68. ウィットの初陣
※前回に引き続き、野犬を殺す描写があります。
合計五頭の野犬が、木の下の血溜まりを取り囲むように集まっている。
血の臭いが近すぎて気づかないのか、こちらに視線を向ける気配がないことに、ブレイズは細く息を吐いた。
(ウィットを突っ込ませなくて正解だったな……)
仲間がいるなら、先に数を減らしておかなければならない。
ウィットにとっては初めての実戦だ。乱戦に放り込むのは、さすがに危険すぎる。
離れた位置のラディを見ると、小さな頷きが返ってきた。
岩陰のウィットは、そのまま身を隠している。剣を抜いているが、これはブレイズが合図を出しかけたからだろう。
野犬たちは代わる代わるジャンプして、吊られた鳥の死骸にかじりつこうとしている。
見ている間に、氷が溶けて濡れた片翼がかじり取られた。
(魔物化してるのはいねえな。……問題は数だけか)
そこまで観察したら、あとは動くだけだ。
ウィットもあまり長時間の緊張には耐えられないだろう。
ラディに目配せして地面を蹴る。
がさり、葉擦れの音と同時、野犬たちの向こうに氷の壁が現れた。
野犬たちの周囲を広く抱き込むように弧を描く、森へ逃げ込むのを防ぐための壁。
「?!」
魔力の気配を察知したのか、野犬たちが一斉に氷壁を見る。
視線が外れた隙をついて、ブレイズは野犬たちに向かって全力で駆け出した。
「っらぁ!」
こちらに背を向けていた個体に不意打ちで斬りかかる。
直前で察知されるが、反応が遅い。上段から振り下ろした剣は、飛び退こうとした野犬の横腹を深く縦に切り裂いた。
「ガッ……!」
傷口から血と臓物が吹き出す。すぐに身をひねったが、左腕が返り血で濡れた。
気にならないわけではなかったが、それよりも斬撃の手応えに安堵する。
(なんとか、調整はできたか)
以前なら背骨ごと断つつもりで斬りかかっていたところだが、あまり刃に負担をかけたくないので骨を斬るのは避けたのだ。
一撃で葬ってやれず、斬られた野犬には悪いことをしたが……。
「ラディ、一匹仕留めたらもう一匹は好きにしろ! ウィット、残った一匹がお前の相手だ! 準備しとけ!」
その場に崩れ落ちた野犬に蹴りを入れ、他の個体の憎悪を煽りながら叫ぶ。
四頭の殺気が一斉にブレイズに向くが、次の瞬間、ブレイズから離れた位置にいた二頭が左右に飛び退いた。見れば、二頭が立っていたところに氷の錐が突き立っている。
錐が飛んできた方向には、ラディの姿があった。
「お前たちはこっちだ」
そう言って、ラディは剣を持っていないほうの手を頭上にかざす。
手のひらの上に冷気が集まり、氷の錐がまた一つ生み出された。
それを見て攻撃してきたのが彼女だと気づいたのだろう、その二頭は唸り声を上げてラディのほうへ駆けていく。
「グワン!」
圧すような吠え声を上げて、残った二頭がブレイズに飛びかかる。
ブレイズは瞬時に二頭を見比べると、片方へ駆け寄り、その顎を蹴り上げた。
「ギャゥ!!」
「お前は後だ!」
宙を舞った一頭が地に落ちるのを待たず、残った一頭へ向き直る。
その野犬はブレイズの後ろへ回り込もうとしていたようで、思ったよりも距離が開いていた。走る足を止めないまま方向転換し、真正面からこちらに突進してくるようだ。
(まあ、正面対決でもいいんだが……)
少し考えて、ブレイズは横に飛び退いた。噛みつこうと飛びかかってきた野犬の牙が、がちんと鳴る音がする。
「ちっと手本を見せてやるのもいいか」
視界の端に、地面から突き出た氷の錐が野犬を串刺しにしているのが見えた。
◆
(……やっぱり、すごいな)
二人の戦いを岩陰から見て、抱いたのはそんな、ありきたりな感想だった。
犬という動物を、見たことがなかったわけじゃない。
けれど自分が知っているのは人に飼い慣らされた犬がほとんどで、ちょっと吠えるのが怖いなと思った頃もあったけれど、近くにいて身の危険を感じたことはなかった。
野良犬でさえ、たまに道端を歩いているのを見かけるくらいで、怖いと思ったことはない。
……犬が人を襲うということを、考えたこともなかったから。
あんなに速く走る生き物から、逃げきるのは大変だろう。
あんなに大きく鋭い牙に噛まれたら、痛いどころの問題じゃないだろう。
なのに、あの二人は剣一本で、あの獣たちに戦いを挑んでいる。
その度胸が彼らにとってはとても軽いもので、いまの自分にはとんでもなく重いものなのだ。
(殺すよりも、殺されるってことを、考えないと)
十分くらい前、小さな鳥の喉をナイフで断った感触を思い出す。
必死でもがく鳥の抵抗を感じながら、この手で押さえつけていた。
自分は弱い。油断すれば一瞬で、あの鳥と同じ立場に転げ落ちるだろう。
殺したり、傷つけることを、悩める余裕なんかない。
(――怪我を、心配してくれる人のためにも、ね?)
