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魔境の森と異邦人  作者: ツキヒ
3:ファーネの墓守
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89. 靴屋のイヴと大トカゲ

 一方その頃、森の中では。


「あ、危なかった……」


 片目を潰されて逃げ去っていく狼を見ながら、ウィットはその場に膝をついた。

 庇うために突き飛ばした子供が、少し離れた場所でえぐえぐ泣いている。ちゃんと気づいているけれど、ちょっと気持ちを落ち着ける時間がほしい。


(出たのが一匹だけで助かった)


 もし複数いたら、さすがに自分か子供のどちらか犠牲になっていただろう。

 群れからはぐれた個体だろうか? だとしたら、近くに群れがいる可能性が高い。


(逃したの、まずかったかも)


 さっきの狼が群れに戻ったら、今度は複数で来られるかもしれない。

 だとすれば、さっさとこの場を離れるべきだろう。


 結論を出して、ウィットはゆっくりと立ち上がった。

 腰は抜けていない。手も、膝も震えていない。動くのに支障はなさそうだ。


 周囲の気配を窺ってから、泣き続けている子供に声をかけた。


「イヴ、であってる? 靴屋のイヴ」

「うう……ひっく」


 濡れた瞳でこちらを見上げて、子供はこくんと頷いた。

 まだ話せないが、会話に応じる意思はあるらしい。


「僕はウィット」


 イヴの前にしゃがみ込む。

 腰のポーチからハンカチを出すと、頬を濡らす涙ごと、顔についた泥を拭いてやった。

 息を整えたイヴが、ほっと安堵の息をつく。


「ありがと、ウィットお兄ちゃん」

「うん」


 ハンカチはそのままイヴに持たせてやった。気になるところがあったら自分で拭けばいい。

 すっかり汚れてしまったので、ポーチに戻す気にもなれなかった。


「僕はね、きみを迎えにきたんだ」

「おむかえ?」


 立ち上がってイヴに手を差し伸べると、彼女は素直に手を重ねてくる。

 引っ張って立たせてやりながら、ウィットは続けた。


「この森は危ないから。これ以上奥に進んだら、もっと怖い獣が出るよ」

「でも、わたし、みどりいろの木を探さないと」

「その木が一番危ないんだよ」


 イヴの探しているのがリド・タチスだとしたら、その周囲は種を食べておかしくなった獣だらけのはずだ。

 なおのこと、行かせるわけにはいかない。


「だいたい、きみ、あのおじさんたちに何を言われたのさ」

「見てたの?」

「……そうだよ。だから追っかけてきたの。それで?」


 話を促すと、イヴは「えーと」と視線を宙に投げながら口を開く。


「おじさんたち、どうしてもほしい種があるんだって。それを持ってきてくれたら、お金を出してくれるっていうから」

「お金?」

「お人形を、えっと、おとりよせ? するのに、お金がたくさんかかるの」


 人形、というキーワードで、なんとなく話が見えたような気がした。

 つい最近、その手の話を聞いた覚えがある。


「……ひょっとして、チェルシーと喧嘩した子って、きみ?」


 ウィットの質問に、イヴは再び目に涙を溜めて、こくんと頷いた。


「チェルシーちゃん、お人形買ってもらえなかったって聞いて……お店も、別のに変わっちゃってて。でも、あのおじさんたちが、前のお店の人と知り合いだから、お金を払えば持ってきてもらえるよって」

「それで、きみがお金を出そうと思ったの?」

「そしたら一緒に遊べるでしょ?」

「えーっと……どうだろうね」


 何と言えばいいのかわからず、イヴから目をそらした。

 それをやると最悪の場合友達でなくなる、ということを、十にもならない子供に理解させるのは難しい。


(というか、のんびり話してる場合じゃないんだった)


 自分たちが危険地帯にいることを思い出して、ウィットはイヴの手を引いた。


「とにかく、ここを離れるよ。さっきの狼が仲間を連れて戻ってくるかもしれない」

「え、でも種を取ってこないとお金もらえない……」


 悠長なことを言って踏みとどまろうとするイヴに、思わず舌打ちしそうになる。

 怒鳴りつけそうになったけれど、ぎりぎりで理性が苛立ちを抑え込んだ。


 思い切り息を吐いて、吸って、気持ちを落ち着けてから口を開く。


「イヴ。どうして僕が、きみの名前を知ってたと思う?」

「え……」


 イヴはきょとんとした顔をした。


「チェルシーちゃんに聞いたんじゃないの?」

「そうだよ。……きみがおじさんたちと話してるのを、チェルシーも見てたんだ。僕と一緒に」

「チェルシーちゃんが?!」


 一段高い声を上げたイヴの目が、きらきらと輝いている。随分と嬉しそうだ。

 その勢いに、ウィットは口元を小さく引きつらせた。試しに名前を出してみただけで、ここまで反応されるのは予想外である。


(チェルシー、きみ、ものすごく執着されてるんだね……)


