76. 幕間:防壁の夜(前)
防衛戦と言いつつ日常シーンになりそうだったので、今回と次回は幕間扱いです。
医務室を出て、ラディと一緒に夕食をとった後。
一人分の食事をトレイに乗せて、ブレイズは宿舎の扉をノックした。自分たちの部屋ではなく、その隣の部屋だ。
「……はい」
「ルシアン、いま大丈夫か?」
「ブレイズ?」
覇気のない返事に言葉をかけると、こつ、と靴音がして扉に近づく気配がする。
開かれた扉の隙間から、疲れた目をしたルシアンが顔を出した。
「どうしました?」
「どうしたもこうしたも、お前、夕飯食ってねえだろ。持ってきたから、食えるだけ食っとけ」
「はあ……」
気のない返事だ。このままトレイを押し付けたところで、ろくに口にしないに違いない。
そこまで予想できていたので、ブレイズは畳みかけて言う。
「食いきれないぶんは俺が食うし、なんなら俺らの部屋で食うか? ラディもいるけど」
その言葉に、ルシアンはちらりと背後のベッドを見て。
「……そうですね。お邪魔させてください」
曖昧に微笑みながら、そう言った。
ルシアンを伴って部屋に戻ると、先に戻っていたラディが備えつけのテーブルに水差しとコップを並べていた。
陶器でできたカラフェの中身は水かと思ったが、テーブルに近づくと、葡萄の甘酸っぱい香りがする。
「ワインか?」
「うん。さっき領兵が部屋に来て、ボトルから分けてくれた」
「ラディ、それ受け取って良かったんですか? その、下心とか……」
「領兵なら大丈夫だと思うよ。国軍のよく知らない人だったら、さすがに私も断ったけど」
ルシアンの不安げな言葉にラディが返し、ブレイズも頷いた。
いま防壁に詰めている領兵は、みな顔見知りだし付き合いも長い。この状況で女に粉かけるほど、状況が見えていない者もいない。単純に、親切心で分けてくれただけだろう。
カラフェを覗き込むと、半分ほど赤ワインで満たされている。
コップに注いで四、五杯といったところか。量から察するに、ギルドの皆さんでどうぞ、ということのようだ。
「持ってきたやつ、なんか言ってたか?」
「……国軍に振る舞えるほどの量はないから、あちらには内緒でと。領兵が山葡萄から作った自家製なんだそうだ」
「ふーん」
特に何も言われていないのなら、いまのところは厚意をありがたく受け取るだけでいいだろう。
また困りごとがあったらジーンあたりが相談しにくるのだろうし、彼らの困りごとはファーネの街に影響することが多い。ブレイズたちとしても、手を貸すのはやぶさかでなかった。
「ま、とりあえずルシアンは飯が先だな」
招いておいて、立たせっぱなしはよくない。
ブレイズはテーブルにトレイを置くと、ルシアンを椅子に座らせて、部屋の扉を閉めた。
◇
一時間ほど経過して。
「もうほんっと、マジでタチ悪いんですよ!!」
「お、おう……」
ワインの入ったコップをテーブルに叩きつけて、顔を赤くしたルシアンが嘆くようにわめく。
コップを手放さないので酒を取り上げる隙もなく、ブレイズはひたすら相槌を打つしかなかった。
食事中、ルシアンが「最近なかなか寝つけない」とこぼしたのでワインを一杯勧めてみたのだが、眠気より先に愚痴を呼んでしまったらしい。
この際だから吐き出せるだけ吐き出させようと更にワインを飲ませてみたら、一杯半ほどですっかり出来上がってしまった。
「事前にもらってた情報からして、あの大叔父、こうなる可能性が高いって絶対わかってたはずなんですよ。だからリカルドさんを寄越したんです」
ルシアンの言う大叔父というのは、王都の商業ギルド本部で会った警備部門長、デズモンド・バッセルのことである。
犯罪組織の親玉と言われたら信じてしまいそうな悪人面で、美少女顔のルシアンと血縁関係にあるということのほうが信じられない。
「ぶっちゃけ、僕のほうは誰でもよかったんですよ。本部の意向やナイトレイ領の状況を推察してキースさんに進言できて、何かあったら実力行使で対処もできて、簡単に職務を放棄しない程度にギルドに義理のある人間なんて、僕以外にもたくさんいる。でもファーネに愛着のある精霊使いは、リカルドさんしかいなかった……」