刃を握った左手を、癒してくれた人がいる。
傷のあった位置を一瞬だけ見て、口元をほんの少し緩めた。
よそ見をしたのはその一瞬だけ。視線はすぐにブレイズと、彼が向き合う野犬に戻る。
ブレイズは一瞬こちらへ視線をよこすと、飛びかかってきた野犬を横に跳んでかわした。
回り込むように走って距離を詰め、横腹に向けて剣を振るう。
正面からすれ違いざまに斬ることもできるだろうに、わざわざ側面に回っているのはきっと、自分に手本として見せるためだ。
(正面からは怪我する危険が高い、走り回って側面を叩け――だっけ)
四足の獣は特に、前後移動がしやすいようにできている。
下手に背後へ回るより、側面のほうが安全なことが多いのだと教えられた。
やがて、ブレイズの剣が野犬の腹を深く貫く。
血に濡れた剣身を引き抜きながら、ブレイズの目がこちらを向いた。
「――ウィット、行け!」
◆
ウィットが岩陰から飛び出した。
少し前にブレイズが蹴飛ばした一頭に向かい、剣を構えて走っていく。
横目でラディの様子を見ると、戦う前に言っていた通り、剣のみで残った一頭とやりあっているようだった。
野犬の体のあちこちに血が滲んでいるので、何度か斬ることはできているようだが、おそらくあれは傷が浅い。
いつもの彼女なら、野犬くらい剣でどうにかできるはずなので、おそらく新しい剣が重くて振りが遅くなっているのだろう。だから剣を当ててもかする程度で、深い傷がつけられない。
(……ま、やばくなったら魔術で仕留めるだろ)
視線をウィットに戻す。
前もってブレイズやラディが教えた通り、彼女は野犬の側面に回り込んで斬りかかるのを繰り返していた。
大抵の獣は喉や心臓が急所だが、どちらも近くに前足があり、反撃をくらう可能性も高い。いまのウィットに狙わせるのは危険だ。
それなら側面に回り、柔らかく血流が多い腹を傷つけて出血を強いるほうがいい。時間はかかるが確実に弱らせられるし、真正面よりもよほど安全だ。
これなら心配なさそうだな、と思いながら、足元の小石をいくつか拾い上げる。
万が一の何かが起きたら、これを投げつけて野犬の注意をウィットから逸らすのだ。その隙に割って入って、ウィットを安全な位置まで逃せばいい。
しばらくすると、草を踏み分けてラディがそばに寄ってきた。さっきの野犬は仕留められたらしい。
「ウィットは大丈夫そうだな」
「いまんとこはな」
念のため、二人とも剣は抜いたまま。
ウィットが野犬とやりあう様子を、じっと見守りながら口を開く。
「で、さっきの野犬には剣だけで勝てたのか?」
「なんとかね。出血で動きが鈍ってきたから、粘り勝ちみたいなものだけど」
「その剣、やっぱ重いんじゃねえの」
「……腕立ての回数を増やすよ」
強情め、と口の中でつぶやきながら、手の中でもてあそんでいた小石を地面に落とす。もう必要ないだろう。
見つめる先では、ウィットの剣が野犬の腹に、深々と埋められていた。




