24. 巨大蜂
引き続き、全体的に虫(蜂)の話をしてます。苦手な方はご注意ください。
この話を書きたいがために3話かかってしまいました。
カチ、カチ、威嚇音が続く。
ブレイズの剣を自分の毒針と同じと見たか、巨大蜂は去ろうとしない。
先に動いたのはブレイズだった。
竜種の死体を避けて右へ回り込み、巨大蜂へ接近する。
蜂が反応して距離を取ろうと後退する、が、遅い。横に薙いだ剣先が、わずかな手応えを伝えた。
ヂッ! という音とも声ともつかない何かが聞こえて、空中にある蜂の身体がぐらりと傾く。腹の先から吹き出す毒液を避けて、ブレイズは左後方へ飛び退いた。
蜂の、六本ある肢が一本、根本から剣に断たれてぽとりと落ちる。
ブレイズは舌打ちをした。
浅すぎる。胴を断ってやるつもりだったのに。
(もっと、深く)
踏み込めないわけじゃない。怖気づいてなどいない。
次はもっと前へ出てやる。
そう思った瞬間、今度は蜂のほうが動いた。まっすぐブレイズへ突っ込んでくる。
すれ違いざまに胴を薙いでやろうと踏み込んだ先で、靴底がずるりと滑った。ばちん、切っ先が何かに叩かれる。
「チッ……!」
ブレイズの足を滑らせたのは竜種の血だった。
血と土と毒液混じりの泥濘が、靴を赤黒く汚す。
追撃に備えて体勢を立て直さなければ、と思った矢先、巨大蜂が大きく距離を取った。
見れば、高速で上下する翅がひとつ、だらりと垂れ下がっている。先ほど剣に触れたのはあの翅か。刃に触れただけで裂かれ、機能を失ったのだろう。
「……やっぱ、ジルの剣はすげえや」
「ブレイズ!!」
剣の切れ味に感心していると、上空から相棒の声が降ってきた。同時に氷の錐が十数本、雨のように巨大蜂へ降りそそぐ。
それを避けるように、蜂が出てきた灌木の奥へ、滑るように飛び去っていく。
「逃がすか……!」
「えっ」
ここまで追い詰めて、逃がすなんてありえない。
後ろのほうでラディが何か言っている声が聞こえたが、それもすぐに聞こえなくなった。
◇
森をふらふらと彷徨う、赤みの強い黄色を追って走る。
邪魔になる灌木は踏み折って、まっすぐに。蜂の黄色い体色は目立つが、他に気を取られていると見失ってしまう。
途中で出くわした竜種は斬った。逃げるのを待ってやる間すら惜しい。幸い、巨大蜂が動ける程度の広さがあれば、剣を振るのにも支障はなかった。
別に、頭に血が上っているわけじゃない。
先ほど不思議に思った竜種の動き、その原因はあの巨大蜂だと思ったのだ。
竜種が主に食べるのは、自分よりも小さい虫や小動物だ。体躯の大きな竜種なら、巨大蜂はさぞかし食いでがあるように見えただろう。
そして、ブレイズの目の前で息絶えた、あの竜種のようになる。
そうやって力関係が逆転して、この辺りに棲む竜種たちが『白の小屋』のほうへ追いやられたのではないかと、戦いながら考えていた。
(何か、あるはずだ)
あんなでかい蜂が魔境にいるなど、これまで聞いたことがない。ここ十年で生まれた新種というわけでもないだろう。
逃げる先は巣だろうか、そうでなくても何かがあるはずだ。
考えている間も足は止めない。蜂はずっと逃げ続けている。
暗い森に浮かび上がるような黄がひとつ、ふらりふらりと左右に踊る。
ちら、と黄色がもう一つ見えたような気もしたが、気のせいだろうか。他の個体が援軍に来る様子もないが、まだ巣まで距離があるのか。
しばらく追っていると、急に目の前が開けた。
どういうわけか、木が全く生えていない場所に出たらしい。
下草も途切れていて、土の色が見えている。
眩しさに慣れない視界の中、バリ、バリ、と何かが割れる音がした。
二度、三度と瞬きをすると、目の前が徐々に明確になっていく。
やがて、バリバリという音の正体が、はっきりとした形を取った。
肢と翅の欠けた巨大蜂が、地面に転がる小さな同胞を貪り喰っていた。
小さな、といっても、人の頭ほどの大きさはある。
それの腕を、骨を、針を、音を立てて噛み砕いていた。
「……っ!」
ブレイズの背筋に怖気が走る。
虫が共食いすることは珍しくないと、知識としては知っていた。しかし目の当たりにしたのは初めてだ。
呆然とするブレイズの姿を捉えたのか、地面に降りて食事をしていた巨大蜂の頭がゆっくりとこちらへ向く。
その顎に引っかかっていた黒い肢を、バリンと噛み割った。
……カチ、カチ。
顎を打ち鳴らす、威嚇音。
ブブ、と残った翅が力強く音を立てる。鮮やかな体躯が中天に舞い上がる。
白い陽光に、蜂の輪郭が溶けて。
(眩し――)
「落ちろっ!」
ごう、と音を立てて熱が耳の横を通り過ぎた。
舞い上がった蜂が一瞬で炎に包まれ、煙を上げながらぽとりと地面へ落下する。
「ラディ!」
「まだだ! 翅しかやってない!」
振り返ろうとするのを制される。
見れば、巨大蜂は五本の肢で立ち上がり、よろよろとこちらに対峙しようとしていた。
