115. 番外編:雨の中の採取依頼(2)
五日後の早朝。
ブレイズは出入り口の横に立ち、警備を代わる領兵が来るのを待っていた。
利用者のいない応接スペースでは、ラディが持ち物をテーブルに広げて忘れ物がないか確認している。
雨が落ち着くのを待っていたら雨季が明けてしまうので、天候に構わず出ることにした。
出発まで五日もかかったのは、領兵に警備を代行してもらう日程の調整もあるが、何よりも雨除けの外套の修繕に手間取ったからだ。
しばらく使っていなかったせいか、引っ張り出したら虫喰い穴が空いていたのだ。
ちなみに修繕が必要だったのはブレイズの雨具だけで、「年一回の虫干しくらいやっとけ」とセーヴァから防虫剤を投げつけられたのは余談である。
ギルドを開ける時間になると、領兵がやってきた。
あらかじめ話していた通り、二人一組で警備に当たってくれるらしい。夕方からは、また別の二人組が来るそうだ。
「やあ、今日はよろしく頼むよ」
領兵に気づいた支部長が、カウンターを出て彼らに声をかける。
その場を支部長に任せて、ブレイズは相棒のところへ歩いていった。
「ラディ、もう行けるか?」
「うん。明るいうちに行って帰ってこよう」
彼女から手渡された雨除けの薄い外套を身に着けながら、ブレイズは「そうだな」と頷いた。
外套は動きを邪魔されるので、あまり長く着ていたいものではなかった。
ギルドの裏口から外に出たブレイズたちは、中央通りを歩いて南門へ向かった。
雨が降っている割に、空は明るい。白い雲が淡く光っているようだ。
この空模様なら、森に入っても視界に不自由はないだろう。
「……んん?」
南門が見えてきたところで、ブレイズは思わず足を止めた。
見間違えかと思って被っていた外套のフードをわずかに持ち上げてみるが、目に見える光景に変化はない。
「どうした? 何か……あっ」
隣を歩いていたラディも、一瞬遅れてそれに気づいたようだ。
南門の手前に、立ちふさがる人影があった。
上等そうな外套のフードの下から、なんか赤いものがちらちら見える。見覚えのある深緋色だ。
ついでに言えば、門番にしては不自然な位置に、もうひとり立っているのも見えた。
「オーデット、レイリア!」
ブレイズたちが足を止めたのに気づいてか、人影が勢いよくこちらへ駆け出してきた。
距離が近づくと、フードの下の顔もはっきり見えるようになる。予想通りの知った顔だ。
「きみらなあ……!」
知った顔の第三王子はぎりりと歯噛みして、苛立たしげな瞳を向けてきた。
「誘えよ!!!!」
「なんで……?」
ブレイズは小声で呟いた。
ちなみにこの「なんで」は『なんでお前を誘う必要があるんだ』という意味ではなく、その前段階にあたる『なんで俺らが今日森に入るって知ってるんだ』という意味での「なんで」である。
それはそれとして、この会うたびに声がでかくなってる気のする殿下を誘う意義は分からない。
思考が疑問で固まってしまったブレイズの背を、そっとラディの手が叩く。
「……とりあえず、南門まで行かないか?」
お前はお前でまた俺を盾にしたな、と。
相棒への文句を呑み込んで、ブレイズは黙ったまま足を踏み出した。
なんかもう、この数秒で何かを言う気力が一気に削がれたような気がする。
南門に近づくと、苦笑を浮かべたマーカスが手をひらひらさせながら声をかけてきた。
「いやーすんませんねえ、ウチの殿下が」
彼の後ろで、南門を守る門番の兵士がこちらに向けて謝罪のジェスチャーをしている。
……そういえば、事前に一言あったほうが当日スムーズに森へ入れるかと思って、三日ほど前に話しに行ったのだった。なるほど、そこから漏れたか。
「仕事はいいのかよ、王子殿下」
「案ずるな、全て片付けてきた。そろそろ一度王都に戻る予定なのでな、追加されることもあるまい。……というわけでだ、僕も行くぞ!」
「あ、もちろん俺もお供しますよー」
宣言して胸を張るケヴィンと、ついでのように言うマーカス。
きっちり雨用の装備も身に着けているようだし、この状態から追い返すのは無理だろう。だからマーカスも苦笑で済ませているのだろうし。
そもそもブレイズとラディには、この男をガチで拒否する権利がない。
「……別にいいけど、安全は保証できねえからな」
念押ししながら、ブレイズはしぶしぶ頷いた。
まあ、もし森の中で何かあれば、マーカスが引きずってでも連れて戻るだろう。
◇
ケヴィンとマーカスを加えて南門を通り抜けたブレイズたちは、しばらく道なりに進んだところで足を止めた。
