73. 防衛戦(1)
「うわぁぁぁぁっ!」
雲ひとつない青空に悲鳴が響き、隊列の中央付近が崩れた。
魔境から一斉に向かってきた雄鹿の群れ、その先頭を走っていた一回り大きな体躯の一頭が、兵士たちを構えた盾ごと蹴飛ばしている。
魔物化しているのだろう、みっしりと筋肉のついた脚で兵士をまた一人蹴散らして、大鹿は悠然と防壁に近づいた。
黒くつぶらで感情の読めない瞳が、歩みを阻む石壁を見上げ、その上から自分を見下ろす人間の女を映す。
女は片手を頭上へ掲げており――それが振り下ろされると同時、火球が大鹿の顔面に炸裂した。
「キィッ!!」
頭ごと視界を灼かれ、大鹿は声を上げて頭を振り立てる。
その隙を突いて、抜剣したブレイズが足元に駆け込んだ。
「おらぁっ!」
背後に回り込み、大鹿の後ろ脚を横に一閃。白銀色の剣閃が、膝裏の腱を切り裂いた。斬られた脚が力を失い、がくりと巨体が後ろへ傾ぐ。
「――いけっ!」
動きを止めた大鹿の脳天めがけて、上空から氷柱が叩きつけられた。
「ギッ!」
大鹿はその場で頭を振って、角で氷柱を弾き飛ばす。先端の尖った氷柱が、真っ二つに割られて近くの地面に転がった。
氷柱を誰が撃ったのか察したのだろう、大鹿は勝ち誇るように、挑発するように、防壁上の女を見上げ――。
その背後で、ブレイズがすでに剣を振り下ろしていた。
「ああああっ!」
上段から力任せに、首の付け根へ斬りつける。大鹿の毛皮を裂いて、首の骨を断ち、血肉をかき分けて進む刃。
そのまま、ブレイズの剣は大鹿の体を両断した。
「ッ――――」
悲鳴のひとつもなく、大鹿の首が落ちる。
胴体側の断面から、こぷんと血が噴き出して地に染みた。
「いくぞ、押し返せ!」
「おおおおおっ!!」
大鹿の胴が崩れ落ちるのを待たず、隊列を立て直した国軍の兵士たちが、残りの鹿たちに突っ込んだ。盾を構えて体当たりし、獣を防壁の前から弾き飛ばす。
地面に転がされた鹿たちが、姿勢を立て直すよりも早く。その目に、喉に、胸に、矢が飛んできて突き刺さった。
「急所を狙え! 間違っても味方に当てるなよ!」
防壁の上で弓を構える領兵たちの手によって、一頭、また一頭と、鹿たちが起き上がれないまま仕留められていく。
それを横目に、ブレイズは矢の降ってこない大鹿の死骸の近くを通って、防壁の下まで戻ってきた。
「ブレイズ!」
降ってきた声に、防壁の上を振り仰ぐ。
先ほど派手な魔術で大鹿の目を引きつけた相棒が、防壁から身を乗り出してこちらを見下ろしていた。
「ラディ」
「怪我は?」
「大丈夫だ。お前こそ魔力は?」
「まだ余裕はある」
その会話をかき消すように、ごうっ、と空気が鳴る。
少し離れた防壁の上、空を飛んでくる鳥の群れをルシアンが炎で焼いていた。羽が散り、鳥が死に、燃えながら防壁の手前に落ちてくる。まるで火の雨だ。
その眺めから視線を外し、ブレイズは手元の剣を見下ろした。先ほどの大鹿、ついうっかり骨ごと斬ってしまったが、目立った刃こぼれはなさそうだ。ひょっとしたら、うまく骨の継ぎ目に刃が入ってくれたのかもしれない。
(狙ってできりゃいいんだけどなあ……)
さすがに骨の継ぎ目まで見抜く目は持てないだろう。せいぜい、うまく関節を狙う程度だ。
「ブレイズ、今度はあっちのほうに……ブレイズ?」
頭上から声が降ってくる。
どうしたのかと心配そうな相棒に、ブレイズは「なんでもない」と返した。
◇
ラディと二人、兵士たちでは手がつけられない大物を斬って焼いてと走り回っていたら、とっくに昼が過ぎていた。
国軍の糧食班からパンとスープを受け取って、遅めの昼食にありつく。
「ラディ、食えそうか?」
「パンは半分でいいかもしれない」
「三分の二は食え」
まあ野郎しかいない国軍での一人前だ、ラディには多すぎるのは確かだろう。スープは少なめに注いでもらえたようなので、そちらは完食させたいところだ。
「ラディちゃん、それでよく体がもつよなあ」
近くで干し肉をかじっていたジーンが言った。
なお、領兵は領兵で個別に料理しているので、国軍とは別のメニューである。仲が悪いとかそういう理由ではなく、単に費用の出処が異なるためだ。集団食中毒への備えという面もあるらしい。
