていく狼を見ながら、ウィットはその場に膝をついた。
庇うために突き飛ばした子供が、少し離れた場所でえぐえぐ泣いている。ちゃんと気づいているけれど、ちょっと気持ちを落ち着ける時間がほしい。
(出たのが一匹だけで助かった)
もし複数いたら、さすがに自分か子供のどちらか犠牲になっていただろう。
群れからはぐれた個体だろうか? だとしたら、近くに群れがいる可能性が高い。
(逃したの、まずかったかも)
さっきの狼が群れに戻ったら、今度は複数で来られるかもしれない。
だとすれば、さっさとこの場を離れるべきだろう。
結論を出して、ウィットはゆっくりと立ち上がった。
腰は抜けていない。手も、膝も震えていない。動くのに支障はなさそうだ。
周囲の気配を窺ってから、泣き続けている子供に声をかけた。
「イヴ、であってる? 靴屋のイヴ」
「うう……ひっく」
濡れた瞳でこちらを見上げて、子供はこくんと頷いた。
まだ話せないが、会話に応じる意思はあるらしい。
「僕はウィット」
イヴの前にしゃがみ込む。
腰のポーチからハンカチを出すと、頬を濡らす涙ごと、顔についた泥を拭いてやった。
息を整えたイヴが、ほっと安堵の息をつく。
「ありがと、ウィットお兄ちゃん」
「うん」
ハンカチはそのままイヴに持たせてやった。気になるところがあったら自分で拭けばいい。
すっかり汚れてしまったので、ポーチに戻す気にもなれなかった。
「僕はね、きみを迎えにきたんだ」
「おむかえ?」
立ち上がってイヴに手を差し伸べると、彼女は素直に手を重ねてくる。
引っ張って立たせてやりながら、ウィットは続けた。
「この森は危ないから。これ以上奥に進んだら、もっと怖い獣が出るよ」
「でも、わたし、みどりいろの木を探さないと」
「その木が一番危ないんだよ」
イヴの探しているのがリド・タチスだとしたら、その周囲は種を食べておかしくなった獣だらけのはずだ。
なおのこと、行かせるわけにはいかない。
「だいたい、きみ、あのおじさんたちに何を言われたのさ」
「見てたの?」
「……そうだよ。だから追っかけてきたの。それで?」
話を促すと、イヴは「えーと」と視線を宙に投げながら口を開く。
「おじさんたち、どうしてもほしい種があるんだって。それを持ってきてくれたら、お金を出してくれるっていうから」
「お金?」
「お人形を、えっと、おとりよせ? するのに、お金がたくさんかかるの」
人形、というキーワードで、なんとなく話が見えたような気がした。
つい最近、その手の話を聞いた覚えがある。
「……ひょっとして、チェルシーと喧嘩した子って、きみ?」
ウィットの質問に、イヴは再び目に涙を溜めて、こくんと頷いた。
「チェルシーちゃん、お人形買ってもらえなかったって聞いて……お店も、別のに変わっちゃってて。でも、あのおじさんたちが、前のお店の人と知り合いだから、お金を払えば持ってきてもらえるよって」
「それで、きみがお金を出そうと思ったの?」
「そしたら一緒に遊べるでしょ?」
「えーっと……どうだろうね」
何と言えばいいのかわからず、イヴから目をそらした。
それをやると最悪の場合友達でなくなる、ということを、十にもならない子供に理解させるのは難しい。
(というか、のんびり話してる場合じゃないんだった)
自分たちが危険地帯にいることを思い出して、ウィットはイヴの手を引いた。
「とにかく、ここを離れるよ。さっきの狼が仲間を連れて戻ってくるかもしれない」
「え、でも種を取ってこないとお金もらえない……」
悠長なことを言って踏みとどまろうとするイヴに、思わず舌打ちしそうになる。
怒鳴りつけそうになったけれど、ぎりぎりで理性が苛立ちを抑え込んだ。
思い切り息を吐いて、吸って、気持ちを落ち着けてから口を開く。
「イヴ。どうして僕が、きみの名前を知ってたと思う?」
「え……」
イヴはきょとんとした顔をした。
「チェルシーちゃんに聞いたんじゃないの?」
「そうだよ。……きみがおじさんたちと話してるのを、チェルシーも見てたんだ。僕と一緒に」
「チェルシーちゃんが?!」
一段高い声を上げたイヴの目が、きらきらと輝いている。随分と嬉しそうだ。
その勢いに、ウィットは口元を小さく引きつらせた。試しに名前を出してみただけで、ここまで反応されるのは予想外である。
(チェルシー、きみ、ものすごく執着されてるんだね……)
少々どころでなくドン引きしているのだけれど、それはそれとして、この執着心を利用しない手はない。
何を言おうかと少し考えて、ウィットは再び口を開いた。
