66. ファーネの墓守(上)
第一部の最終章になります。よろしくお願いします。
中央広場から北西へ伸びる道の終点に、ファーネの街の共同墓地がある。
塀の代わりに低木で外と区切られており、広さはそれなりだ。
出入り口にある墓守の小屋の前を通り過ぎ、ブレイズとラディは墓地の奥へ歩いていく。
「夜のうちに雨がやんでよかったな」
ここに来る途中、市場で買った花束を抱えてラディが言った。
その視線はブレイズの持つ籠の、口から覗く酒瓶に向いている。
「そうだな。せっかくの酒が薄まっちまう」
ブレイズも同意して、軽く籠を持ち上げた。
中には王都で買った酒の小瓶と、木のコップが三つ入っている。
二人そろって警備を抜けられる日のうち、ジルの命日に一番近いのが、今日だった。
ジルの墓は、墓地の奥まったところにある。
雨でしっとりと濡れた白い墓石の上、近くに植えられた木が淡く影を落としていた。前回訪れた時と、何も変わらない。
墓前には、小さな花束と空の酒瓶がひとつずつ供えられていた。おそらくキースとセーヴァだろう。
ラディが花束を墓前に供えるのを見ながら、ブレイズは籠の中から酒瓶とコップを取り出した。
持ってきたコップの一つに酒をなみなみと注ぎ、墓に供える。
「バッセルさんがよろしくってさ。この酒も、たぶんジルが好きなやつだって言ってた」
残ったコップの片方をラディに持たせ、瓶に残った残りの酒を半分だけ注いでやる。
手元に残ったコップに残りを注ぎ、ひと息に飲み干して、顔をしかめた。思っていたより酒精が強い。
(原液で飲むもんじゃねえな)
隣でラディが咳き込んでいる。
彼女の手からコップを取り上げて、残っていた酒もひと息に飲んだ。喉が焼ける感覚に、水を持ってくるべきだったなと少し後悔する。
「……ああ、油断した」
ようやく咳の収まったラディが、うっすら涙目で顔をあげた。
「甘めの蒸留酒だというから、もう少し飲みやすいものだと思ってた」
「だな。ジルもかぱかぱ呑んでたし」
ひりつく喉の違和感で、お互い声の調子がいつもと違う。
それが妙におかしくて、小さく笑いあった。
ジルベルト・エイスという人について、ブレイズたちが覚えていることは、実はそんなに多くない。
二十歳に満たない自分たちにとって、十年という年月はそれなりに長かった。
ブレイズが覚えているのは、ジルが剣を振る姿と、頭を撫でてくれる骨ばった手。
剣に関すること以外なら……錆色の目がいつも寂しそうだったのだけ、未だ記憶に残っている。
「なあ、ジル」
ブレイズは一歩墓前に近づいて、墓石の前にしゃがみこんだ。視線の高さに、師の名前が刻まれている。
「来年から、俺が警備主任だってよ。支部ちょ……キースさんの命令で」
ジルが生きていたら、この知らせにどんな顔をしただろうか。
ひょっとしたら、キース同様、まだ引退せず警備主任の席にいたのかもしれない。
「ジルの、後任だ」
口に出してみたが、やっぱり心は弾まなかった。
ジルから受け継げるものであれば、なんだって嬉しいと、自分でも思っていたのに。
「……なんでだろうな、すげえ複雑なんだ」
王都から戻る頃には、何か掴めていると思っていた。
時間が解決してくれるだろうと考えることを放棄して、結局なにも答えが出ていない。
「ジルみたいになりてえなって、思ってたはずなんだ。でも実際ジルと同じ立場になれって言われたら、なんか違うなって、思って」
いまのブレイズの、正直な気持ちを口にする。
キースにも言わなかったことだが……別にいいか、と思った。
ここなら、ジルと――ラディしか、聞いていない。