「防壁の上を走り回って、魔術を撃ってるだけだからな……疲れはするけど、身がもたないってほどじゃない」
「魔術って腹減らねえの?」
「私は気疲れのほうが大きいかな。人にもよるんだろうけど」
ラディはパンを千切ると、スープに浸けてもそもそ食べ始める。
ブレイズもスープを一口すすって口を開いた。
「で、領兵はどうよ」
「あんまりいい状況じゃねえな」
ジーンが眉をしかめて答える。
「矢の補充が追いついてねえ。手槍もだ。まあ前から予算も補給も絞られてたから、今更っちゃ今更だけどな」
「足りねえのか?」
「もうしばらくはなんとかなる。使った鏃や手槍の穂先も、できるだけ回収するようにしてる。ただ、作り直しの人手がねえから……」
「作る以上に使っちまってるわけか」
「そういうこった。領兵は飛び道具がねえと本気で役立たずになるからな、どうしたもんかと」
最近人員の入れ替えがあったばかりの領兵たちは、大部分が獣との戦いに慣れていない。
どうも聞いた話だと、対人の戦闘訓練は充実しているのだそうだ。三十年前の戦争を生き抜いた、傭兵団ならではの知識と工夫が詰まっているらしい。
だが、ファーネでそれが役に立つことは少ない。いまのファーネでは尚更だ。
そういうわけで、領兵の大部分は北門の警備と街の治安維持に回されている。南の防壁で戦っているのは、ジーンをはじめとする、それなりに獣の相手に慣れている古株たちのみだ。人数が少なく防具も貧弱な彼らは、下手に前に出ても死ぬだけだからと飛び道具による援護に徹している。
「……北の防壁から持ってこれないのか?」
「もうやってる。これ以上引っ張るのは無理だ」
ラディの言葉に対して、ジーンは首を横に振った。
「あっちはあっちで野犬とか、たまに野盗も出るから。さすがに根こそぎ持ち出すわけにもいかねえ」
「国軍から分けてもらうのは?」
「あちらさんもそこまで余裕はねえよ」
ブレイズの言葉にも、ジーンは首を横に振るだけだ。自分たちが思いつくようなことは、とっくにやった後らしい。
「……エイムズの本隊が来るまでは、もたねえだろうな」
疲れきった表情で、ジーンは深くため息をついた。
――ファーネの領兵がエイムズに伝えたリド・タチスの開花と住民の訴えは、報告を受けた領主の側近に、「だからどうした」「気のせいだろう」とその場で切り捨てられたのだという。
おそらく領主の耳に入ることなく握り潰されただろう、というのが、ジーンたち領兵の見解だ。
ここ数日で獣の襲撃が頻発している状況については、二日前に再び知らせを出した。馬で向かったので、早ければ今日中にエイムズに着くだろう。
今度はさすがに捨て置かれることはないだろうが、エイムズから即座に兵を出したとしても、ファーネに到着するまで相当かかるはずだ。当面、あてにはできない。
「ま、言ってもしゃーない。飛び道具の補充は、非番の連中駆り出すなりしてなんとかするよ。状況が状況だしな、文句は言わせねえ」
気を取り直すように明るく言うジーンに、「それなら」とラディが声を上げた。
「木の細工としてなら、ファーネの木工職人に仕事として頼めるんじゃないか?」
「あ、なるほど……うーん」
頷きかけて、ジーンの眉間に皺が寄る。
「ラディちゃん、それ相場わかる?」
「矢だと十本で八十ザルトくらいかな。鏃が持ち込みなら、もう少し下げられると思うけど」
「なんか難しいのか?」
「予算がなあ……。俺が自腹切ってどんくらい買えるかなと」
「そこまで……」
その言葉に絶句してしまった。
領の財政状況が良くないと、いままで何度も聞いてきた。しかし、こうして実際に知り合いが頭を抱えているのを見ると、本当にどうしようもない状況なのだなと実感する。
(だからって、その分をジーンが被るのは違うよなあ……)
それに、これは個人がいくらか金を出したところでどうにかなる問題でもないだろう。
もっと大がかりに、それこそ追加で予算を組むくらいの規模でやるべきことだ。
「一応、ギルドに話だけしておいてもらえるか? 金については他の連中とも相談してみる」
「……わかった」
ジーンの言葉に頷いて、ブレイズは相棒と顔を見合わせる。
何かいい方法はないだろうかと、彼女の瞳も揺れていた。




