63. 子供の焦り
「あ、出てきた出てきた」
報告を済ませて執務室を出ると、ウィットが扉近くの椅子に座って足をぶらぶらさせていた。
足元には、買い物籠が置かれている。
「買い出し行くのか?」
「そうなんだけどね」
「重たいのも頼んでるから、ウィットだけだと大変だと思うの。ブレイズ、ついてったげて」
ウィットがやや不服そうなので何ごとかと思っていると、受付のカチェルがこちらを振り返って言った。
「ひとりで大丈夫なのに……」
「疲れてるんだから無理しないの。あとラディはこっち手伝ってー、納品が多すぎて受領書との突き合わせが終わらないのー……」
「わかった」
「ラディ、終わったら私に持ってきておくれ」
ラディがカチェルのそばに椅子を持っていくのに続いて、支部長も自分の席によっこらせと腰を下ろす。彼の机の上には、麻紙や羊皮紙の束がうず高く積まれていた。
「……忙しいのか?」
「取引の量が増えたからね。ここはいいから、店が閉まる前に行っておいで」
支部長にも追い払われてしまったので、ブレイズはおとなしく買い出しに行くことにする。
「ウィット、行くぞ」
「ブレイズ大丈夫? 疲れてるんじゃない?」
「この程度でへばりゃしねえよ」
「ならいいけどさ」
ウィットが床の買い物籠を持って、椅子から立ち上がった。
財布と買い物のメモは、既に彼女が持たされているらしい。メモを見せてもらったが、芋やら人参やら、確かに重たい根菜類の名前が多く書かれていた。
扉をくぐろうとしたところで、出入り口に立つリカルドが声をかけてくる。
「前より人が多いだろうから、身の回りに気をつけるんだよ。財布とかすられないようにね」
「うん!」
元気よく答えるウィットに頷いて、彼は次に、ブレイズの肩に手を置いた。
「気をつけて。……最近は私もあまり街に出ていないから、市場がどうなっているかわからない」
「ああ」
小さく頷くと、ぽん、と肩を叩かれる。
ウィットを促して、外に出た。
外に出ると、西の空がうっすらと黄みを帯びていた。夕焼けの一歩手前、といったところか。
夕方から閉まってしまう店もあるので、少し急いだほうが良さそうだ。
「セーヴァはなんか言ってたか?」
「僕は異常なしで、ブレイズは明日でいいから一回診察させろってさ」
「俺?」
「バロウであちこち怪我したでしょ。ロアが治したよって言ったんだけど、一応って」
「あー、わかった」
おそらくセーヴァは、後からの内出血や腕の筋を痛めていないか、そういう治癒の『取りこぼし』を気にしているのだろう。
どこにどんな怪我をしたのか忘れてしまった、とか言ったら殴られるだろうか。殴られた後に可動域の検査と称した関節技を食らうような気がする。
「あ、あと槍蜂の毒ね。『血清は用意できないから刺されるのだけは死ぬ気で避けろ』だって」
「マジか」
「なんかね、蛇と違って蜂はうまくいかないんだってさ」
話しているうちに中央広場が近づいてきた。
人の気配が増える中、大事なことを思い出す。いまのうちに、ウィットに言っておかなければいけないことがあった。
「あ、そうだウィット。王都でフォルセが言ってた話、あれ外で言うの禁止な」
「ええっと……あの植物のせいで、あの、アレが起こるってやつ?」
「そうそれ」
リド・タチスが大襲撃を引き起こす可能性がある、という話だ。
支部長に報告したところ、国軍の調査隊とやらも、可能性の一つとして話だけは聞かされていたらしいと教えてくれた。おそらくはケヴィン経由だろう。
そして無用な混乱を避けるため、ファーネの住民へ知らせる時機は、街の代表と調査隊の隊長で話し合って決めるそうだ。
……話し合いの面子に領兵が入っていないあたりが、なんともきな臭い。
ひとまず明日、ジーンあたりに探りを入れに行ってみようか。
◇
到着した市場は、夕方近いというのに賑わっていた。
ウィットに財布をしっかり持っておくよう言い含めて、食料品の区画へ向かう。
「なんかお店増えてない?」
「……売り物の種類も増えてんな。ファーネじゃあんま見ねえ果物がある」
「あ、ほんとだ。野菜もちょっと違うのあるね」
以前の市場では、ファーネ近くの山でとれる林檎や野いちご、山ぶどうなどがよく売られていた。
