その6
それから数か月後。
そろそろ昼食にしようかと思っていたその時、松下のおばちゃんの携帯が鳴った。
「はーい、ゴンちゃん。」
「ああおばちゃん、いま大丈夫?」
「大丈夫よ、どうしたの?」
「さっき相方がさ、何か水が出るやつ、股から?なんつーの?」
「水が…ああ、破水。破水したの?」
「そう、それ、破水。破水した。」
「奥さんは大丈夫なの?」
「大丈夫だけど、ちょっとお腹痛いって言ってる。」
予定日まであと1週間。思ったより早かったが、幸い「ズギューン!」のライヴは産休前の予定をすべて終了していた。
「おばちゃん、どうすりゃいい?」
「とりあえず奥さんだけ仕度させて、タクシーに乗せて病院に行かせなさい。病院には先に電話で状況を話しておくのよ。ゴンちゃんは荷物をまとめて、あとから行きなさい。」
「荷物、荷物って何だ?」
「泊まりの用意とかいろいろあるでしょ、奥さんに聞いて。」
「ああ、相方が持ってきた。ちゃんと準備してあるわ。」
「奥さんの方がずっと冷静じゃない。ゴンちゃんが慌ててどうするの、アンタが生むんじゃないのよ。」
「うーん、こんなに急だと心の準備が!」
「仕方ないわねえ。じゃあアタシも行ってあげるわよ、どうせヒマだし。」
「おお~マジで助かるよ、神様仏様、松下様!」
「いいから電話切って早く病院に連絡しなさい!」
松下のおばちゃんが教わった総合病院の産科棟に到着すると、ゴンちゃんが待っていた。
受付の看護師に「親戚のおばさん」とウソをついて、分娩室の近くにある家族控え室に待機する。なに、あながちウソではない。なんたって東京の母なのだから。
簡素なイスと荷物用のラックが置いてあるだけの殺風景な部屋。
ゴンちゃんは汚れた作業服で、モヒカンの頭にはタオルを巻いていた。
「仕事中だったの?」
「ああ、電話をもらって急いで帰ってきた。現場も近かったから良かったよ。」
二人は椅子に腰を下ろした。
「その後はどうなの?」
「相方が病院に着いてから電話くれた時は平気だったんだけど、頼まれた物をそろえて1時間くらいしてから俺が行った時はもうウンウン言っててさ。『尻を押さえろ』って看護師に言われて、何が何だか分からねえけど押さえたよ。」
「産む方は大変なのよ、今ごろは極限状態よ。」
「でも女ってすげえな。陣痛って何分間隔とかあるだろ?痛みが治まるたびに、やれ化粧落とすからメイク箱出せってメイク落としで顔拭いたり、やれ飲み物飲ませろってストローのついたキャップをペットボトルに付けさせたり、すげえテキパキしてんの。俺はバカみたいに言いなりでよ。」
「こういう時は言いなりでいいのよ。」
「で、痛みが来るとベッドの柵にしがみついて耐えてよ。ホント頭が下がるわ。」
「男だったら死んじゃう痛みだって言うからねえ。」
「ズキズキすんの?」
「鋭い痛みじゃないのよ、大きな石でお腹を押さえつけられてる感じが延々と続くの。」
「うわっ恐ろしいな。でも今まさにそれってことか。それで看護師が『そろそろ、いいですね』って言って、ついさっき分娩室に移動したんだ。」
「ゴンちゃんは立ち会い希望しなかったの?」
「ああ、どうも『男が入っちゃいけねえ場所』って思いがあってよ。最近は割とみんな立ち会うみたいだけど、俺は何か抵抗があって、相方も『来なくていい』みたいな感じだったから、最初からそういうことにしてた。」
「アタシも昔の人だから立ち会いは抵抗あるわね。でも確かに人それぞれだから。」
「おばちゃん、ホントありがとな。まさか産科まで来てもらうことになるとは思わなかったぜ。」
「いいのよ。ご両親たちは?」
「どっちの親も今、向かってる。何せ初孫だからな、大騒ぎだよ。でも到着は今夜遅くになっちまうだろうなあ。」
「それまでに生まれるかしら。」
「さあな、相方の友達は2日間、陣痛室にいたらしいけど。」
「えーっ!」
「さすがにそれは極端だと思うし、もう分娩室に入ってるからな。でもおばちゃんも無理しないで適当なところで帰ってな。」
「分かってるわよ、アタシまで倒れちゃったら迷惑かかるものね。夜になったら帰ります。」
控え室は静かだ。そぐそこの分娩室では、まさに命の誕生における大格闘が続いている。
「名前、もう考えたの?」
