32. 野営の前に
ファーネ北の一帯は、ほとんど起伏のない平地だ。
視界の妨げとなるような背の高い草もなく、ときどき背の高い木がぽつんと生えているくらいで、あとはみずみずしい緑色が遠くまで続いている。
出発から七日。
農村を三つほど経由して、当面の目的地であるエイムズの手前まで来ている。
街道は、出発したばかりの頃より凹凸が減り、やや歩きやすくなった。踏み均す通行者の数が違うからだろうか。
「まあ足場が悪くねえのはいいけど……な!」
抜き放った剣を横に一閃。ブレイズの刃が弧を描き、飛びかかってきた野犬の喉を切り裂いた。首の骨を断った手応えと同時、剣閃の下で獣の身体がぐらりと傾ぐ。
ころりと落ちる首とは反対側を駆け抜け、その向こうにいる別個体へ斬りかかる背後、ぶしゅっと血の吹き出る音がした。
「ギャン!」
後方で悲鳴が上がる。
ブレイズの頭上を、野犬が二匹飛んでいった。体が側面から不自然に折れ曲がっている。何か強い力でへし折られたのだろう。
相棒のやり方ではないな、と思ったところで、対峙していた野犬が牙を剥いて突進してきた。横に避けて、その脇腹を蹴り飛ばす。
その上から氷の錐が野犬の腹に突き立ったのを見て、ほらな、と誰にともなく思った。
ブレイズの剣先は、別の生き残りの喉に埋まっている。
剣を抜いて周囲を見回すと、襲いかかってきた野犬の群れは、ほとんどが息絶えたか逃げ散っていた。
小さな群れだったのか、それとも狩りのための別働隊だったのか、十匹にも満たない群れだ。そのうちの七匹は、この場に躯を晒している。
後ろの方にある死体には氷柱が刺さっていた。たぶんラディがやったものだ。となるとやはり、先ほど野犬をぶっ飛ばしたのはロアか。
そんなことを考えていると、ざっと強い風が吹いて、周囲に残る血の臭いをさらっていった。
草いきれの青い匂いを連れて、ロアが近づいてくる。
「怪我は?」
「大丈夫だ」
ロアとは、荷運びの依頼料に込みで、『癒し』による治療も行うことで話がついた。
普通は別料金らしいのでどういうことかと思ったが、どうも、こういった話は場合による――というか、相手によって対応を変えるものらしい。
料金を気にして治療を受けない、仲間に受けさせないタイプと判断したら依頼料に含める。その代わり、依頼料そのものは高めに設定する。
料金内なら使わなければ損だとばかりに身を守ることを疎かにするタイプなら、別料金。
今回は初めて遠出するウィットがいるため、彼女が変に遠慮しないようにと支部長が気遣ったそうだ。
「ラディ、ウィット。そっちは?」
「だいじょぶー」
「問題ない」
街道から魔術で応戦していたラディと、彼女の背に隠れていたウィットにも怪我はないようだ。
短剣を持たせはしたが、ウィットには自衛以上のことをしないように言い含めてある。
背負った荷物を守るのが今の彼女の仕事だし、短剣で戦わせるのは危険すぎだ。無理に戦わせる必要もない。
周囲の安全を確認したら、野犬をまとめて土に埋める作業だ。
街道沿いに放置しておくと、血の臭いに誘われて別の獣が出てしまう。そうなれば他の通行者に危険が及ぶため、埋める余力がない場合でも、街道から少し離れたところに死骸を移動させておくのが礼儀だった。
死んだ野犬を運ぼうと、ウィットが首のない死体の足を掴む。
「よっ……うわ重た」
「重いなら無理しねえで、そっちの首持ってこい」
「そっち直視したくないから、胴体持とうと思ったのに……」
ぼやきながら、ウィットは死体の傍らに転がる首を両手で持ち上げた。
彼女が運びそこねた体のほうは、ロアが足を持って引きずっていく。
ブレイズはラディの近くに転がっている、氷柱の刺さった死体をふたつ、両手に持って運ぶことにした。