それに加えて、いまは柑橘やら、名前も味もわからない緑色の果実やらが並んでいる。
野菜類も、温暖なファーネではなかなか見かけない葉物野菜が並べられていた。
ものによっては、ファーネ周辺だと発芽すらしないものもあったはずだ。輸入物でなければ、ナイトレイ領でも涼しい場所で育ったものだろうか。
「ああ、このチシャは領内の、東の端っこにある村でとれたやつだそうよ」
そう教えてくれたのは、馴染みの青果店の奥さんだった。旦那が強面なので、接客は愛想のいい彼女の仕事である。
店の奥では、小さな看板娘がエプロンの紐を結び直していた。なかなかきれいに結べないのか、結んでは不満そうな顔でほどくのを繰り返している。
「他にも、平地の畑でとれた作物が入ってくるようになったね。目新しいのは葉物野菜くらいだけど、他の作物も仕入れられる量が増えて、全体的に少し値下がりしたかな」
「値下がりしちゃって大丈夫なの?」
「それ以上にたくさん売れるから。そもそも食べ物って品薄でもあんまり高くできないし……正直な話、いままで結構苦しかったんだよね」
取引する量が増えたので、全体的な収支は上向いているということか。
支部長も取引の量が増えたと言っていたが、少なくとも食料品に関してはいい方に影響しているらしい。
「あんたたち、キースさんの代理で外に出てたんだって? 他の区画はもっとすごいよ。工芸品の区画なんてもう、見たことない物ばっかりで」
「工芸品まで持ち込んでんのか」
「最近ファーネに来た商人さんだろうね。うちの娘なんか、店で見たお人形が欲しい欲しいってずっと言ってて……」
「だってとっても可愛かったんだもん!」
話が聞こえたのか、店の奥でエプロンと格闘していた女の子が飛び出してきた。紐は結べていない。
奥さんはぷくっと頬を膨らませた娘の後ろに回って、紐を蝶結びにしてやりながら言う。
「チェルシー、あれはちょっと高すぎるよ。他のじゃダメ?」
「ダメ! あれがいい!」
「……こんな調子でね」
苦笑いを浮かべる奥さんは、やや疲れた声でそう言った。同じやり取りを、これまで何度も繰り返しているのだろう。
「んーと、お嬢ちゃん」
その様子に何か思うところがあったのか、ウィットが女の子の前にしゃがみこんだ。
「お母さんに欲しいって言うのはいいけど、知らない人に『買ってあげるよ』って言われてもついてっちゃダメだよ?」
「ええ~? なんで?」
ウィットの言葉に不満そうな声を上げる娘を見て、奥さんの顔が引きつった。
ブレイズもいま気づいたが、確かにこの子は物で釣られてしまいそうだ。気をつけたほうがいいだろう。
「商人に混じって変なのが入り込んでないとは言えねえし、一応注意して見といてくれ」
「……そうするわ」
奥さんは難しい顔をして、深くため息をついた。
◇
食料品の区画で、メモどおりに買い物を済ませた後。
肉と野菜の詰まった籠を手に、ブレイズはウィットを見下ろして言った。
「ウィット、他の区画に寄ってもいいか」
「いいよ。僕も見てみたいし」
ウィットの同意も取れたので、隣接する工芸品の区画へ足を向ける。
そろそろ閉まる店も出てくるだろうが、もう少し市場の様子を見ておきたい。
工芸品の区画は、彫刻や玩具、食器、装飾品などの店が並ぶ区画だ。
以前は食器などの日用品を扱う店だけが開いていて、他の店は潰れているも同然だった。あとはせいぜい、住民の誰かが趣味で作った彫刻や飾りが、気まぐれに店頭に並ぶくらいか。
そんな寂しい区画だったはずだが、いまではすっかり様子が変わっていた。
「うわーすごい、人いっぱい」
「もう夕方だってのになあ……。ウィット、財布気をつけろよ」
王都の目抜き通りほどではないが、以前からは考えられないくらいに、多くの買い物客で賑わっている。
ざっと見るに、主な客は仕事帰りの男どもだろうか。すでに酒が入っているらしいのも、何人か見かける。
おそらく、時間帯で客層が異なるのだろう。親子連れなどは、明るいうちに来るのだろうし。
「あ、さっきの子が欲しがってた人形ってあれかな」
ウィットが指差した玩具店の目立つところに、布でできた少女の人形が置いてあった。中に綿を詰めているのか、ふっくらしていて愛らしい。
