10.彼女のために鐘は鳴る
おまたせしました。プロローグ部、最終話です。
ゆらゆらと、水が揺れる。
心地の良いその水の揺れに全身を包み込まれ、『娘』は未だ眠り続ける。
深く、深く、二度と目覚めないように。
(もう、どうでもいい。このまま、ずっと眠らせて)
いいこともあった、その倍以上悪いこともあった。
優しい人がいた、その優しさを忘れるほど酷い人もいた。
もう嫌だ、と思うほどに心が傷ついた。
『ごめんなさい。ごめんなさい、愛しい子。こうなるはずではなかったの。どうか、許して』
苦しげな、切なげな、女性の声。
聞いたことがないはずなのに、何故か懐かしいと感じてしまうその声は、哀惜を滲ませて「ごめんなさい」と謝り続ける。
『ごめんなさいね……謝っても許されることではないけれど。でもどうか、聞いて。貴女はここで諦めてはいけない。諦めれば、きっとここで消えてしまう。だけど、お願いよ……どうか、生きて』
ここがどこなのかわからない、だが声の主はしきりに「諦めないで」と呼びかけてくる。
自分のわがままでしかないけれど、それでも生きていて欲しいのだと乞うてくる。
どうしてそこまでして彼女を生かしたいのか、聞いてみたい気もしたがしかし彼女はすぐにそれを諦めた。
(もう……疲れたの。利用されるのも、騙されるのも、嗤われるのも。私にもっと、力があればなにか変わった?私に、魔法が使えれば……)
魔法至上主義であるあの国において、魔法が使えないのは致命的だった。
なのに彼女の持つ魔力の質はかなり高く、であるが故に貴族の血筋に組み込もうと利用された。
そのお粗末な企みは、彼女の命をかけて潰してやったけれど。
『こんなはずではなかったの。あの娘には浄化のスキルを、もうひとりの娘には魔法の素養を、そして貴女には祝福を授けるはずだった……いいえ、授けたはずだった。貴女の魂は確かにその祝福を受け取ってくれたはずなのだけど……でも、顕現しなかったの』
声の主は言う。
浄化スキルを持つエリーは『巫女』、高位の魔法素養を持つカレンは『魔法師』、そして女神の祝福を得たミサキは『高位神官』となるはずだった。
祝福を受けた者は『女神の愛し子』『女神の神子』とも呼ばれ、高位の神官となって女神の声を受け取り、時にはその身に宿して代弁することもできる尊き存在だ。【女神】はそれぞれの魂の適性を測った上で能力を与えたのだが、どういう訳かミサキの能力だけは開花させられなかったのだとか。
そして、そんな高い能力を授けられた者は須く魔法の素養がない……だからミサキは、魔力の質が高いわりには素養がゼロだった、ということなのだと。
『言い訳にしかならないけれど…………貴女の魂は元々、こちらの世界で生まれるべきものだったの。それが、どういう訳だか異世界に迷い込んでしまったようでね。身体と魂が上手く融合していなかったようなの。恐らくそれが原因ではないかしら』
(そんなの、私の所為じゃない。嗤われたのも、軽んじられたのも、裏切られたのも、みんな私の所為じゃない!)
『そうね……本当に、謝っても謝りきれないわ。これまで何度となく巫女を選んで見守ってきたけれど……いつしか巫女だけを祀り上げるように、歪んでしまったのね。あの子の魂が穢れていったのも、ああいう環境ならば仕方がないわ』
(仕方、ない?……あの子に責任はなかったって?本気でそう仰ってるんですか、女神様!!)
最初に、「役に立ちたい」と軽率な発言をしたのはエリー自身。そこに巫女としての自覚やら周囲からの後押しなどなかったはずだ。なのに、それすら「仕方ない」とでも言うのだろうか?