「僕はチェルシーから頼まれて、きみを連れ戻しに来たんだよ」
「戻る!」
……もうこれチェルシーの名前出せば何言っても信じるだろうな、と。
そう思って踏み込んだことを言ってみたら、あっさり信用されてしまった。いや、チェルシーがイヴの身を案じていたのは本当だから、嘘をついたわけでもないけれど。
(この子、こんなんで大丈夫なんだろうか)
そのうちまた騙されそうで心配になる。
まあ、親御さんに会うことがあったら忠告しておこう。
とにかく、イヴの気が変わらないうちに戻らなければ。
ウィットが彼女の手を握り直した、そのとき。
――どすん。
地面が、揺れた。
(地震……じゃないな)
揺れが突発的すぎる。
どちらかというと、近くを大きな乗り物が通っていったときの揺れに近い。
そんなことを考えている間に、もう一度、どすん。
(――足音)
気づいてすぐ、ウィットは逃げようとイヴの手を引いた。
イヴも揺れる地面が気にかかるようで、今度は抵抗せずについてくる。
その間にも、どすどすと地面は揺れている。
足音が、近づいてくる。
子供の歩調に合わせていられない。
ある程度離れた場所まで、イヴを抱き上げて走ろうかと考えたが……行動を起こすには、少し遅かった。
少し離れた木と木の間から、ぬうっと巨大な頭が現れる。
鱗に覆われた、爬虫類の頭部だ。
体表は緑色。ところどころ、茶が混じっている。
「ひ……!」
すぐそばで、小さくイヴが悲鳴を上げた。
それが聞こえたのか、巨大な頭がぐりんとこちらへ向けられる。
左右に大きく裂けた口の右端から、何やら毛らしきものが飛び出しているのが見えた。
「コォォォォ……」
ウィットたちのほうへ頭を向けたまま、爬虫類――巨大なトカゲのような何かが、低い音を出す。
風が空洞を抜けていくような音は、その巨体のせいで、低いうめき声のようにも聞こえた。
「あ……ああっ」
がたがたとイヴが震えているのが、繋いだ手越しに伝わってくる。
びちゃびちゃと水音が聞こえてくるのは、ひょっとして漏らしたのだろうか。
無理もない。自分だってそうなりかけた。
(……どうする?)
すでに見つかり、注視までされている。
この子を連れていては、全力で走れない。
一緒に逃げても、逃げ切れる可能性は限りなく低いだろう。
(僕ひとりなら、なんとかやり過ごせるかな)
そこまで考えて、ウィットはイヴの手を離した。
「イヴ」
離した手で、そっと頭を撫でる。
「ひとりで逃げられるね?」
「お兄ちゃん……?」
片手に持っていた剣を、両手でしっかりと握る。
不安げなイヴを背に庇って、前に出た。
「あのトカゲが追ってこないように、僕がここで時間を稼ぐ。だからイヴ、きみは街まで走るんだ」
「そんな!」
イヴが悲痛な声を上げる。
「やだ、こわいよぅ」
「やだじゃない!」
トカゲと睨み合ったまま、ウィットは背後へ怒鳴りつけた。
大声に反応してか、トカゲが大きく口を開く。威嚇のようだ。
口の中をよく見ると、杭のような牙に、血まみれの毛皮らしきものが引っかかっていた。
(さっき逃した狼かな)
逃げている途中で喰われたなら、狼の群れがこちらに来る可能性は低くなるけれど……この状況では焼け石に水でしかない。
「早く行くんだ、イヴ! ……ここで死んだら、二度とチェルシーと友達になんか戻れないぞ!!」
「……っ!」
ようやく踏ん切りがついたのか、イヴはその場から走り去った。
あとは、彼女が無事に保護されることを祈るだけだ。
ふう、と小さく息をついて、剣の切っ先をトカゲに向け直す。
トカゲはこちらへ頭を向けたまま、低く唸り声を上げている。
(恐竜って、こんな感じだったのかな)
いつのことだったか。
博物館で、恐竜の化石を見たことがある。
こちらの体が丸ごと収まりそうな、大きな口。ずらりと並んだ、杭のような牙。前足の先には、長く鋭い爪があった。
これが生きて、動いていたら、一口でぱっくりいかれそうだ――なんて。
そんなことを考えながら、見上げていたような覚えがある。
ここにいたのが自分だけだったら、とっくに逃げ出していた。
いまだって、すぐにでも逃げ出したくてたまらない。
(……でも、イヴが遠くに行くまでは時間を稼がないと)
恐怖心を、理性と計算と倫理観で押さえつける。
イヴを先に逃したのは、自分のほうが年上だから。それだけだった。
イヴが逃げたことで何か考えが変わったのか、トカゲがのそりとこちらへ足を踏み出してくる。
このまま睨み合いで時間を稼げればと思っていたのだけれど、世の中そこまで甘くないらしい。
ぐっ、とトカゲが身を低くする。
(来る――!)