背の翅はなくなって、体色に混じって黒い燃えカスがくっついているだけだ。
もぞもぞと蠢く蜂の頭部で、二本の触覚が揺れている。迷うようにブレイズと、別の方向――おそらくラディの間を行き来している。
「ラディ」
視線はそのまま、別の方向にいるだろう相棒へ声をかける。
「ひと当てして、意識を俺に向け直す。横でも後ろでもいい、回り込んで仕留められるか?」
「……分かった」
ざ、と土を踏む音がして、気配が遠ざかる。
蜂の頭が、こちらを向いてぴたりと止まった。
「……おう、一対一でやろうぜ」
がちんと打ち鳴らされた顎は、ブレイズの挑発に応じたように見えた。
「行くぞ!」
姿勢を低くして一歩踏み込み、剣を水平に薙ぐ。蜂は触覚を持ち上げると、バックステップで剣先を避けた。と思えば、こちらが剣を返すよりも早く突進し、噛み付いてくる。今度はブレイズが、バックステップで回避する。
いつの間にか、複眼を恐ろしいと思わなくなっていた。
肢を断ち翅を焼き、ここまで追い詰めて、この虫の生きようとする意思が見えたからだろうか。
その顎はいつかの蝗と同じく、こちらの肉を食いちぎろうとしているというのに、口元には笑みが浮かぶ。
「あいつに任せっぱなしってわけにもいかねえからな……!」
踏み込みを一拍遅らせて、あちらの突進と同時に剣を振り下ろす。触覚を一本断ち切った先、鼻先にある頭楯に刃が弾かれた。体躯が大きくなった分、殻や皮も分厚く丈夫になっているのだろう。ラディの炎で翅しか燃えなかったのはそのためか。
触覚を片方失って、蜂の動きが精彩を欠く。先ほどよりも容易く残った触覚を斬ったところで、周囲の気温がぐっと下がった。
「ブレイズ、離れろ!」
相棒の声に飛び退くのと同時、蜂の頭上から白く巨大な氷の刃が落ちてきた。
重さに任せた一撃が蜂の背から胸を裂き潰し、頭部が弾け飛んで少し離れたところに落ちた。残された腹部が、ぐらりと傾いで横倒しになる。
「……終わったな」
声のした方向を見ると、ラディがほっと息を吐きながら、こちらに歩いてくるところだった。
「ずいぶんと派手な魔術だな」
「火だと手加減がいるから。さっきも翅しか燃やせなかったし」
「ああ、思ったより丈夫だっ……」
その時、ラディへ向けた視界の端で、何かが動いた。
「ブレイズ?」
不自然に途切れた言葉にラディが訝しげな顔をする、その向こうでひくりと蠢くのは巨大蜂の腹。
ただの痙攣かと思った矢先、縮こまるように丸まった腹からぬらりと黒い針が、後ろを振り向こうとする彼女へ向いて――。
「ラディ!!」
とっさにラディの肩を引き寄せ、前へ一歩踏み出した。身体の位置が入れ替わるのと同時、ブシャ、と毒針の根元から何かが噴き出される。
(毒液――!)
反射的に両目を固く閉じる。変な臭いのする液体が顔にかかった。
引き寄せた肩は離さず、そのまま数歩、後ろに下がる。
「ブレイズ!!」
悲鳴のような声とともに、頭上から水が落とされた。頬の両側に何かが触れて、思いきり下へ引っ張られる。
「目は開けるな、口も閉じてろ、できれば息もするな!」
いや最後のは厳しい、と反論する術もなく、続けて後頭部に水がぶつけられた。ぱしゃりぱしゃり、おそらくはラディの手が、下を向くブレイズの顔にも水をかけていく。
しばらくラディのされるがままになっていると、ふと細い指先が、ブレイズの額に触れた。
前髪の生え際に残る古い傷跡は、白の小屋でブレイズが保護された当時、血を流していた場所だ。もう痛みもしないそこを、ラディの指が労るように撫でる。
「もう塞がってっから平気だよ」
その手を取って、ブレイズは顔を上げた。
蜂毒は水に溶けやすいと聞く。これだけ洗い流してもらえば十分だろう。
ぐっと袖で顔を拭っていると、不安げな顔をしたラディと目が合った。首から胸元にかけて服が濡れ、肌にぺったりと貼りついている。
なんとも目の毒な眺めなのだが、当のラディは気にする様子もなく、揺れる瞳でブレイズを睨み上げてきた。
「無茶をしすぎだ」
「……一人で突っ込んだのは悪かったよ」
そこだけは間違いなくブレイズが悪かった。
巨大蜂を追ったのには理由があるし、頭に血が上っているわけじゃないと自分では思っていたが、やはりどこか冷静ではなかったのだろう。
自分だけで森へ突っ込んでいったのも、ラディを一人にしたのも、どちらも良くなかった。
そこだけじゃない、と言いたげなラディの表情には気づかないふりをして、ブレイズは森の奥へ視線を向ける。
「でもまあ、無駄にはならなかったんだから大目に見てくれよ」
「え……」
蜂を引きつけている時、たまたま視界に入って驚いたのだ。
同じように視線を向けたラディが、「あ」と小さく声を上げる。
二人の視線の先では、麻紙のスケッチとそっくりな植物が何本も、天に向かってまっすぐに生えていた。