ラディは残って、街道周辺に流れた血を、水の魔術で洗い流す作業だ。
ロアとウィットの傍まで行って、両手の死体を、浅く掘った穴へ投げ出した。ブレイズの持ってきた二匹で最後だったようだ。
周辺の土をかけながら、ロアが口を開く。
「そろそろ野営できる場所を探すか?」
「あー、野犬も出たしね。日が沈むまでは、もうちょい時間ありそうだけど」
ウィットが西の空を見ながら同意した。
まだ夕焼けには少し早めだが、日はかなり傾いている。もう夕方と言ってもいい時間だろう。
「……ま、野営するにしても、もうちょい離れないとな。進みながら、良さそうな場所探すか」
ブレイズがそうまとめて、ラディの待つ街道を指差した。
◇
西の空が赤くなってきた頃、街道沿いに野営の跡を見つけた。考えることはみな同じらしい。
地面に半分埋まった石かまどの周辺には太いしっかりとした木が生えていて、枝から吊るせば支柱なしでも天幕を張れそうだ。
ブレイズは、西に見える雑木林へ視線をやった。
赤く染まる夕空を、木々の輪郭が黒く切り取っている。
「薪になりそうな枝でも集めてくる。ロア、付き合ってくれ」
「……分かった」
ウィットは背中の箱を下ろして、ぐるぐると肩を回していた。
その傍で、ラディが野営道具を広げている。
「ラディ、任せた」
「ああ。天幕くらいは張っておくよ」
そう言って折りたたまれた天幕を手にする相棒の後ろで、子供が「いってらっしゃい!」と元気よく言った。
ロアと連れ立って、雑木林へ入る。
入ったばかりの辺りで、目当ての乾いた枝はそれなりに見つかった。しかしブレイズはそれを拾わず、雑木林の奥へと進んでいく。
「……彼女じゃなくてよかったのか?」
「ん? まあラディでもよかったんだけど、お前のほうが得意かと思って」
答えてから、いやウィットのことを言った可能性もあったかと思った。
ウィットはなんというか、男とか女とかあんまりピンとこないというか。いや女なんだけど。
ブレイズの答えに、ロアが怪訝そうな顔をする。
「得意?」
「物音拾ったり聞こえなくしたりするの。風の術の範囲だろ」
「それはそうだが……。ああ、なるほど」
どうやら疑問が解けたようで、声がふっと和らいだ。
しかし彼の眉間には、くっきりと皺が寄っている。
「そういう意味で言ったんじゃないんだが……な!」
ロアが鋭い視線を向けた先で、灌木の茂みが弾け飛んだ。
ぐぇ、と蛙の鳴き声に似た呻き声。次いで、周囲の茂みが一斉に音を立てる。
がさり。がさり。
あちこちの茂みから、男の上半身がにょきりと姿を現した。
年齢は青年から壮年ほどに見える。
服装はみな似たような麻のチュニックだ。何人かは革の小手や肩当てをつけているが、おそらく使い古しだろう。
その手に握られるものは様々。ナイフやら手斧やら鎌やら棍棒やら。
見るからに、食い詰めた野盗の集団だ。
あの野営場所を見つけたあたりから、なんとなく見られている感じはしていた。おそらく、夜になってこちらの半分が寝た頃を見計らい、袋叩きにするつもりだったのだろう。
支部長やルシアンからは何も聞いていないので、最近になって野盗を始めたのかもしれない。
……まあ、どんな経緯や計画があったにしても、こちらのやることは変わらないのだが。
「さすがにこれは、ウィットにゃ早いからな」
剣を抜くと、周囲の男たちが一斉に身構える。
ロアが小さく息を吐くと同時、ざざざ、と葉擦れの音があたりに満ちた。
「服は汚すなよ、水の術は苦手なんだ」
「おう」
手始めに、目の前にいた棍棒持ちへ斬りかかる。
男が反応するよりも早く、その得物を握る腕を斬り飛ばした。