 少々どころでなくドン引きしているのだけれど、それはそれとして、この執着心を利用しない手はない。

 何を言おうかと少し考えて、ウィットは再び口を開いた。


「僕はチェルシーから頼まれて、きみを連れ戻しに来たんだよ」

「戻る!」


 ……もうこれチェルシーの名前出せば何言っても信じるだろうな、と。

 そう思って踏み込んだことを言ってみたら、あっさり信用されてしまった。いや、チェルシーがイヴの身を案じていたのは本当だから、嘘をついたわけでもないけれど。


(この子、こんなんで大丈夫なんだろうか)


 そのうちまた騙されそうで心配になる。

 まあ、親御さんに会うことがあったら忠告しておこう。


 とにかく、イヴの気が変わらないうちに戻らなければ。

 ウィットが彼女の手を握り直した、そのとき。


 ――どすん。


 地面が、揺れた。


(地震……じゃないな)


 揺れが突発的すぎる。

 どちらかというと、近くを大きな乗り物が通っていったときの揺れに近い。

 そんなことを考えている間に、もう一度、どすん。


(――足音)


 気づいてすぐ、ウィットは逃げようとイヴの手を引いた。

 イヴも揺れる地面が気にかかるようで、今度は抵抗せずについてくる。

 その間にも、どすどすと地面は揺れている。

 足音が、近づいてくる。


 子供の歩調に合わせていられない。

 ある程度離れた場所まで、イヴを抱き上げて走ろうかと考えたが……行動を起こすには、少し遅かった。


 少し離れた木と木の間から、ぬうっと巨大な頭が現れる。

 鱗に覆われた、爬虫類の頭部だ。

 体表は緑色。ところどころ、茶が混じっている。


「ひ……!」


 すぐそばで、小さくイヴが悲鳴を上げた。

 それが聞こえたのか、巨大な頭がぐりんとこちらへ向けられる。

 左右に大きく裂けた口の右端から、何やら毛らしきものが飛び出しているのが見えた。


「コォォォォ……」


 ウィットたちのほうへ頭を向けたまま、爬虫類――巨大なトカゲのような何かが、低い音を出す。

 風が空洞を抜けていくような音は、その巨体のせいで、低いうめき声のようにも聞こえた。


「あ……ああっ」


 がたがたとイヴが震えているのが、繋いだ手越しに伝わってくる。

 びちゃびちゃと水音が聞こえてくるのは、ひょっとして漏らしたのだろうか。

 無理もない。自分だってそうなりかけた。


(……どうする?)


 すでに見つかり、注視までされている。

 この子を連れていては、全力で走れない。

 一緒に逃げても、逃げ切れる可能性は限りなく低いだろう。


(僕ひとりなら、なんとかやり過ごせるかな)


 そこまで考えて、ウィットはイヴの手を離した。


「イヴ」


 離した手で、そっと頭を撫でる。


「ひとりで逃げられるね?」

「お兄ちゃん……?」


 片手に持っていた剣を、両手でしっかりと握る。

 不安げなイヴを背に庇って、前に出た。


「あのトカゲが追ってこないように、僕がここで時間を稼ぐ。だからイヴ、きみは街まで走るんだ」

「そんな!」


 イヴが悲痛な声を上げる。


「やだ、こわいよぅ」

「やだじゃない!」


 トカゲと睨み合ったまま、ウィットは背後へ怒鳴りつけた。

 大声に反応してか、トカゲが大きく口を開く。威嚇のようだ。

 口の中をよく見ると、杭のような牙に、血まみれの毛皮らしきものが引っかかっていた。


(さっき逃した狼かな)


 逃げている途中で喰われたなら、狼の群れがこちらに来る可能性は低くなるけれど……この状況では焼け石に水でしかない。


「早く行くんだ、イヴ! ……ここで死んだら、二度とチェルシーと友達になんか戻れないぞ!!」

「……っ!」


 ようやく踏ん切りがついたのか、イヴはその場から走り去った。

 あとは、彼女が無事に保護されることを祈るだけだ。


 ふう、と小さく息をついて、剣の切っ先をトカゲに向け直す。

 トカゲはこちらへ頭を向けたまま、低く唸り声を上げている。


(恐竜って、こんな感じだったのかな)


