14. 幕間:知が宝などと誰が言った
◆マーク直後、お食事中の方はご注意ください。
ぜいぜいと息を切らしながら、無精髭の男は廃屋の立ち並ぶ元住宅地を走っていた。
速くはない。こんなに長い時間を走り続けたのは久しぶりだ。年齢も中年の域に差しかかり、これからどんどん動けなくなっていくのだろう。
追っ手の気配がないことに気を緩め、男は足を止めると、手近な廃屋の壁に寄りかかった。
数年前に肩を痛め、両手で剣を振れなくなった腕に、今は丸焦げになった仲間の体が抱えられている。
「……おい、まだ生きてるか?」
返事はない。
黒く焦げた唇に手をやって、呼吸をしていないことを確かめると、男は小さく息を吐いた。
「死んだか……」
どしゃり、その場に仲間だったものを放り出す。
死んだなら、もういい。わざわざ運ぶ必要はなくなった。
元々、情があって連れて逃げたわけではない。
あの場に残して捕まり、治療されて、今回の件について領兵に話されては困るから連れ出したのだ。
助け起こしたあの時に、死んでいたなら置いていった。もっと言うなら、あの茶髪の男に剣を折られていなければ、あそこで止めを刺していただろう。
(リアム・レ・ナイトレイ……領主貴族の一人息子に手を出したなんて知られたら、どこにも行けなくなってしまう)
自分の記憶が正しければ、現当主カーティス・レ・ナイトレイの、高齢になってやっと生まれた嫡男だ。ずいぶん猫可愛がりしているらしいと聞く。
そんな大事な一粒種を拐かし、彼自身がやったこととはいえ、顔に火傷を負わせてしまったのだ。ナイトレイ領から出て、他の領地に逃げたとしても探されるだろう。元がつくとはいえ賞金稼ぎが、賞金をかけられる側になってしまうだなんて笑えない。
しかし、自分を知る唯一の人間はこうして死んだ。
この街を出て、服を買い替え、名前も風貌も変えて他の領地へ逃げることができれば、追っ手が来たとしてもやり過ごせるだろう。
持ち出せた金品は多くないが、身ぎれいにする程度の金にはなるはずだ。
(となれば、まず街を出なければ……)
そこまで考えたとき、足元の死体がいきなり火を吹いた。
「ひぃっ?!」
口の中で、火がちろちろと舌のように揺れる。焼け落ちた瞼の奥が赤く光る。
火の勢いは見る間に強くなり、死体は赤い火に包まれ見えなくなってしまった。
「なん……っ、ななな、なに、が」
何が起きたか分からない。
混乱する男の頭上から、柔らかな声が落とされる。
「逃げないの?」
「――――ッ!!」
気がついた時には、既に地を蹴っていた。
ぐちゃぐちゃの思考をひっくり返して、この状況を切り抜ける方法を探し求める。
応戦? 武器もないのに?
人質? そんな都合のいい人間がどこにいる?
