87. 防壁の向こう側
「遅かったかあ……」
防壁に開いている小さな穴の前で、ウィットはがくりと肩を落とした。
足元には、赤いリボンがひとつ落ちている。例の、イヴという少女の髪に、確か同じようなものが飾られていたはずだ。穴をくぐるときに引っ掛けたか。
自分の追っている少女は、すでに森に入ってしまったらしい。
件の男たちに見つからないよう、大きく迂回したのが仇になったようだ。
その場にしゃがんで、穴を覗き込む。
ウィットでは頭くらいしか通せない大きさだ。
(僕がここを通るのは無理だな)
この穴を通り抜けられるのは、年齢が一桁の子供か、もしくは犬猫くらいだろう。
イヴを追いかけるなら、別の手段を考えないといけない。
「うーん……あ、そうだ」
ふと思いついて立ち上がる。
剣を抜いて、壁に向かって斬りつけてみた。
刃先が防壁の石の表面をわずかに削り、白い線を残しただけだった。
深く呼吸して、『斬る』つもりでもう一回。
白い線が、もう一本増えただけだった。
「やっぱダメか」
がっかりしながら、剣を鞘に戻す。
これまで変なタイミングで発動してきたくせに、肝心なときに役に立たない異能だ。
こうしている間にだって、イヴはどんどん森の奥へ進んでいる。
こんなところで足止めをくっていられない。
ため息をついて、防壁を見上げる。
壁の高さはそれほどではない。
このあたりはファーネの東側にある山の裾にあたるため、ゆるやかな上り坂になっている。
壁の高さは南門のある位置を基準に変わらないようで、地面の高いこのあたりは、相対的に壁が低いというわけだ。
(とはいえ、よじ登れるほどじゃないな。となると……)
ウィットは周囲を見回した。
防壁の、狭い道を挟んで向かい側には石造りの建物がある。住居のように見えるけれど、中に人の気配はない。
試しに、建物の壁へ足をかけてみる。強く蹴っても、いきなり崩れるようなことはなさそうだ。
(やったことないけど……この体ならいけるかな?)
山へ続くゆるやかな上り坂を見上げ、頭の中で予測を立てる。
踏み切る位置、壁の凹凸、伸ばした手の届く範囲。
腰の剣が邪魔になると判断して、剣帯から外す。
少し考えてから、先ほど通るのを断念した穴に差し込んだ。剣を通すだけの大きさはある。
周囲に人の気配はない。
南門から離れているから、向こう側にも誰もいないだろう。
「……よし」
頷いて、ウィットはその場を離れた。
山側へしばらく歩くと振り返り――そこから走って引き返す。
下り坂だから速度が乗る。
前のめりになって転んでしまわないよう、上体の傾きにだけは気をつけて。
先ほど立っていた場所まで、あと数歩の距離。
(――ここだ!)
踏み切って、ウィットは防壁とは逆の方向へ跳んだ。
向かい側の石壁が眼前に迫る。もちろん、そのまま激突する気はない。
踏み切った勢いはそのまま、空中で体の向きを変える。
石壁を足で蹴って、駆け上がって、今度は防壁のほうへ飛ぶ。
越えるべき防壁へと、手を伸ばした。
「よっ……と、とっ、と」
ぎりぎり届いた両手で防壁の縁にぶら下がり、足を振った反動を利用して壁登り。
壁の上でひと息ついてから、南側へ飛び降りて着地する。
壁の穴から剣を引っぱり出して、腰の剣帯に戻した。
「これでよし、っと」
振り返り、たったいま自分が乗り越えた壁を見上げる。
案外、簡単に越えられるんだな、と思った。
◇
イヴが森に入っていったのは、それほど前のことではないらしい。
下草を踏み分けた跡がうっすら残っていたので、それを辿ることにした。
これが彼女が通った跡だという確証はないけれど、他に手がかりもない。
「都合よく落とし物でもしてたら、まだ安心して追えるんだけどなあ」
そんなことをぼやきながら、あまり期待はしていなかった。
落としても気づかないだろうリボンは、すでに防壁の穴で見つけている。
その他に落としたまま進みそうなものを、ウィットは思いつかなかった。
童話よろしくパンくずでも落としていってくれれば――と、考えたところで。
「あ、やべ」
自分も、戻るための目印を残していなかったことに気がついた。
しまった、普通になんとなく歩いてしまっていた。
とりあえず、剣で木の幹に傷をつけながら歩くことにする。いまさらだけれど、やらないよりはいいだろう。
しばらく歩いていると、草を踏み分けた跡がわからなくなってきた。
少し悩んでから、ウィットは周囲に聞こえるよう声を張り上げる。
「おーい、イヴちゃーん」
本当は、あまり大声を出したくなかった。
森の獣を刺激しかねないし、イヴが逆に警戒して遠ざかるかもしれなかったから。
けれど闇雲に進むよりは、怪しい男たちの口車に乗ったあの少女が、ウィットに対しても無警戒である可能性に賭けたほうがいいと判断した。
「イヴちゃーん、イヴやーい」
慎重に森の奥へ進みながら、何度か少女の名前を呼んでみる。
子供の歩く速度を考えれば、そろそろ追いついても不思議ではないと思うのだけど……。
「……ん?」
ふと、それまで聞こえなかった物音が聞こえたような気がして、ウィットは足を止めた。
遠く、がさがさと草をかき分ける音がする。
それに混じって、足音と小さな息遣い。足音は複数のようだ。
(近づいてくる)
どこかに身を隠したほうがいいだろうか。
そう思ったところで、息遣いに混じる小さな悲鳴に気がついた。
ひいひいと、子供が泣きながら息をするような声だ。
(ええっと、つまり――)
ウィットが状況を分析・推測するよりも早く。
少し離れた木の陰から、小さな少女が飛び出してきた。
腰までの髪を三つ編みにした、大人しそうな顔つきの少女だ。
どこかで転んだのか、顔も髪も、可愛らしいワンピースも土で汚れている。膝のあたりに、赤黒い血がにじんでいた。
「きみ……イヴちゃん?」
ぼろぼろの姿だけれど、街中で遠目に見た姿と一致している。
思わず声をかけると、その少女――イヴはびくりと肩を震わせた。けれどすぐにウィットの姿を見つけて、驚いたように目を丸くする。
「あ……にん、げん?」
そう呟いた直後、泥と涙でぐちゃぐちゃの顔が歪んだ。
「た、たすけて……!」
かすれた声でイヴが叫んだ、次の瞬間。
その小さな背中めがけて、少女より大きな体躯の狼が飛びかかった。
【なんで防壁を斬れなかったのか】
???「待って待って待ってそこ斬ると壁崩れるから待って」