どうして自分達でなければならなかったのか、どうして巫女はカレンではいけなかったのか、どうしてミサキまで喚んでしまったのか、どうして今回は巫女一人ではなかったのか。
言いたいことや聞きたいことが次々と溢れ出してくるが、【女神】はそれを黙って聞いている。
言われるのが当然だとでも言いたげに。
『私はどれだけ責められてもいいの。でもどうか、生きて。貴女が生きたいと思えなければ、いずれ魂は身体を離れてしまうでしょう。……貴女にとっては辛い選択を強いているのはわかっているわ、でもね』
卑怯だと言われるかもしれないけれど、と女神は彼女の身体について静かに語った。
彼女がいるのは、母親のお腹の中。つまりは胎児の状態だけれど、魂だけが身体を離れかかっているのだということ。
既に臨月は過ぎ、大きくせり出したお腹を抱えながら母親はそれでも我が子の誕生を待ち続けてはいるが、体力的に限界が近づいているためこのままでは母子ともに危険であること。
ここが貴族や王族の邸ならまだ高位の治癒術師や医師がいるためどうとでもなるが、不幸なことにこの母親は夫であったはずの男にスラムへと捨てられたため、出産もまた命がけであるということ。
(……スラムに……捨てられた。自分の子供を身ごもってる女性を捨てる、なんて…………最低最悪のクズ野郎だわ)
沸き起こるのは、怒り。
どういう経緯があって夫婦となったかなんて知らない、政略的なものかもしれないし一時的な熱病のような恋だったかもしれない、だけどできた子供を抱えたこの世で最も尊い女性をスラムに捨てるなど、男の……いや、人間の……生物の最底辺の下衆クズ野郎だ、と彼女は憤慨した。
そうして、気づいた。
自分がこのまま燻っていたら、その下衆でクズな最低男の思う通りに自分も母も命を落としてしまうのだ、と。
(……これが女神様の策略でもなんでもいい。私は、この人を助けたい)
この瞬間も、子供の誕生を待ち望んでいるだろう唯一の家族を。
生まれてもきっと、スラムという劣悪な環境は二人を苛むだろうけれど。でも、決して自惚れるわけではないけれど、彼女には前世で得た知識がある。日本という異世界の国で得た様々な雑学が。ルシフェリアという国で得た魔法に関するあらゆる知識が。
そして、確証はないが恐らく……女神から授かっているだろう、様々なスキルが。
きっと助けになるはずだと、そう信じられる。
『……ありがとう。もう一度、生きる気力を取り戻してくれて。貴女に授けた祝福はまだそのままよ。今度はきっと使いこなせるはず。……あの頃とは大分変わってしまったから私の声を直接届けることは難しいけれど、その代わりに手助けになる者を遣わすわ』
だからどうか生きて、私の愛し子。
その声を最後に、女神の声は止んだ。
彼女の意識もフェードアウトし…………そして次に気がついた時には、眩い光。
この日、スラムの片隅で上がった産声に応えるように、遠くの方からゴーン、ゴーン、という荘厳な鐘の音が鳴り響いた。
「…………あれは……」
聞き覚えのない鐘の音。
しかしどこか懐かしさすら感じるその音に、予定日を大幅に過ぎてからようやく子を産んだ二十代半ばほどの美貌の女性は、どこで聞いたんだったかと首を傾げる。
ここ、アルファード帝国は元々いくつかの小国の集まりだっただけあって決まった宗教はなく、皆好き好きに己が信仰する宗派の建物に出向いたりしている。
そのため時折思い出したようにガランガランと鐘が鳴らされることもあるのだが、今響いてきた音は下で紐を引けば鳴らせるような小さな鐘とは違う……鐘突き堂に登って直接叩いて鳴らす、大聖堂などの大きな建物にしかない型のもののようだった。
「あら、珍しい。あれは『聖グロリアスの鐘』だわぁ」
「聖グロリアス……大聖堂に設えられた、伝説の鐘の音だということですか?」
「伝説かどうか、アタシは興味ないけどぉ?ちょっと前になくなった聖グロリアスじゃ、【女神の愛し子】が生まれた時にその鐘が鳴るんだって話よ。ま、本当かどうかわからないけどぉ。この前に鳴ったのは確か……今から二十四年前、だったかしらぁ?」