「ああ、相方と二人で考えたよ。」
「無事に生まれたら教えてね。ゴンちゃんのことだから、パンクな名前でも付けるのかしら。」
「正直、そんな名前も俺は漠然と考えてたんだけど、女房に言われたよ。『子供が大人になっても老人になっても、一生背負えるような名前じゃないと可哀想だ』って。その通りだよな。」
「奥さん、どこまでもしっかりしてるのねえ。」
「だから、いま流行りのキラキラな名前とかパンクな名前とか、そういうのはやめた。普通の名前が一番だ。」
「人それぞれの考え方があるけど、アタシも古い人間だから普通の名前が一番だと思うわ。」
「たぶん子育ても一緒なんだろうな。」
「どういうこと?」
「俺さ、前は産まれた子供に『早くパンク聴かせて歩けるようになったらライヴハウスに連れて行ってやろう』とか思ってたんだ。」
「そうなの。」
「でもさ、相方の実家に行った時に親父が俺の子供の頃の話をしてて…ごくごく真っ当に、でも一所懸命育ててくれたんだって思った。」
「そうよ、普通に育てるのって大変なことなのよ。」
「で、俺はそれに反抗して家を飛び出してパンクスになった。でもおばちゃんのおかげで親父と和解して、そんで今度は俺が親父になるんだ。」
松下のおばちゃんは、前とは明らかに変わったゴンちゃんの顔をまじまじと見つめていた。
「俺にとってはパンクが反抗の証だった。でも、俺にパンクを押しつけられた子供は、いつかパンクに反抗するんじゃねえかな。俺は子供に『自分で選ぶ』ようにさせたいな。」
「えらい!ゴンちゃん、その考え方は立派よ。」
「それでやっぱりパンクを選んでくれたら、それこそ最高じゃねえか。コッソリ親父のレコード聴いたりしてよ。そしたら俺は『勝手に大事なものをいじるな』って叱るよ。でも、心の中ではガッツポーズするんだ。」
「ふふ。ずいぶん先のことだけど、楽しそうね。」
「仙台の仲間なんか、娘がツアーについてくるんだぜ。押しつけじゃなくて、自分で勝手に来るんだ。そういうのが最高だよな。」
「そんな風になったら嬉しいわよねえ。」
「だから子供は普通に育てる。童謡聴かせてアニメ見せて、俺がしてもらったみたいに。それで自分で選択すればいいんだ。でも絶対パンクを選ぶと思うぜ、何せ親父がモヒカンのギター弾きなんだからよ。」
「『お父さんの髪型が変だ』ってそのうち言いだすわよ。」
「それまでに俺もハゲねえようにしねえとなあ。」
「髪の毛にも気を遣わないとね。」
「だからライヴには連れて行かない。第一、あんな煙草くせえ場所に子供なんか連れて行けるかっつーの!」
「あらあら、ゴンちゃん愛煙家から嫌煙家に完全転向ね。」
「セルアウト(メジャーに魂を売った、パンク的に格好悪いと表現する言葉)って言われちゃうな。別にハコで吸う吸わねえは自由だよ、俺も煙草の匂いがしねえと、ハコって感じがしねえしな。でも俺自身はもう二度と吸わねえぞ!」
「お子さんのためにも、それがいいわよ。」
「もう一生分吸ったんだ、もういい。」
「代わりに子供の髪の毛を嗅いでごらんなさい、いい匂いがするわよ。」
「そうなのか、楽しみだな。もうすぐだもんな。」
まさにジャストタイミング。
控え室に若い小柄な女性の看護師が入ってきた。
二人は思わず立ち上がった。
「おめでとうございます。15分前にお生まれになりましたよ。」
「マジかよ!」
ゴンちゃんはそう言ったきり絶句してしまった。
「お世話さまでございました、どうもありがとうございます。」
世慣れした松下のおばちゃんの言葉で、ゴンちゃんが我に返る。
「ああ…ありがとうございます。子供は無事ですか、女房は?」
「はい、お二人ともとても順調ですよ。いま清拭などをして会える準備をしてますので、もう少しお待ちくださいね。」
朗らかにそう言って看護師は出て行った。
「ゴンちゃん、おめでとう!」
「ありがとう。おばちゃん、ハグしていいか?」
そう言ってゴンちゃんは松下のおばちゃんを抱きしめた。
「あらあら、おばちゃんより赤ちゃんを抱っこしないと!」
「抑えきれない思いだよ。まさに初期衝動ってやつだな。」
冗談を言いながらもゴンちゃんの顔は火照っていた。
やがて先ほどの看護師が再びやってきた。