そこまで言ってテーブルに突っ伏すルシアンに、ブレイズとラディは顔を見合わせた。
セーヴァの言っていたことと、どこかずれている。
「リカルドは、ルシアンの補助で来たんだと思ってた」
「……表向きにはそうですよ」
ラディの言葉に、藤色の潤んだ目がこちらへと向く。
「僕らが王都を発った時点では、この大襲撃が絶対に起こるって確証はなかったと思います。名指しでリカルドさんを送り込む理由には弱かったんでしょう。だから、ファーネに行くのが初めてで遠出に不安のある僕の補助、ファーネ支部に顔が利いて信用がある人、って理由をつけたんです」
「まあ俺らから見てもそんな感じだったな」
「僕も少し前までは、ナイトレイ領のあれこれに備えて、予防的に人手を増やしておきたいだけだと思ってました。あのジジイが、それだけの理由で自由業の賞金稼ぎに命令なんか出すわけないって、わかったはずなのに……」
「言われてみれば、あの人も元賞金稼ぎだものなあ……」
王都の本部で、デズモンドは、賞金稼ぎを引退するまでファーネの街を拠点にしていたと言っていた。
ジルとも知り合いだったようだし、彼が死ぬことになった十年前の大襲撃について、他よりも重く見ていたのかもしれない。
ギルドと領主が対立していなければ、もう少し手厚い支援がされたのかもしれないが……いま考えても無駄かと思い直した。
「……で、リカルドが巻き込まれるのが最初から決まってたんなら、お前は何を気に病んでんだよ」
「あんなんでも身内ですし、もっと早く気づけなかったのが申し訳なくて……」
「それ言ったら、俺らはいま説明受けるまで何もわかってなかったんだがな」
そこでルシアンの手から力が抜けているのに気づいて、ワインの入ったコップを取り上げる。
すかさずラディが空のコップを持たせ、別のカラフェから水を注いだ。
「ま、気にすんなとは言えねえけどさ。今更考えてもしゃーねえだろ」
「そりゃそうですけど……」
「飯食えなくなるほど気に病んでるより、リカルドの負担減らせるように頑張るほうがマシだ。明日もせいぜい走り回って、なるべく重傷者減らそうぜ。死人が出たら、それこそリカルドが気に病むからな」
「……そうですね」
ある程度吐き出して、少しは気が晴れたのだろうか。
ルシアンはテーブルに突っ伏したまま、小さく笑みを見せた。
「タイミングが合ったら、リカルドに顔くらい見せてやれよ。心配してたぞ」
「ああ、それは……悪いことを、しま……し……」
とろんとした瞳にまぶたが落ちて、唇から言葉の代わりに、すうすうと寝息が聞こえてくる。
ブレイズはルシアンから取り上げたワインを飲み干して、彼の手にある水入りのコップに手を伸ばす。
「水飲んでねえけど、こいつ、明日大丈夫かな」
ルシアンが酒に強いとは聞かない。日頃が日頃だから、飲ませたら吐くんじゃないかと思って、これまで勧めたことがなかった。
「一応、枕元に水とコップを置いておこうか」
「つってもなあ……隣は出るときに、ルシアンが鍵かけちまったし。リカルドに二日酔いの世話させんのもな」
コップの水を飲みながら少し考えて、ブレイズは相棒に視線をやった。
「……俺のベッドに寝かせとこう。で、俺がリカルドんとこで寝る。ラディ、悪いけど明日、ルシアンが起きたら世話頼んだ」
「わかった。残ったワインはどうする?」
「リカルドのぶんだろ? あとで俺が持ってくよ」
飲んだ印象だと、結構若いワインだった。リカルドが部屋に戻る頃なら、かえって飲み頃になっているかもしれない。
ひとまずルシアンをベッドに寝かせようと、ブレイズはテーブルに伏せる彼の上体を引き起こした。
余談ですが、ルシアンの祖母(デズモンドの姉)の若い頃は悪役令嬢顔の美人でした。
優しげな顔つきの伴侶を二代にわたって得た結果、孫のルシアンは可憐な美少女顔になったという。




