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灰色の雨が降る前に

作者: 北極星

 その日は熱帯夜だった。パソコンと睨み合いを続けていた彼は溜め息と共にふらふらと立ち上がってうつ伏せでベッドに倒れ込んだ。大学に入れば後は自分の好きな学問を極め、なりたい職業に就けると甘い理想を抱いていた。ずっと歴史学者になりたいと彼は史学科が有名な大学に入学した。だが、待ち構えていたのは現実という壁だった。夢見がちなところがある彼はどうにかして理想との境界線を作りたかったが、現実は大波となってそれを超えてきた。

 期待とのギャップに悩み、交友関係も上手くいかなかった。一人でもどうにか一年間やっていけたのは進級後のことを根拠もなく期待していたからだ。

 それが現実はどうだ。二年生になれば少しは自由になると思っていたが、新たな必修授業を受けなければならなくなり、理想は所詮、妄想でしかないと知ることになった。希望したゼミに入ったのが唯一の救いだが、論文の題材を自由に選べるのは三年からで、あまり興味の無い文献を読まされ、レポートを書く前学期を送った。

 そして、夏休みの間もゼミ合宿に向けて、変わらぬ妄想を抱き、日々を喰らいながら意味の無いレポートを書いていた。これがなかなかに終わらず、あと十数ページ残っている。内容自体は楽だが、分量が多い。ワードのページは記憶通りなら既に五十ページを超えている。

「はぁ……」

 起動したままのパソコンの画面を眺めてもますます憂鬱になるだけ。期限まであと三日。だが、ペース的には間に合うかどうかの瀬戸際だ。後は気合でどうにかしないといけないが、はたして教授にどんな指摘を受けるのだろうか。

 ベッドをごろごろ転がっても全く気分は晴れない。はしたないが、一人暮らしだから良いだろう。閉め切っていたカーテンを開くと先程まで降っていた雨が上がり、空はすっかり夜に落ちている。

 昼間から充電したままのスマホを起動させるとラインの通知が十件ほどたまっている。バイト先からシフトを早く出せという催促と、ゼミとサークルの飲み会について、あとは友人から遊びに誘う内容だった。とりあえず全員に断りの連絡を入れておく。

 一段落して、腹に手を当てるとぐぅ、と情けない音がする。足を上げ、勢いよく立ち上がり、冷蔵庫を開ける。このところ課題に終われていた為、作りおきなどなく、キャベツと二リットルのペットボトル水だけで、冷凍室に至ってはすっからかんだ。戸棚など、他の場所を探ってもお菓子だけで腹に貯まるような物は全くない。

「はぁ……」

 ここのところカップ麺ばかり食べていたことを思い出し、着替えようと踵を返す。題をやること以外、外に出ていなかった為、退屈に染まっていた体はなかなかに重い。無意識に手をやった顎に伸び放題になっているひげが鬱陶しい。洗面所の鏡で自分の顔を見ると寝癖でぼさぼさになった髪の毛も露わになる。最低限、外に出れるぐらいの顔に直すと財布の中を確認する。

 三千円と小銭が少しある程度だが、夏期休暇期間に入れるだけ入れたバイトのおかげでそれなりの余裕はある。おかげで、今出さなければならない課題に追われているが、これ以上考えるとますます憂鬱になりそうなのでやめておく。

 外に出るとさっそく住んでいるアパートの出入り口で雨上がりの洗礼を受けた。ぼーっと歩いていた彼を我に返らせるには十分だった。最近、親に送ってもらった白い靴が水溜まりに踏み入れたせいで濡れ、ズボンにも被害が及んだ。アスファルトの上だった為、汚れずにすんだが、そのことを幸いと思うほどの余裕があるはずもない。

 それだけで帰りたくなったが、空腹に抗えず、どうにか足を踏み出した。夜空には星が見えない。朝の天気予報ではたしか夕方から夜にかけて雨が降ったり止んだりすると言っていた。同時に手に傘が無いのを彼は思い出し、一気に萎えてしまう。

「あーあ……」

 目の前を通った自転車に乗った中年男にこちらを見られた。無意識に出た声だと主張するまでもなく、中年男は去って行く。絡まれなかっただけまだマシだ。スマホを起動させると時刻は八時を回っている。あと二、三時間経っていたら酔っ払いがいて、長々と絡まれていたかもしれない。

 少ない街灯が川のように道の行き先を教えてくれる。住居を決める際、少しでも安い家賃でと思ったおかげで人通りの少ない場所になってしまった。大通りが見えてくると暗い林の中から開けた海の砂浜に出たようで、目を瞑りたくなる。

 横断歩道を二つ渡ってから高架下を潜ると最寄り駅近くにある比較的大きなスーパーがある。昼から夕方のピークを過ぎた為、中にいるのはサラリーマンや女性ばかりだ。

 体がだるく、カップ麺を売っている所へ足が向きそうになる。だが、たまにはまともな食事を取らなければと彼は体に鞭打って肉や野菜、味の素などを適当に入れる。

 それから飲み物もそろそろ補充しなければと売り場を移動する。

「あれ? 雨降ってない?」

「マジか? 傘持ってねー」

 すれ違ったカップルの声に足を止める。窓にいくつもの滴が当たり、落ちていく。恨みがましくそれを見ながら飲み物が陳列している所へ向かい、二リットルペットボトルの水とコーラを二本ずつカゴに入れる。