「奥様は産後の処置をしていまして、お会いになれるまでもう少し時間がかかります。お子様にはいま会えますので、こちらにどうぞ。」
ゴンちゃんは立ち上がったが、松下のおばちゃんは腰かけたまま。
「ゴンちゃん、行ってらっしゃいよ。」
「おばちゃん、一緒に行こうぜ。」
「ご両親が向かっているのに、アタシが先に顔を見るわけにはいかないわよ。一人で行ってらっしゃい。」
「そうはいかねえよ、ここまで付き合ってもらってよ。」
「じゃあ、アタシはもう少ししたら行くから。まずはお父さんが対面してきなさい。」
「ああ、分かった。気を遣ってくれてありがとな。」
そう言って、ゴンちゃんは看護師と出て行った。
再び控え室に静寂が訪れた。
松下のおばちゃんはカバンからお茶を取り出して飲んだ。喉がカラカラだ。自分でも知らないうちに、ずいぶん緊張していたんだな。
「『おばちゃん』って呼ばれてて良かったわ。ホントの親戚みたいだものね。」
実際、それ以上の関係を何年も築いてきた。ゴンちゃんとだけじゃあない、みんなとだ。
そのご褒美が、今日のこの瞬間なのかもしれない。
松下のおばちゃんは、カバンからカメラを取り出した。そしてゆっくり控え室を出ると、教わった面会室に向かった。
面会室の扉は開いていた。
ニコニコした看護師と並んで、新しい命を抱いたゴンちゃんがそこに立っていた。
「おめでとうございます、女の子ですよ。とても元気でかわいいお子さんです。」
松下のおばちゃんはゴンちゃんの前に立った。
ゴンちゃんの表情は、長年彼の写真を撮り続けてきた松下のおばちゃんでも今まで見たことのないものだった。
声をかけるよりも先に、松下のおばちゃんは二人を写真におさめた。
父親と娘。生まれて初めての写真。
これから数え切れないほど撮るであろう二人の写真の、記念すべき一枚目。
「おばちゃん、抱いてやってくれよ。」
「ちょっと恐いわ。何十年ぶりだもの、落としちゃいそう。」
「思ったよりもずっと軽いんだ。こんなに軽いなんて思わなかった。」
看護師の手も借りて、松下のおばちゃんはそっとゴンちゃんの娘を横抱きにした。
懐かしい感触。いや、男の子二人を生んだ松下のおばちゃんには、女の子がとても軽く、そして柔らかく感じた。
顔をマジマジとのぞき込んで、思わずプッと噴き出す。
「ゴンちゃん、これ見てよ。この目!」
「ああ、これは俺の子だよ、間違いねえ。誰がどう見たって全員が俺の子だって言うぜ。」
ぼんやりとこっちを見ているゴンちゃんの娘。その目は、それはそれは優しい目をしていた。松下のおばちゃんがゴンちゃんに初めて会ったとき「アンタ可愛い目してんのねえ」と言った、あの優しい目。
「鼻と口元は奥さん似かしらね。」
「そうだな、こうやって顔に出てくるもんなんだなあ。」
松下のおばちゃんは(新生児は目が見えてないのを承知で)ニッコリと笑いかけ、チュッチュッと口をすぼめた。
「初めまして、松下のおばちゃんよ。アンタのお父さんもお母さんも本当に素敵なのよ。アンタは世界一の幸せ者よ。」
そう言って松下のおばちゃんはそっとゴンちゃんに娘を返した。
「おばちゃん。俺、おかしくなっちまった。」
「どうしたの?」
「さっきからコイツの顔を見るたび、顔がニヤニヤして止まらねえんだ。変な病気だ。」
「それが普通なの。アンタはやっとお父さんになったのよ。」
「変だなあ。さっきまで…本当にさっきまで全然実感がなかったのに。ダメだ、もう可愛くて可愛くてしかたねえ。俺はもっとビシッと構えてるつもりだったんだよ。チクショウ、これが親バカってやつなのか?」
「そうよ。世の中で一番、幸せなバカよ。」
ゴンちゃんの目が優しい。いつもの優しい目が、今日は百倍、千倍以上の優しい輝きを放っていた。
優しい目をした二人。パンクスの父と生まれたばかりの娘。
アイヴィーちゃんたちにこの写真を見せたら、どんな反応を示すだろうか。きっとみんなではやし立てるに違いない。
ゴンちゃんは照れながら、優しい目で笑うだろう。
そんなことを考えながら、松下のおばちゃんは何枚も何枚も写真を撮った。
星の数ほどいる高円寺の息子と娘。
これから星の数ほど会えるであろう高円寺の孫。
その記念すべき一組目の写真を撮り続けた。