23. 違和感
最後、でかい蜂が出たり虫の話してます。苦手な方はご注意ください。
およそひと月ぶりの『白の小屋』だが、特に変化は見られなかった。
ブレイズたちが『棺の部屋』と呼んでいる部屋の扉は相変わらず開きっぱなしだし、もう一つの部屋の扉は引きちぎられたように口を開けたままだ。
強いておかしい点を挙げるとすれば、小屋の周辺に生き物の気配がほとんど感じられないことくらいか。
「特に妙な気配は感じねえけどなあ……」
あの雷雨の夜に感じた異様な気配は、やはり今も感じられない。
森の獣が怯えるような要素は何もないはずなのに、白の小屋の中にも外にも、虫一匹見当たらなかった。
ウィットを拾う前は、棺の部屋の天井にコウモリがびっしりぶら下がっているのを見たことだってあったのだが……。
「魔力も相変わらず薄いな」
そう言ってラディが人差し指を立てると、爪の先に小さな火が灯った。……と思った瞬間、火はふっとかき消えてしまう。それだけ周囲に火の魔力が少ない、ということだろう。
「安全そうならここで昼飯にするかと思ったけど、やめたほうがいいか?」
「あまり気が進まないな。こうまで魔力が薄いと、魔術の威力が落ちてしまう。何かあった時に困るし、もう少し魔力の濃いところがいい」
ラディの魔術が使えないと色々と困るのはブレイズも同じだ。
白の小屋で昼食をとることは諦めて、より奥へ進んでみることにする。
剣が振れるように、なるべく開けている場所を選んで進んでいく。
途中、目についた木の幹にナイフで傷をつけていくことも忘れない。
このあたりになってくると、かつて賞金稼ぎたちが踏み固めた道も大分薄れてしまうからだ。自分がどの方向から来たか見失ってしまえば、そのまま遭難、という可能性も高くなる。
今回はラディがいるので、彼女に風の魔術で空に浮かんもらい、街や大山脈がどちらに見えるか確認するという手も使える。しかし先ほどの白の小屋のような魔力の薄い場所が他にないとも限らないので、あまり頼りきりにしたくはなかった。
「腹減ってきたな……」
「今日の弁当は鱒の燻製をパイ包みにしてみた」
「なんで今言った?」
メニューを聞いたら余計に腹が減ってきた。空を見れば、木々の緑の合間に日が高く昇っているのが見える。もう昼時だろう。
周囲を見回して、どこか休憩できそうな場所を探す。ちょうど、二人分の背を守れそうな幹の太い大木があったので、その根元で昼食をとることにした。
「そういえば」
「んあ?」
二つ目のパイをぱくついていると、ラディが思い出したように話しかけてきた。
ケヴィンから渡された、探している植物のスケッチが描かれた麻紙をひらひらさせている。
「例の植物、ダメ元でウィットに麻紙を見せてみたら、それらしいのを知っていた」
「マジか」
「といっても、全く同じものとは限らないが……タケ、と呼んでいたものに似ているらしい」
曰く、太く節くれだった茎というのは(個体差はあるが)人間の足首くらいの太さ。節は人間の手の縦幅程度の幅で、ほぼ等間隔に並ぶ。
色は、若ければ濃い緑色。古くなると色が薄くなり、水分が抜けて固くなる。
「花は見たことがないそうだ。というか、花が咲く植物だと思ってなかったらしい。滅多に見られないんじゃないか、と言っていた」
「なら、茎を探したほうがいいか? 若いのがよさそうだが、濃い緑ってのは探しにくいな……」
「背の高い植物らしいし、一本二本ではなく密集して生えるそうだから、見れば分かると思う。……まあウィットが知っているのと同じものとは限らないし、魔境でどんな育ち方をしているかも予測できないけれど」
「それなあ……」
魔境というのは、動物も植物も非常に屈強だ。
他の土地に生えているのと同じ植物であっても、他の木々に日の光を奪われたり虫の寄生先にされたりしてあまり大きく育たないこともあれば、逆に豊かな土壌の恩恵を受けてやたら大きく育つこともある。
大きく育っていれば見つけやすいだろうが、小さいものしかない場合、探し当てるのは難しそうだ。
少食ながら、なんとかパイをひとつ腹に収めたラディが、指先についたパイの欠片を落としながらこちらを見た。
「もう少し奥に進んだら、一度空から見てみようか」
「魔力は大丈夫そうか?」
「ああ、だんだん元の濃さに戻ってきている。……白の小屋から離れたからか?」
訝しげに言って、ラディは指先をくるりと回す。そこから水が少量落ちてきて、彼女の手に残るパイの細かな欠片を洗い流した。
◇
昼食の後、周辺を注意深く観察しながら奥へ向かう。
ここまで来ると、もう道と呼べるものはほとんど見えない。十年前の大襲撃以来、ここまで奥に立ち入る人間はめったにいないからだ。
木に目印の傷をつけ、薬や染め物に使える種類の草花も片手間に摘み取っていく。薬師や染色工に売れば、多少は金になるだろう。
ある程度進んだところで、ラディが足を止めた。
「このあたりの魔力の濃さならいけそうだ」
言って、ふわん、とその場に軽く浮き上がる。珍しく楽しげな相棒に目を細めて、ブレイズは「よし」と頷いた。
「ついでに街の方角も見といてくれ」
「分かった。なるべく早く戻る」
ふわふわと上に浮いていくラディから視線を外して、ブレイズは周辺に気を配る。
白の小屋から離れて、魔力と同じく生き物の気配も戻ってきた。魔境の奥のほうに来たということもあって、どんな生き物が出るか分からない。
(元々、竜種はここら辺に棲んでたんだっけか)
十年前、支部にいた大人たちはそう教えてくれた。竜種の皮は丈夫で伸縮性が高く、水を通さないので、使い勝手がよく高く売れるのだと聞いた。
狩場への道中に白の小屋が現れてから、いい目印ができたとも言っていた記憶がある。コウモリが群がっているので、拠点としては使えなかったそうだが。
(……ん?)
