35. ネリーの傷(前)
「ネリーはな。少し前、街に来てた行商人にニックが石を投げた時に、そいつを庇ってその怪我をしたんだ」
バートの言葉に、ウエイトレス――ネリーが「だって」と唇を尖らせた。
「あのおじさん、眼鏡してたんだもん。割れたら危ないし、眼鏡なんて高くて弁償できないと思ったの」
「……で、この傷ってわけだ。いやー、あん時は大変だった。駆けつけてみたらネリーは頭からダラダラ血流してるわ、ニックは自分でやったくせしてびゃーびゃー泣いてるわ、騒ぎを聞きつけて出てきたジジババどもはその場にいた行商人のおっさんの仕業だって早とちりして詰め寄ってるわで」
結局、被害者であるネリー本人が血まみれの手でニックの頬を引っぱたいて、「人様に石を投げつけるなんてどういう了見だ」と怒鳴りつけて事なきを得たのだ、とバートは続けた。
「その後やっと手当してもらったんだけど……傷薬が高かったんだよねえ」
そう言って、ネリーが困ったような顔で笑う。
「ほら、薬草を漬ける酒精が輸入だからさ。ちょっと、買うのに勇気がいるお値段になっちゃって。庇ったおじさんが払うって言ってくれたけど、それ聞いた時のニックが、すっごいニヤニヤしてて……ムカついたから断っちゃった」
「『あたしに怪我させたのはこいつなんだから、こいつに払わせるのが筋です』って言ってな。そしたらニック、あいつ今度は『薬に高い値段つけてる商人が悪い!』って言い出したんだ」
……それが、あの子供が自分たちに石を投げてきた理由というわけか。
どうしてわざわざそんな話を聞かせるのかと、内心で疑問に思いながら聞いていたのだが、どうやら事情を説明してくれていたらしい。
「ひと言、『ごめんなさい』って言えば許してやるんだけど……まあ無理だろうね」
「どうして?」
「あのくらいの歳の子供はね、そういうところがあるよ」
ウィットが首を傾げて問うのに、ネリーは前髪を直しながら答えた。
「ちょっと視野が広がって、悪知恵も働くようになって……都合の悪いことから逃げるために、嘘や責任転嫁も覚える頃さ。ちょっと頭を下げれば済むことからだって、覚えたての悪知恵を使って全力で逃げようとする」
「まして今は、何でもかんでも商人のせいにする大人ばっかだしな……。そりゃ染まるっていうか、染まらないとやっていけねえ」
「うちの親もそういう大人だしね。だからあたしは家出中なんだけど」
ネリーがそう言えば、周囲の男たちから「俺も」「俺らも」と笑いながら手が挙がる。
聞けば、この場にいる彼らは賞金稼ぎではなく、この街の住民なのだそうだ。
理不尽に商人を敵視する家族に付き合いきれず、この宿の世話になりながら、商業ギルドの自警団に加わっているのだという。
(厄介なことになってんな……)
てっきり、商業ギルドが孤立しているだけとばかり思っていたのだが。
一部とはいえ住民もギルド側に加わっているとなると、街ごと真っ二つに割れている、という表現のほうがしっくりくる。
領主は何してんだ、と思ったが、そういえば元々は領主がかけた関税が原因だった。
なんというか、どうしようもない状況だ。
中央がこんな状態では、ファーネの街に何かあったとして、まともな対応ができるとは思えない。以前にファーネを訪れた三人が危惧するのも頷ける。
(それとも、『荒らす』ってのはこういうことか……?)
深緋色の髪の男が、別れ際に言っていたことを思い出す。
しかし住民の間にここまでの溝を作るのは、年単位の時間がないと厳しいのではないだろうか。
「……その傷、治すか?」
ふと発された声に、ブレイズは思考を中断して、声のした方へ視線をやった。
それまで黙っていたロアが、手に魔力をまとわせて、ネリーを見つめている。
彼の前の皿は、全て空になっていた。そう言えば昼食の途中だったと思い出して、ブレイズもすっかり冷めてしまったポトフを啜る。
ロアの申し出に、ネリーは小さく苦笑した。
「気持ちはありがたいけど、遠慮しとく。そういうのは、ニックがちゃんと反省してからって決めてるの」
「だろうな」
断られると分かっていたのだろう、ロアはあっさりと引き下がった。
ブレイズも、昼食を平らげながら口を開く。
「まあその気があんなら、とっくにリカルドあたりが治してるわな」
「リカルドさん? ってあの、地精使いの?」
「そうそう、あのお人好し」
そういえばラディがずっと黙っている、と気づいて彼女のほうを見ると、ふかし芋をスプーンでつついていた。「食べきれないなら寄越せ」と自分の皿を近づけてやると、芋が半分ほど移される。結構苦しかったらしい。
ちなみにウィットはしっかり完食していた。いい食べっぷりである。
「リカルドなあ……そういや最近見ないな」
バートが天井へ視線を投げながら言った。
「来るたび領主の使いに押しかけられてたし、とうとうエイムズに嫌気が差したか?」
「いや、しばらく前からファーネでギルドの警備を手伝ってもらってるんだ」
なんとか残りの芋を完食したラディが、水を口にしながら訂正する。
「ファーネっていうと、魔境の手前にある?」
「ああ」
「なんだ、あんたらキースさんとこの人か」
ラディが頷くと、いつの間に近くまで来たのか、宿の主人が口を挟んできた。
