113. 番外編:医者の不養生(後)
「ちょっと、大人しく寝てなさいよ!」
昼食のトレイを手に医務室の扉を開けたカチェルは、目に入った光景に思わず声を上げた。
診察台に横たわったまま書類を読んでいたセーヴァが、鬱陶しそうな表情になる。
「声がでかい。表まで聞こえたらどうする」
「だったら叫ばせるようなことするんじゃないの」
実際、表のロビーまで聞こえてしまったかもしれないけれど、昼食時に来るような客はそういない。
もし来ていたなら、悪いけれど支部長とラディがうまく対処してくれることを祈るだけである。
ギルドとカチェルの外聞はともかく。
カチェルは食事の乗ったトレイを部屋の隅にあるデスクへ置くと、セーヴァの手にしている書類をまとめて引ったくった。
セーヴァは不満そうに顔をしかめる。
「いいだろ別に、確認くらい」
「熱でろくに回ってない頭でする確認なんて、無駄以外の何だってのよ。前にそれで痛い目見たの忘れたの?」
「ぐっ……」
六年ほど前、いまと同じく不調時にやらかしたミスを持ち出すと、彼は言葉に詰まった様子で口を閉じた。
「お昼はスープと、一応パンも持ってきたけど、どうする? 診察台で食べるなら、ミニテーブル持ってくるけど」
「いい、デスクで食う」
セーヴァは診察台から降りると、ややふらつきながらも自分の足でデスクのほうへ歩いていく。
その後を置いながら、カチェルは先ほど取り上げたまま手に持っていた書類になんとなく視線を落とした。
ざっと見たところ、医薬品の輸入に関するものだ。契約関連だろうか。
最近、西の隣国ハルシャと取引のあるヘニングという商家が、ファーネまで進出してきた。
その影響で、これまで入手が難しかった薬草などがこの街に流通しつつある。
作れる薬の種類もぐっと増え、医療関係者にとっては嬉しい悲鳴というやつだ。
(だからこそ、セーヴァも急いでるんでしょうけど……)
それで倒れてしまっては元も子もない。
医薬品の流通に関しては、セーヴァがいないと支障が出てしまうのだ。
知識の面でも、街の医者や薬師との信頼関係においても、自分では彼に敵わない。
……治癒魔術士だと露見したいま、彼らとの信頼関係については、むしろ後退したかもしれなかった。
生き物の法則を無視して傷を治してしまう治癒魔術士や精霊使いを、疎ましく思う医者や薬師は少なくない。
「何か気になる所でもあったか?」
「えっ?」
声をかけられて顔を上げると、デスクの椅子に腰かけたセーヴァが、スプーン片手にこちらを見ていた。
カチェルが書類に気を取られている間に、さっさと食べ始めていたらしい。
訝しげな視線を払うように、カチェルは書類を顔の前で振った。
「別に。……倒れられるくらいなら、昨日の休みは取るんじゃなかったと思っただけよ。忙しいのに受付までやらせるべきじゃなかったわ」
「あの程度で負担になるか」
そっけなく言うと、セーヴァはパンをちぎってスープに浸す。
「それより、これからも休みは遠慮しないで取れよ。お前の労働環境が悪いと周囲がうるさくなる。そっちのが面倒だ」
「これまでだって、別に悪くはなかったんだけど……」
「隙はなるべく減らしておきたい」
「分かってるわよ」
カチェルという在野の治癒魔術士を、なんとか手中に収めたいと考える有力者はまだ残っている。
なんとかしてファーネ支部からカチェルを取り上げたい彼らは、ファーネ支部が彼女に何らかの不利益をもたらしたなら、躊躇なくそこを突いてくるだろう。
実際に不利益でなくとも、カチェル本人が問題にしなくとも、解釈で事実を捻じ曲げるくらいはやりかねない。
あまりに悪質なら、後ろ盾となってくれている第三王子に対処を願うことになっているけれど……。
「いい加減、あきらめてくれないかしら」