値段を見ると、四百五十ザルトとあった。確かに、その場でぽんと買うのはためらう値段だ。あの一家は最近まで生活が苦しかったと言っていたから、尚更だろう。
他にも男の子が欲しがりそうな革製の剣や、どう使うのかわからない謎の物体などが並んでいた。
店員に声をかけられる前に店先を離れて、市場の通りを進んでいく。
「次はどこ行く?」
「もう日が落ちるし、あと一ヶ所くらいか……」
少し考えて、布と服の区画に決めた。
以前にリアムの誘拐騒ぎがあった、放棄された住宅地区と隣接している場所である。
支部長に言われたように治安の心配をするなら、見ておいたほうがいいだろう。
布の区画は工芸品の区画の隣なので、少し歩けばすぐに着いた。
「こっちも開いてる店が増えたね」
「そうだな……」
ウィットの言葉に生返事をしながら、ブレイズは通行人の動きを注意深く観察した。
(……路地裏に出入りしてるのがいるな)
時間が時間なのでもう閉まっている店もある時間帯だが、それにしては通行人の数が多い。
そのうちの何人かは、店と店の間の路地へ、するりと滑るように姿を消した。
道に迷った者の動きには見えない。明らかに、路地の先に用事があるのだろう。廃屋しかないはずの路地裏に。
「ブレイズ?」
「……だいたいわかった。ウィット、帰るぞ」
「それはいいんだけど……」
疑問たっぷりに見上げてくる青い瞳にため息をついて、ブレイズは歩きながら、通行人の挙動を見ていたのだと説明した。
ウィットは一人でこのあたりに来させないほうがいいだろう。何に巻き込まれるかわからない。
ブレイズの説明を聞いたウィットは、ちらりと近くの路地へ視線をやった。
「路地裏に何しに行ってんだろ」
「後ろ暗い店でもあるんだろ」
例えば、毒物などの禁制品を扱う露店だとか。
商業ギルドに届け出ができないような店は、こうして隠れて商売をする。
ファーネが寂れて、その手の露天商も去ったと思っていたのだが、最近の流れに便乗して戻ってきたらしい。
いまのファーネには国軍の兵士もいるというのに、よくやるものだ。
「……どうするの?」
「ほっとくしかねえな」
露店の管理は商業ギルドの領分なので、本来ならギルドが取り締まるべきなのだが、いまのファーネ支部にそれをするだけの人手はない。
この件は支部長も既に把握しているそうで、裏でこそこそしている分には干渉しないということで、街の代表と話がついているらしい。
「まあ表で店出したり、堅気の人間に手を出すようなら話は別だが」
「お客のほうは?」
「そういう店だって分かってて買い物してんだ、そいつの責任だろ……ってことになってる」
話している間に市場を抜けて、中央通りに出る。
西の空は、もうすっかり赤く染まっていた。
「ねえ、ブレイズ」
左側に伸びる影を見下ろしながら、ウィットがつぶやくように言う。
「剣をちゃんと覚えたら、僕も警備を手伝ったり、さっきみたいな露店の取り締まりとかできる?」
「お前――」
その問いには、どこか思い詰めたような響きがあった。
どう返すべきか少し迷って、ブレイズはウィットの頭にぽんと手を置く。
「焦りすぎだ」
そのまま、黒髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
「わわっ」
「まずは買った剣に慣れるのが先だろ。慣れたら次は、北門出たあたりで実戦だな」
「そうだけど」
「一個ずつ片付けてけ。先ばっか見てるとコケるぞ」
警備も露店の取り締まりも、人が相手だ。やるなら、人を殺すことまで覚悟しなければならない。
本来なら獣を斬って、その次に人を、と段階を踏んで覚えるものだ。少なくとも、ブレイズとラディはそうやって慣らしていった。
(知らないで済むなら、それでいいと思ってたが……)
バロウ村の一件で、この子は思いがけず手を汚してしまい、傷ついた。人を斬る感触を知ってしまった。
衝動的に依頼を請けた、ブレイズの招いたことである。
その責任を取らなければならないと、改めて感じた。
「教えられることは全部教えてやる。だから、あんまり先走んなよ」
手の下で、頭が小さく縦に揺れた。