「部屋の準備ができたよ。お嬢さんがた、もう湯浴みするかい?」
ラディとウィットは顔を見合わせて、主人に頷きを返す。
「お願いします。湯は自分で出せるので、浴場とタオルだけ貸してもらえれば」
「わかった。準備しておくから、入る時は声をかけてくれ。こっちが部屋の鍵な」
主人は木札のついた鍵をふたつテーブルに置くと、カウンターへ戻っていった。
「お嬢さ……? え、女?」
バートがウィットを見て、呆然とした様子で呟く。
ウィットはそれに、いたずらが成功したような顔で笑った。
◇
エイムズ支部で出した手紙の返事が来たのは、翌日の昼前のことだった。
「難民は全員この領を出た、だそうだ」
ブレイズとロアの部屋を訪れたラディが、そう言って返答の手紙を差し出してきた。彼女が先に確認したのか、封は外れている。
寝坊したウィットの遅い朝食に付き合って食堂へ行ったところで、ギルドから来た自警団の男に手紙を渡されたそうだ。
手紙を受け取って、ロアと二人で文面に目を走らせる。
ラディの言葉通り、「全員がナイトレイ領から出ることを希望した」「イェイツの街にある検問まで案内した」「それまでに質問されたことから、大街道を東へ行くつもりだったと考えられる」と、事実から一部の推測までが記されていた。
最後に『商業ギルド エイムズ支部 支部長 グレアム・タッカー』と署名があるが、これは一応こちらの支部長名義で手紙を出したからだろう。
「このままイェイツ経由で大街道に出る、ってことでいいか?」
ブレイズが確認すると、ロアは手紙に視線を落としたまま、こくりと頷いた。異論ないらしい。
「……さて、と」
これで、この街での用事は全て済んだことになる。
あまり居心地がいい街でもないし、宿を引き払って今日のうちに出発する、という選択肢もあるが……。
「ウィットは?」
「食堂でスープだけもらってる。だいぶ疲れてるみたいだ、昨日も夕飯食べずに寝てしまったし」
「ちゃんと一日休ませたほうがいいか……」
「そうだな。予定通り、明日出発でいいと思う」
ブレイズの呟きに、ラディが同意する。
かさりと音がして視線だけそちらに向けると、ロアが手紙を封筒に戻していた。
「飲み水の補充は、百ザルトで宿の裏にある井戸を使わせてもらえるらしい」
「値段はまあ相場か。明日のいつ頃から使わせてもらえるかだけ確認しとこう」
「頼めば弁当も作ってくれるそうだけど」
「……値段しだいだな」
もうすぐナイトレイ領を出るので、それまで保存食でしのいで、他の領地で保存食を買い足したほうが安く済みそうな気がする。
まあ、ちょっと値が張るくらいなら、心付けを兼ねて頼んでもいいかもしれない。少なくともロア以外は、帰りもこの宿で世話になると分かっているのだし。
「おーい、お客さんたち!」
あれこれラディと話し合っていると、食堂のほうからネリーの呼び声がした。
「お昼ごはん、ミートパイが焼けたよ! もうウィットちゃんには出してるからね!」
どうやら自分たちに向けたものだったらしい。
後で温め直してもらうのも悪い、ということで、ブレイズたちは食堂に向かうことにした。
食堂には、今日も武装した男たちがたむろしていた。
昨日見かけた顔もあれば、今日初めて見る顔もある。
ウィットは、隅のほうに位置するテーブルに、一人ぽつんと座っていた。眠そうな顔で、皿の上のパイをつついている。
ブレイズたちが近づくと、へにゃりと緩く笑顔を見せた。
「おはよお」
「おはようじゃねえよ」
もう昼だよ、と言いながら席に座ると、すかさずネリーが皿を持ってくる。
ひき肉を詰めたミートパイが一切れと、葉野菜のサラダ。それ以上は別に注文するように言われたので、ブレイズとロアは小さいパンを一つずつ注文する。
「ウィット」
ネリーが去るのを待って、ラディが小声でウィットに話しかけた。
「ギルドから手紙の返事が来た。明日出発できるか?」
「だいじょぶー……」
ふわあ、とあくび混じりにウィットが答える。
二度寝すんなよ、と注意すると、こっくりと頷かれた。大丈夫だろうか。
昼飯時だからか、食堂はがやがやと騒がしい。
カウンターを見れば、宿の主人の後ろで、鎧を脱いだバートが忙しなく動き回っているのがちらりと見えた。
昨日の夜に聞いたことだが、彼はこの宿の息子なのだそうだ。食事時で忙しくなる時間帯だけ、自警団を外れて宿に戻ってくるらしい。
イェイツ方面へ出る時の注意点でも聞いておこうと思ったのだが、あの様子だと、バートの手が空くのはしばらく先になりそうだ。
これを食べた後で、周囲にたむろしている自警団の連中から、暇そうなのを捕まえたほうが早いかもしれない。
ナイフでミートパイを崩しながら、そんなことを考えていると――隣に座るロアから、急に張り詰めたような気配がした。
「ロア?」
「……昨日の子供だ」
入り口の扉を、ロアが警戒するような目つきで見つめている。
同じように扉を見ていると、その扉が外向きに、音もなく開かれた。
グレアム・タッカー
・「18. 幕間:商業ギルド本部にて」で「キレると笑う」と話題に上がっていたエイムズ支部長
・寂しい頭髪と鼻の下のちょび髭がチャームポイント