左側にある木の幹へナイフで傷をつけて、そのまま道を外れる。向かうのは東の方角だ。
「採取依頼と聞いたが、場所は分かっているのか?」
「大雑把にはな。珍しいもんじゃねえし、歩いてたら見つかるだろ」
後ろをついてくるケヴィンに答えて、ブレイズは周囲を見回した。
いまのところ、特に気になるものはない。足場は悪いが、連日の雨ならこんなものだろう。
「今回の目的はテルペの松脂だ」
すぐ後ろから、ラディが彼らに説明する声が聞こえてくる。
「本来は、もっと涼しい地域に生える松の木なのだけど。魔境の森に生える植物は強いから……こう、生命力にものを言わせて、もう少し東に行ったあたりに無理やり生えている」
「無理やり」
「魔境やべえっすね」
やや引いたような反応をするケヴィンとマーカスの声を聞きながら、ブレイズも(そうなのか)と感心していた。
歩くだけならそのへんの森とさして変わらないが、植生は色々と『おかしい』らしい。あまり興味のない分野なので知らなかった。
「……あのダメ乳が狂喜しそうだな」
雨の音に混じって、ケヴィンがぽつりと言った。
……誰のことだかなんとなく分かったが、聞こえなかったふりをしておくことにする。
少なくともラディの前では、何と返しても後で怒られる未来しか見えない。
しばらく無言で歩いていると、またケヴィンが口を開いた。
「ということは、『白の小屋』のほうには行かないのか」
「ああ。下手に近づく理由もねえしな」
こちらに聞こえるような声量で問われたので、ブレイズも少し声を大きくして返す。
雨の中とは言え大声で話しているので、ラディとマーカスは会話に参加せず、それぞれ周囲を警戒していた。
ケヴィンはやや不満げに眉根を寄せて言う。
「そうか。雨季に入ってからあの小屋の監視は止めているから、ひと目でも様子を見られればと思ったが」
「こんな視界の悪い中でやることじゃねえだろ」
「しかし、きみたちが遭遇したのは『目に見えない』『透明な』何かなのだろう? 雨の中なら、何か見えるかもしれないじゃないか」
「そう言われりゃそうだが……」
あの大襲撃が終息したとみなされてから、南の防壁を預かる国軍は、定期的に『白の小屋』の様子を見に行っているらしい。といっても、遠目に観察するだけのようだが。
しかし、見に行った兵士の誰からも、あの『不可視の何か』を見たという報告はされていないそうだ。
こうなるとブレイズたちの証言が疑われても仕方がないのだが、国軍の見解は変わらず「魔境の森なら、そういう生き物がいてもおかしくない」だった。
実質的なトップであるレスター隊長が、そういう見方を崩していないのも一因だろう。
「まあとにかく、今回はなしだ。方向も合わねえし、あの辺の獣が落ち着いてるかどうかも分かんねえからな」
こうして森に入ると決めた際、一応ウィットにも聞いてみたのだが、やはり「しばらく近づかないほうがいい」と言っていた。
彼女いわく「穴が残っていて危ない」らしい。意味はさっぱり分からないが、その言葉を無視するほどの理由もない。
「ブレイズくん、前」
ふとマーカスの声が上がった。
反射的に前方を見ると、少し距離を開けたところに小さな影がある。
雨でぐっしょり濡れた薄茶の体毛と、頭部から生える一本角。
一角大ウサギだ。肉は食物に、毛皮は装飾品や膠に、角は薬にと人間から重宝される獣である。
ブレイズたちが足を止めると、ウサギの黒くつぶらな瞳がこちらを向いた。
瞬間、ウサギはぴゃっと跳ねて、森の奥の方へ駆け出してしまう。
それをなんとなく視線で追った先、遠くに生えている木の陰から、今度は鹿が姿を見せた。こちらもブレイズたちを見た途端、背を向けてどこかへ駆けていく。
獣が見えなくなるまで見送った後、ほっと息を吐いたのはラディだった。
「正常だな」
「ああ」
草食動物は概して臆病だ。よほど追い詰めなければ、ああして逃げていくのが普通である。
「リド・タチスの影響はほぼなくなったと見ていいか」
「さすがに早合点し過ぎじゃないっすか? もう何頭か見ときたいっすね」
ケヴィンの言葉にマーカスが反論する。
言わんとすることは分かるが、防壁の近く――つまり人里近くまで出てくる獣はそう多くないだろう。
その数少ない獣がまともな状態なら、もうそれでいいような気がする。
……まあ、その辺りを判断するのは彼らであって自分ではない。
「……肉食の獣で、厄介なのが出ねえといいんだが」
小声で呟きながら、ブレイズは歩みを再開させた。