ウィットは咄嗟に右へ跳んだ。
躍りかかってきたトカゲの前脚が、一瞬前まで立っていた場所に叩きつけられる。
「はっや」
それなりに距離が開いていたはずなのに、一瞬で詰められた。
巨体だから鈍重だろうとなめてかかったら、その場でお陀仏だ。
トカゲが素早い身のこなしで、こちらへ頭を向け直す。
ぐるんと振られた尻尾が、その先にあった低木をなぎ倒した。
(背後も危ない、と)
観察しつつ、側面へ回り込むように走る。
同じ四足歩行だ、四足の獣と同じように考えるのが妥当だろう――と、相手ばかり気にして走ったのがいけなかった。
「うわっ」
近くの木の根に、ブーツのつま先がひっかかった。
なんとか転倒することは避けたものの、その場で軽くたたらを踏んでしまう。移動速度が鈍る。
すぐに動けない獲物めがけて、トカゲが片方の前脚を振り上げた。
「やば――」
死を覚悟した、その一瞬。
焦る内心とは別のところが、冷静に計算を開始する。
剣で受け止められる可能性は極小。受け流せる可能性も、やはり極小。
剣も肉体も、叩きつけられる前脚の重量に耐えきれない。
背後には木の幹があるため、後退も非推奨。
目の前では、トカゲががこちらへ無防備に腹を晒している。
「っ、前!」
怯みをねじ伏せて、地を蹴った。
頭を低くして、振り下ろされる前脚を回避する。そのまま転がり込むようにして、巨体の白い腹の下へ。
(お腹側なら柔らかいかな)
殺せるとまでは思っていないけれど、せめて傷を負わせて追い払えれば。
そんな考えで、頭上の腹へ剣を振るってみる。
がちりと、硬い鱗に阻まれる感触。
「だよね」
あまり期待はしていなかった。
さっさと離脱しようと、剣を引きかけて。
「――へ?」
硬い鱗に覆われた皮に、ずぶりと刃が飲み込まれた。
隙間から赤い血がぼたぼたと落ちて、ウィットの手を汚していく。
――何が起こったか、わからない。
「クァァァァァ!!」
「うわっ」
斬られた痛みにだろうか、トカゲが喉を鳴らして吠えた。
身をよじって暴れだしたので、慌てて腹の下から抜け出る。
腹に埋まったままの剣を引っ張ると、刃がざくざくと白い腹を裂いた。
「……いやいやいや」
鱗もさることながら、巨体だけあって、皮そのものも硬くて厚かったはずだ。
ブレイズだったらざっくりやれそうだけど、ウィットの腕でこんな簡単に斬れるわけがない。というか、そもそも斬ろうと思っていたわけでもないし。
なんとか抜け出し、暴れるトカゲから距離をとって――ふと、気がついた。
剣を持つ手が、震えている。
がたがたと、ぶるぶると、まるで痙攣しているかのように。
「これは……」
ウィットは剣を持ち上げて、震える手を他人事のように見下ろす。
血を弾く剣身にぼんやり緑色が映るのを見て、ああ、と納得した。
「そっか」
剣身に映る、緑色の瞳。
遠く、おそらくは西の方角で、斬るべきものが声なき咆哮を上げる。
「きみは……ずっと、怖かったんだね」
異様な気配に怯えたトカゲが、森の奥へと逃げていく。
それを見送ることなく、最近『ウィット』と呼ばれているその子供は、西の空を睨みつけた。
黒い子側はここまで。次から主人公側に視点が戻ります。