領兵に助けを……求めるより先に、あの声の主に捕まるだろう。
(……街を)
とにかく、街を出ようと思った。
街から遠ざかれば、追っ手の足も鈍るかもしれない。
ファーネの北側の防壁に、確か一部崩れかけている部分があったはずだ。
おそらく今も放置されたままだろう。そこを直す金があるなら、南側はもうちょっとましになっている。
なんとかそこまで思考を回し、男はまっすぐ北へ走った。
予想通り、崩れたまま放置されていた防壁へたどり着く。力の入らない腕でなんとか乗り上がり、転げ落ちるようにして外へ。
なけなしの魔力で水を生成し、カラカラに乾いた口の中をわずかに潤すと、力の入らない足を引きずるようにして歩き出した。
(どうして)
どうして、こんなことになったんだったか。
きっかけは、ただの出来心だった。
今日の分の食い扶持を調達するために近づいた市場の食料品の区画で、どう見てもお忍びの貴族にしか見えない、きらきらしい見た目の男を見かけた。
世の中にはきらびやかな見た目の平民もいるにはいるが、その男の所作は平民にしては洗練されていて、これは間違いないと思ったのだ。
それを仲間に話せば、彼はその男が宿に入るのを見たと言う。
どうせ他にやることもないからと宿を見張っていたら、翌朝、男が荷物を持たずにどこかへ出かけていくのが見えた。
盗みに入るなら今だ、と言った仲間に頷いたのは、いい加減、廃屋で燻る生活にも飽いていたからだ。
食堂が忙しくなり、宿が手薄になる昼時を狙って部屋に押し入り――金品だけ奪って逃げたなら、こんなことにはならなかっただろう。
テーブルの上に散らばった紙切れを見て、書きつけられた二列の数字に、自分が興味を持ってしまわなければ。
それがファーネの市場の物価と、関税を加味した価格を表していると気づかなければ。
商業ギルドの、密貿易の証拠だと、気づかなければ――。
商業ギルドにあの少年を突き出して、口止め料をせしめようなどという、下手な欲を出さずに済んだのだ!
お前の知識は宝だよ、と。
にやけた顔で、どこか羨ましそうに言った仲間の声が、耳の奥によみがえる。
「……何が、宝、だ」
いっそ俺が何も知らなければ、気づかなければ、お前は死ななくて済んだのかもしれないのに。
「うーん、この辺でいいかな。お疲れさま」
「え……」
後ろから聞こえてきた声に振り返る間もなく、男の体は炎に焼き尽くされた。
◆
「ぅえっ……」
人の肉と臓物と、その他のあれこれが焼ける臭いに、ルシアンは大きく嘔吐いた。
そういえば今日の昼食は肉だったな、と思い出してしまったらもうだめで、足元に胃の中のものをぶち撒ける。
胃液にまみれた肉と野菜の欠片を、足で土をかけて埋めた。
「あー、もう……」
うんざりした口調でぼやいて、手の中に生成した水で口の中をゆすぐ。
この分だと、しばらく肉は胃が受け付けないだろう。……今日の夕食に出ないといいけれど。
「おいおい、大丈夫かぁ?」
「……っ?!」
反射的にその場を飛び退き、声のした方へ身構える。
そこにいたのは、見覚えのある軽装の剣士だった。片手に何か、黒いものを引きずっている。
「……マーカスさん、でしたか」
「悪ィな、おどかしちまったか」
口調が違う、とルシアンが眉をひそめるのに構わず、マーカスはへらりと笑った。中身の読めない、作り笑いだ。
行動からしてケヴィンの護衛だとばかり思っていたが、どうやらそれだけの男ではないらしい。
「ついでにコレも始末してもらおうと思ってさ」
そう言って、彼は引きずっていたものをルシアンの前に投げ出した。
人の形をした、丸焦げの燃え滓――ラディが焦がし、ルシアンが燃やした、禿頭の男の死体だ。
「……持ってきてくださったんですか」
「まあ、街中で見つかっても領兵どもは何も分からねえだろうが……あいつらは気にするだろ?」
マーカスが、死体を炎の中に蹴り入れる。
視線で促され、ルシアンはもう一度、火の魔術を発動させた。炎の勢いが強くなる。
それを見て満足したように頷くと、マーカスはくるりと踵を返した。
「……じゃ、俺は先に戻ってるわ。全く見当違いの方向探してましたー、ってことにするからよろしく」
「ええ、承知しました」
ルシアンがそう答えて振り返ると、既に彼の姿は気配ごと消えていた。
小さく息を吐いて、ごうごうと燃える炎に向き直る。
「リカルドさんには、知られたくないなあ……」
ぽつりと口からこぼれ落ちた声は、我ながら、ひどく疲れているように聞こえた。
Q. つまり?
A. だいたいケヴィンがキラッキラした見た目してたのが悪い