引っかかりを感じて、ブレイズは首を傾げる。
(位置関係がおかしくないか?)
剣を振る手は空けておきたいので、ブーツのつま先で地面に線を引く。
ファーネの街。白の小屋。現在地。追い立てられて、防壁に突っ込んできた魔猪と竜種。……竜種がどうしてファーネに?
竜種の棲家とファーネの間には、白の小屋がある。魔猪と同じく、あの小屋のあたりにいる『何か』に脅かされて逃げるのなら、魔境の奥――ファーネとは逆方向に向かうのが自然だ。
仮に脅かされて逃げたのだとしたら、それより前に、白の小屋の手前まで移動していたことになる。
白の小屋を新しい棲家にしようとした? ……十四年前からあるのに、今更?
賞金稼ぎたちが立ち入らなくなってからでも十年経っている。今である理由は見当たらない。
(……追い立てられた?)
そんな考えが浮かんだと同時、がさりと左側の灌木が揺れた。
思考を打ち切って剣を向けた先、がさ、と音を立てて、平べったい頭がゆっくりと現れる。
(竜種……?)
浅いところで仕留めた個体よりも、ずっと大きい体躯の竜種だ。全長はブレイズの身長よりも大きい。支部長やリカルドと同じくらいか。
本来この辺りに棲んでいるので、現れること自体は何も不思議ではないが……様子がおかしい。
これまでの竜種は元気にこちらへ飛びかかってきたのに対して、この竜種はよたよたと頼りない足取りで、無防備にこちらへ這い出てくる。まるで、ブレイズに気づいていないみたいだ。
灌木からゆっくりと見えてくる全身、その背から血が噴き出しているのに気づいた瞬間、再び灌木が大きく揺れる。
カチ、カチ、何かを打ち合わせるような音を、耳が捉えた。
何かいる。竜種を追って、こちらに近づいてきている!
ピィィーーーー!!
剣を持っていない左手で指笛を吹いたのは、目の前の竜種が崩れ落ちるのと同時だった。
高く響く音は上空のラディに届いたか、確かめる余裕もなく両手で剣を構える。
がさり、枝葉が押し退けられる音。
灌木の上へ飛び出してきた黄色い生き物を目にして、ブレイズはひゅっと息を呑んだ。
それは巨大な蜂だった。
小さな子供と同じくらいの大きさは、虫としては桁外れ。低い羽音に混じって、カチカチと顎を打ち鳴らす音もまた大きい。
楕円形に膨れた尻の先、黒い毒針がぬらりと光る。そこで力尽きている竜種は、これに刺されたのだろう。
カチ、カチ。竜種が動かなくなっても、威嚇音は鳴り止まない。
黄色い額に集まった単眼が、毒針と一緒にこちらを向いた。
かちり。奥歯がぶつかって音を立てる。
かちり、かちり。気づかず剣を握る手に力を込めた。
毒針が怖いわけじゃない。目をつけられて怯えているわけじゃない。
手足の欠けた大人。
肉の欠けたジルの死体。
十年前に見た光景が思い出される。
ジルの肉を食いちぎったのは、魔境から押し寄せた蝗の魔物の群れだった。
同じように誰かの肉を食いちぎった蝗が、別の誰かが放った火の魔術で焼き殺されて、頭だけが道端にぽとりと落ちているのを見かけたことがある。
丸い楕円形の、まぶたのない両目。
生きているのか死んでいるのか、どの方向を見ているのか。
意思の感じられないそれが、ブレイズには薄気味悪く――おぞましいものに見えたのだ。
かちり、かちり。
黄色い頭の両側に、意思の見えない両目がふたつ。
――複眼。
特にカマキリとトンボがダメです(隙自語)