うんざりしてカチェルはため息をついた。
こうなるのが分かっていたから、治癒魔術士だということを隠していたのだ。
勧誘の手紙はしつこく届くし、直に言いくるめようとギルドに押しかけてくる者もいる。
ファーネの住民の中にだって、「すぐ治るなら治してくれ」と要求してくる者が出てきた。
重傷ならカチェルだって考えるが、興味本位で軽い打ち身やかすり傷を癒せと言ってくるのが大半だから始末が悪い。中には痛みを我慢できないだけの、小さな子供もいるので尚更だ。
そういう輩が出る度に、責任者の支部長や医者のセーヴァが間に入り、最終的には警備員のブレイズとラディが叩き出している。
ほぼ休み無しで昼夜の警備を回している年下の二人に、余計な手間をかけさせているのが特に心苦しい。
「無理だろ」
パンの欠片でスープを拭いながら、セーヴァが言った。
「向こうはこっちの事情なんかどうだっていいし、こっちだって向こうの都合なんか知ったこっちゃない。お互い引き下がらないとなれば、あとは潰し合いに奪い合いだ」
「有力者って、もっとこう、物分かりのいい人たちだと思ってたわ」
「向こうも同じこと思ってるぞ、たぶん」
話しながら、彼はパンとスープをきれいに食べきった。
これだけ食べられるなら、あとはゆっくり休めば明日には回復しているだろう。
「ブレイズとラディについても、あんまり気に病むな。……あいつらは、周りの人間が理不尽にいなくなるのが嫌いなんだ。子供の頃に随分と寂しい思いをしたからな」
「……そうね」
十年前の大襲撃そのものについて、現場に居合わせなかったカチェルは伝聞でしか知らない。
それでも、出会ったばかりの頃のあの子たちが、ふとした瞬間に泣きそうな顔をするのは、何度か見たことがあった。
「だから、お前は気にせず守られておけ。あいつらにとっても、それが一番いい」
「……うん」
病人の面倒を見に来たつもりが、逆に面倒を見られてしまった。
それを少し悔しく思っていると、セーヴァがトレイに残ったデザートに手を付ける。
すり下ろした林檎に、ほんの少し蜂蜜を混ぜたもの。
そのデザートがついた経緯を思い出して、カチェルは口元に小さく笑みを浮かべた。
「その林檎、ブレイズが気を利かせて買ってきてくれたのよ」
「はあ?」
「ウィットに付き添って朝市に行ってもらった時にね。これなら病人でも食べられるだろうって」
「風邪引いてても一人前がっつり平らげる、あの体力バカが?」
「小さな子じゃないんだから、自分が特別頑丈だってことくらい分かってるでしょうよ。あなたがもう若くないのもね」
「うるせえ」
まだ少し熱に浮かされているのか、セーヴァの口がとても悪い。
こちらが素なのは知っている。年齢を重ねて落ち着いたが、出会ったばかりの頃は、まだこんな口調だった。
ブレイズの喋りがガサツなのは、おそらく彼の影響だ。
ラディまで影響されていなくて良かった。彼女の喋りも男性的だけれど、まだ『凛々しい』で済ますことができる程度だ。
「そういえば、ラディも言ってたわね。『セーヴァは私たちのこと、まだ簡単に騙せる子供だと思ってる』って」
「人を間抜けみてえに……」
「言われたくなかったら、もうちょっと気をつけなさいね」
セーヴァは小さく舌打ちすると、小さな器に入った林檎のすり下ろしをスプーンで一気に掻き込んだ。
デスクの隅に散らばっている薬の包みをひとつ開くと、水と一緒に口の中へ流し込む。
カチェルはそれを見届けると、空の食器をトレイにまとめて立ち上がった。
「じゃ、夕飯までちゃんと休んでなさいね。お水は後で補充しに来るわ」
「分かってる」
セーヴァがベッド代わりにしている診察台へ戻っていく。
その際、デスクに置いた書類に見向きもしなかったことに満足して、カチェルはそっと微笑んだ。