「…………」
今から二十四年前、かつて『聖グロリアス国』と呼ばれていた土地にある古びた城で、女の子が生まれた。蜂蜜色の髪に『祝福の紫』と呼ばれるラベンダー色の瞳を持ったその娘が生まれた瞬間、まるでそれを祝うかのように大聖堂の鐘がひとりでに鳴ったのだという。
世が世ならその娘は国の象徴として祀り上げられるはずだったのだが、その頃既にアルファード帝国のいち領土として吸収されてしまっていたため、いらぬ争いを避けるために娘は権力とは程遠い位置にある高位貴族の養女となり、そしてそこそこの身分である貴族の男へと嫁がされれた。
(私が生まれた時にも鳴ったという、鐘の音……それが今また鳴ったということは…………)
「……なぁに、具合でも悪いの?」
「いいえ……いいえ。わたくしは……私は、大丈夫です」
(いいえ、まだそうと決まったわけではないわ。だって、きっとこの大陸中で何十何百という子供が、同じ瞬間に生まれているはずだもの)
彼女は、まだ知らない。
時を同じくして、侯爵家の立派なベッドの上で、黒髪黒瞳の異国の歌姫が母親に瓜二つの娘を産み落としていたということを。あの時に鳴り響いた鐘の音を聞き、かの『聖グロリアスの鐘』だと思い至った使用人の一人が、うちのお嬢様こそ【女神の愛し子】だと大騒ぎしている、その事実を。
「それにしても、あんたも大変な境遇よねぇ……こんな最底辺の町に来ちゃったのは最悪だけどぉ、たまたまアタシの来る日だったのが幸いだったわ。ここじゃ、アタシみたいな奇特な異種族以外、他人の世話を焼こうなんて考える余裕のある人いないもの」
年齢不詳、正体不明な謎の美女は、流れの薬売りだと名乗った。
スラムの入り口に捨てられ、誰に助けを求めることすらできずに臨月のお腹を抱えて苦しんでいる女性の前に、ふらりと現れたこの女が手を差し伸べてくれなければ、今頃親子そろって命はなかったかもしれない。
この家も、女がスラムに立ち寄った時に一時的に寝泊まりするだけの仮屋なのだそうで、人が住んで管理してくれるなら荒れずに済むから、と招き入れてくれた。
さすがに疑ってかかった女性に対し、女はふと漏れてしまったとでもいうように『あんたを放り出したらあの鬼畜に殺されちゃうしぃ』と、意味のわからない言葉を呟くだけだった。
とにもかくにもスラムという最下層の町での住処を手に入れたその女性は、子が生まれたら恩を返したいと言い続けながら子の誕生を待ち続け……そして先程、ようやく我が子の元気な声を聞くに至ったというわけだ。
まだ目が開かないのか、むずがるように瞼をピクピクさせているその子の髪は、女性と同じ蜂蜜色。
生まれたばかりで顔立ちまではよくわからないが、目鼻立ちは整っているように思える。
手を伸ばし、さらりと柔らかなその髪を何度か梳いてやっていると、
「……あらぁ」
「祝福の……紫……」
それがただの『紫色』であれば問題はなかった、だけど暗い場所では青みがかって、明るい場所では赤みがかって見えるこの特殊な色合いは『祝福の紫』と呼ばれる。
これは、彼女の故郷で信仰されている光の女神の瞳の色であるからで、この色を持つ子は即ち女神に愛されているのだとして、幼い頃から神殿などで大事に保護されて育つことになっていた。
それも今となっては知る者もほとんどなく、その最後の一人であったこの女性はそれを知らぬ他国の貴族に嫁ぎ、そして…………同じ色を宿した娘を産んだ。
「力が全てと言われる国で力を持たずに侮られるか、力を畏怖される環境で強い力を持って敵を作るか……どうにも極端ねぇ、この子の運命は」
「……どういう、意味でしょうか?」
「教えてあげたいけど、口止めされてるのよぉ。答えは、この子から聞いてねぇ」
でもせめて、と薬売りの女は泣きもぐずりもしない赤子の頭を軽く撫で、
「辛い思いをした分、それ以上の幸運を掴めるように。せめて、祈らせてちょうだいな」
そう囁いて、預かっていたまじない付きのブレスレットを、赤子の手首にそっと掛けてやった。