XX. 港街サルミナ(前)
船べりにかけられた縄梯子を下りて、桟橋に降り立つ。
まだ少し揺れているような錯覚に、ブレイズは小さく頭を振りつつ、陸地へ向かって足を踏み出した。その後を、ラディとウィットが同じように降りてくる。
王国東端の港街ドリスから東方大陸の玄関口である港街サルミナ――いや、東方大陸は都市国家の集まりなので、『サルミナ国』と呼ぶべきだろうか。とにかくサルミナまで、三日ほど船に揺られることになった。
馬車や竜車とはまた異なる揺れ方に感覚が追いつかず、結構つらい三日間だった。竜車は平気な顔で乗っていたウィットも、船には強くなかったようで、まだ少し顔色が悪い。
そうなると、竜車でぐったりしていたラディなんて、生ける屍のようになってもおかしくなかったのだが……。
「魔術士の姉ちゃん、ありがとよ!」
「帰りに乗った時もよろしく頼むわ!」
船の上から降ってきた声に、ラディは少し照れくさそうにしながら手を小さく振った。
船べりから身を乗り出している船員たちが、からりと笑顔を見せて、手を大きく振り返している。
今回ブレイズたちが乗った船は、帆船だった。
帆に風を受けて進むため、風の有無や風向きによって進める速度が異なる。
そのため、ドリスからサルミナまでの所要日数にもばらつきがあり、長いと十日近く海の上にいる羽目になるらしい。今回の三日というのは、ほぼ最短、最速なのだそうだ。
それだけ理想的な風が吹いたということなのだが、別に運が良かったわけではない。
人並み外れて魔力のあるラディが、船員に頼まれて、魔術で風と水流を作り出したのだ。
これまで船というものに縁のなかったブレイズたちは知らなかったが、こういうことはよくやられているらしい。
船に乗っている間は、水も食料もあらかじめ用意してあるものを消費するしかない。到着までの日数が短縮されれば、それらの消費量も抑えられ、短縮された日数を別のことに使える。船員を長めに休ませつつ船を点検や整備に回してもいいし、船をより多く往復させて輸送量を増やしてもいい。つまり、船員側にとっても都合がいいのだ。
大きな船では専任の魔術士や精霊使いを雇うこともあるそうだが、今回の船はおおよそ中型レベル。なので、乗客に適任が居合わせたら依頼する程度にしているそうだ。
そんなわけで。
自分で船を動かしていたに等しいラディは、意外にも船酔いすることなく三日を過ごしていたというわけだ。
ブレイズとウィットも苦しむ日数が最短で済んだので、そういう意味では運が良かったといえるのかもしれない。
「レイリアさん、本当に助かったよ。ありがとう」
桟橋から陸地に移ってもまだ揺れている感覚が消えないので一休みしていると、一人の壮年の男性が、ラディに声をかけてきた。
ブレイズたちをここまで運んできた船の船長だ。日数と経費を大幅に圧縮できたからだろう、分かりやすく上機嫌なのが見て取れる。
「これ、少ないけど礼金ね」
そう言って、船長は片手に持っていた小さな麻袋をラディに手渡した。
「帰りもうちの船だったら嬉しいんだが……まあ、別の船でも良ければ面倒を見てやってくれ」
「ええ、是非」
ラディが微笑んで会釈すると、船長の目尻が溶けたように下がった。若い娘が怖がらずに接してくれるのが嬉しいらしい。
この船長も先ほどの船員も、『荒くれ者』と言われたら否定に困ってしまうくらいのむくつけき男たちなのだが、そういうタイプは賞金稼ぎにも珍しくない。というか、そういう連中に絡まれたら叩き潰すのが仕事の一部であるギルド警備員をやっているので、ラディが今更怯むわけはなかった。
……変人でなければ大丈夫なのだ。本当に。
「いやあ、最近は乗客に恵まれてるなあ! おかげでいい稼ぎになる」
そんなことを言って、船長は船に指示を出しに戻っていった。
「……ちなみにラディ、いくらもらったの?」
船長の背中が見えなくなってから、ウィットがそっとラディに聞く。
「さあ、いくらだろう。最低二千ザルトは保証するとは言われてたけど……うわ」
船長から渡された麻袋を開けて、中を見たラディの顔がちょっと引きつった。
どうしたのかと思っていると、彼女が袋の口をこちらに向けたので、ブレイズとウィットも中を覗き込む。
「おっきい銀貨が……五枚? ってことは、えーっと……」
「五千ザルトだな。すげえな、倍以上か」
つまり、それだけラディがうまくやったということだろう。
大金を持ち歩くのは不安だろうが、いい臨時収入だ。よかったな、と肩を叩くと、ラディは困り顔でこちらを見上げてきた。
「路銀の足しにするつもりだったんだけれど……」
「お前が稼いだんだからお前の小遣いにしろよ。そんな額じゃねえってのは分かるけどな」
そんな話をしているうちに酔いがだいぶマシになってきたので、そろそろ街の中へ入ることにした。
王国を出て別の国に入ったわけだが、やることはさほど変わらない。まずは、こちらの商業ギルドに相当する『商工会』に顔を出して、宿を紹介してもらう必要がある。
どこにあるかは、港から街に入る際に通る検問で教えてもらえた。取引の関係か、港からそう遠くはないようだ。
「ミゲルさん、もう来てるのかな」
無事に検問を抜けてひと安心したところで、ウィットが言った。
「どうだろうな。俺らの乗ってた船はラディのおかげでめちゃくちゃ速かったらしいし、追い越してるかもしれねえぞ」
「さすがにそれはないと思うけど……」
「でも追い越してたら面白いよね。ちょっと笑っちゃうかも」
ドリスの宿で出会ったミゲルは、共に夕食をとった日の翌日、ブレイズたちよりも一日早い便に乗船していった。
彼の乗った船に大きなトラブルが起きていなければ、もう到着しているだろう。たった数日だとしても船旅は火族にはきついはずなので、ひょっとしたら、この街の宿で休んでいたりするかもしれない。
とはいえ、サルミナは東方大陸唯一の玄関口となっている大きな街だ。宿も一つではないので、ミゲルがまだ滞在していたとしても、会える可能性はあまり高くない。
話しながら歩いていると、道の両脇に店が多く並ぶようになってきた。どうやら市場に入ったらしい。
「検問で聞いた話だと、商工会の会館は市場を抜けてすぐ、だったか?」
「そうだね。まあ、見つからなかったら適当な店で何か買って聞けばいい――ああでも、ちょっと気をつけたほうがいいか」
「え、なんかあるの?」
ウィットが首を傾げる。ブレイズも何に気をつけるべきかの心当たりがまったくない。
そんな二人を見て苦笑しつつ、ラディはポーチをごそごそと探って、一枚の小さな麻紙を取り出した。
そこに書かれている文字を見て、ブレイズは「あ」と声を上げる。
彼女がぺらりと見せてきた紙に書かれているのは、随分前にセーヴァが教えてくれた、東方大陸固有の文字。
これらの字が看板にある店で何か食べるのはやめておけ、と彼が言っていたものだ。……王都周辺で、ではあるが。
「食べ物の屋台はやめておこう。魔物の肉を食べるのは、ちょっと心の準備が必要そうだ」
ちょっと長くなって前後編に分割しました。後編はちょっと短いかも。
それはそれとして、今年も一年お付き合いいただきありがとうございました。