「俺、ジルみたいにできるかな。ジルの仕事ぶりなんて見ちゃいなかったし、ずっと見てた剣技だって中途半端で……この前、どっかの剣士にも怒られた。猿真似で満足してんじゃねえよ、って……うん、あれは堪えたな」
こうして口に出してみれば、笑ってしまうほど中身のない十年だった。
剣だけは、と思っていたはずなのに、やっていたのはジルの動きを表面的になぞるばかり。
ざり、と後ろで土を踏む音がした。
ラディがこちらに寄ってくる気配を感じながら、ブレイズは立ち上がる。
「――でも、投げ出す気はねえよ」
ちらりと背後を振り返ると、不安そうな顔のラディと目が合った。弱音が過ぎたか。
「別に、嫌だってわけじゃねえしな。やるだけやってみるさ」
笑ってそう告げれば、つられるようにラディの表情もゆるんだ。
彼女の手を引いて、隣に立たせる。そのまま、ジルの墓に向き直った。
一連の誘導に逆らわず、ラディはブレイズの横に立っている。
ラディがなにを考えているのか、ブレイズにはわからない。
きっとラディも、ブレイズがどんな気持ちで彼女を見ているかなんて、わからないだろう。
◇
十年前。
ジルが死んで、フォルセも街を出ると聞かされて、途方に暮れていた夜のこと。
誰もいない鍛錬場に座り込むブレイズの肩に、ブランケットをかける小さな手があった。
『……ラディ?』
ブレイズよりも背が低くて、細っこくて、生っ白い子供。
どこかで妹のように思っていた彼女は、何も言わずにブレイズの横を通り過ぎていく。
白い夜着が月明かりに照らされて、淡く光を放っているように見えた。
短く切った髪の先が、夜空にきらめく星の周囲の、少し明るくなったところに溶けていく。
そのまま消えてしまいそうな彼女に、思わず手を伸ばしかけて。
『ブレイズ。わたし、強くなるよ。剣も魔術も、ちゃんと使えるようになる』
はっきりとした声が、投げかけられた。
白い夜着が実際に光るわけがなく、夜空に溶けそうだった髪が実際に溶けるわけもなく。
ラディはその二本の足で、地を踏みしめてそこに立っていた。
『もう、怖がらない。強くなって、ブレイズのこと、守ってあげる』
そう告げるラディの背が、最後に見たジルのそれと重なって。
ひゅっとブレイズが息を呑んだのに、彼女は気づいていただろうか。
『……ばーか。お前に守られるほど弱かねえよ』
なんとか言葉をひねり出して、掛けられたブランケットでラディの背中を覆い隠す。
それから小さな手を引いて、ギルドの部屋に二人で戻った。
◇
そうか、と流せるほど、彼女の存在は軽いものではなかった。
頑張れよ、と背中を押してやれるほど、あのときの自分に余裕はなかった。
ふざけるな、と激高できるほど、激しい気性の持ち主でもなく。
あのときは、ただ怖かった。
(お前にまで、置いてかれるんじゃないかって)
うずくまるブレイズの横を通り過ぎて、先に進もうとする彼女の背中。
それが、追いかけていた師の背中と重なるのが、ブレイズには耐えられなかった。
置いていかれてしまう。追い抜かれてしまう。
以前からずっとジルのようになりたいと思っていた、ブレイズを差し置いて。
感じたのは、恐怖と、焦りと、対抗心。
――ジルの剣を継ぐのは俺だ、と。
喚くのが見苦しいと知っていたから、彼女を引き留めようと手を掴んだ。俺より先に行くんじゃないと。
(我ながら、意地が悪いよな)
呆れるほどに自分本位な理由で、『相棒』なんて便利な言葉まで使って、ラディを隣に縛りつけている。
いまはもう、彼女を妹だなんて思っていない。兄貴面ができる立場じゃないことは、自分自身が一番よくわかっていた。
そして、振り払われないのをいいことに、いまもその手を離さないでいる。