 いつのことだったか。

 博物館で、恐竜の化石を見たことがある。


 こちらの体が丸ごと収まりそうな、大きな口。ずらりと並んだ、杭のような牙。前足の先には、長く鋭い爪があった。

 これが生きて、動いていたら、一口でぱっくりいかれそうだ――なんて。

 そんなことを考えながら、見上げていたような覚えがある。


 ここにいたのが自分だけだったら、とっくに逃げ出していた。

 いまだって、すぐにでも逃げ出したくてたまらない。


(……でも、イヴが遠くに行くまでは時間を稼がないと)


 恐怖心を、理性と計算と倫理観で押さえつける。

 イヴを先に逃したのは、自分のほうが年上だから。それだけだった。


 イヴが逃げたことで何か考えが変わったのか、トカゲがのそりとこちらへ足を踏み出してくる。

 このまま睨み合いで時間を稼げればと思っていたのだけれど、世の中そこまで甘くないらしい。


 ぐっ、とトカゲが身を低くする。


(来る――!)


 ウィットは咄嗟に右へ跳んだ。

 躍りかかってきたトカゲの前脚が、一瞬前まで立っていた場所に叩きつけられる。


「はっや」


 それなりに距離が開いていたはずなのに、一瞬で詰められた。

 巨体だから鈍重だろうとなめてかかったら、その場でお陀仏だ。


 トカゲが素早い身のこなしで、こちらへ頭を向け直す。

 ぐるんと振られた尻尾が、その先にあった低木をなぎ倒した。


(背後も危ない、と)


 観察しつつ、側面へ回り込むように走る。

 同じ四足歩行だ、四足の獣と同じように考えるのが妥当だろう――と、相手ばかり気にして走ったのがいけなかった。


「うわっ」


 近くの木の根に、ブーツのつま先がひっかかった。

 なんとか転倒することは避けたものの、その場で軽くたたらを踏んでしまう。移動速度が鈍る。

 すぐに動けない獲物(ウィット)めがけて、トカゲが片方の前脚を振り上げた。


「やば――」


 死を覚悟した、その一瞬。

 焦る内心とは別のところが、冷静に計算を開始する。


 剣で受け止められる可能性は極小。受け流せる可能性も、やはり極小。

 剣も肉体(からだ)も、叩きつけられる前脚の重量に耐えきれない。


 背後には木の幹があるため、後退も非推奨(やめたほうがいい)


 目の前では、トカゲががこちらへ無防備に腹を晒している。


「っ、前!」


 (ひる)みをねじ伏せて、地を蹴った。

 頭を低くして、振り下ろされる前脚を回避する。そのまま転がり込むようにして、巨体の白い腹の下へ。


(お(なか)側なら柔らかいかな)


 殺せるとまでは思っていないけれど、せめて傷を負わせて追い払えれば。

 そんな考えで、頭上の腹へ剣を振るってみる。


 がちりと、硬い鱗に阻まれる感触。


「だよね」


 あまり期待はしていなかった。

 さっさと離脱しようと、剣を引きかけて。


「――へ?」


 硬い鱗に覆われた皮に、ずぶりと刃が飲み込まれた。

 隙間から赤い血がぼたぼたと落ちて、ウィットの手を汚していく。


 ――何が起こったか、わからない。


「クァァァァァ!!」

「うわっ」


 斬られた痛みにだろうか、トカゲが喉を鳴らして吠えた。

 身をよじって暴れだしたので、慌てて腹の下から抜け出る。

 腹に埋まったままの剣を引っ張ると、刃がざくざくと白い腹を裂いた。


「……いやいやいや」


 鱗もさることながら、巨体だけあって、皮そのものも硬くて厚かったはずだ。

 ブレイズだったらざっくりやれそうだけど、ウィットの腕でこんな簡単に斬れるわけがない。というか、そもそも斬ろうと思っていたわけでもないし。


 なんとか抜け出し、暴れるトカゲから距離をとって――ふと、気がついた。


 剣を持つ手が、震えている。

 がたがたと、ぶるぶると、まるで痙攣しているかのように。


「これは……」


 ウィットは剣を持ち上げて、震える手を他人事のように見下ろす。

 血を弾く剣身にぼんやり緑色が映るのを見て、ああ、と納得した。


「そっか」


 剣身に映る、緑色の瞳。

 遠く、おそらくは西の方角で、斬るべきもの(・・・・・・)が声なき咆哮を上げる。


きみ(・・)は……ずっと、怖かったんだね」


 異様な気配に怯えたトカゲが、森の奥へと逃げていく。

 それを見送ることなく、最近『ウィット』と呼ばれているその子供は、西の空を睨みつけた。

黒い子側はここまで。次から主人公側に視点が戻ります。

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