 レジ近くにあるビニール傘に心が動いたが、スッカスカの財布と相談してやめた。お釣りをもらい、レジ袋に商品を突っ込む。さらに強くなる雨の音が嘲笑うかのように耳に入ってくる。出入り口の前で躊躇う人々と共に彼も雨を見ながら立っていた。

 携帯を耳に当てながら外へと駆け出して行く人が出てきた。駅前ということもあって車の出迎えが多い。親やカップルのパートナー、夫や妻が運転席から顔を出している。色々なものに追われているせいで心が荒んでいる彼は舌打ちで彼等を見守る。はたしてそれで誰かが来るかと言えば当然のように来ない。

「はぁ……」

 映画のような超能力者みたく思ったことが叶うようなことでも起きないかな。アホだと分かっていても思わずにはいられない。何かやらかして、時が戻らないかと誰もが思うように。

 何となく空を見上げてみる。どうせ灰色の雲が広がっているだけ。しかし、そうしなければやっていけないぐらいのもどかしさがあった。次々と待つことを諦めて駆け出して行く人達のような勇気が出ない。情けなく感じてしまう。知恵を使い切っていた為、紛らわせるにはドラマのようにゆっくりと顔を上げてみることぐらいしか思い付かなかった。

「えっ……」

 雲が無い。あるにあるが、夏の昼、遠くにある大きな雲を見るようだ。頭上、彼を含めた人々に雨を降らせていると思っていた雲は一つもない。決して綺麗とは言えない星空がこちらを見下ろしている。

 天気予報を全て信じるべきではないと分かっているが、思い返してみると間違ったことを言っていないことも確かだ。

単純に珍しいだけ。他の人も空模様に気付き、写真に収めようとしている。彼はそのようなことをすることに疑問的であった為、首を傾げながらスマホを起動させる。

 不可思議とまではいかないだろうが、めったに見ない現象が彼の知的好奇心を刺激した。まだまだ充電が残っているはずのスマホを取り出す。

「あ、れ……?」

 残量が赤色になっていて、残り六パーセントしかないと警告された。嘘だろと思いながらも点いてしまった好奇心の火は消せない。急いでグーグルから『夜 天気雨』と検索する。一番上に東京に住んでいるにもかかわらず、愛知の明日の天気が出てきたのは無視して、次に出てきた知恵袋の記事を見る。

 どうやら、単純ににわか雨と言うようだ。あとは驟雨とも言うらしい。

 あまり格好良くない。ついでに思ったよりも珍しい光景ではないそうだ。普段の天気雨と同じらしい。

スマホをポケットにしまい、もう一度空を見上げると相変わらずの星空だ。晴天と言って良いのか分からないが。

 それにしても、どうして人は夜の天気雨を珍しいと思うのだろう。天気雨も珍しいが、昼間なら「あ、天気雨だ」で終わる。やはり夜だからだろうか。人が起きて動くべきではない時間と空間が視覚さえも闇へと飲み込んでしまうのだろうか。

 自分で思っておきながらアホらしいと鼻で笑ってしまう。自問自答で、誰も聞いてないのに羞恥心が湧き上がり、また溜め息を吐いてしまう。

 冷静に考えてみれば雨の日に傘をささず上を向いているような人などいない。雨粒が目に入ってきて鬱陶しいだけ。下を向くか、時折目を瞑りながら歩く。

 しかし、逆に言えば、それこそが欠陥ではないかと思える。目を瞑っていれば分からないことも多い。間近で見れるものも遠くなり、霞んでしまう。

 気付けば雨の音がうるさくなってきた。もう無駄なことを考えるのはやめろと言わんばかりに雲という幕が少しずつ雨の中で輝く星空の舞台を閉じていく。舞台が終わればもう興醒めになってしまう。次々と中にいた客もこれ以上降らない内にと店から出て行く。

 彼も慌てて続いたが、案の定濡れた。戻ろうかと何度か振り返ったが、雨宿りだけはという罪悪感が生まれ、思うように動かない足を懸命に動かす。顔に当たる雨は傘を持ってない彼を嘲笑うように頬を伝う。結局、体力も保たなくなった為、途中の高架下に止まることにした。 

 大学に入ってから大した運動をしてなかった為、気付かない内に体力の消耗が早くなっている。両手を膝について肩で呼吸を整えていると徐々に雨の音が弱くなっているように感じた。

「嘘だろ……」

 顔を上げると確かに雨が弱まってきている。夜空も再び顔を出し、見てもつまらない星空が彼に追い討ちをかけるように視界に飛び込んでくる。壁にもたれて、ずるずると滑り落ちていきたくなる。受け入れがたい現実から目を背けようと、高架下の出る方向に視線を向ける。

 すると、黒猫が道の片隅で丸くなっていた。普通、人がいればすぐに逃げてしまうのに、のんびりとしている。迷い猫か、自由な飼い猫なのか分からないが、呑気に欠伸をしているのを見ると人に慣れているのだろう。

 欠伸をした口に蹴りを入れてやりたくなったが、距離的にも現実的にも無理なので、舌打ちで我慢する。こんな状況でなければこちらの気の済むまで、向こうが逃げるまで撫で回したい。黒猫を見ると不吉と言われるが、彼にとって正しく今がそれだ。

「はぁーあ……」

 今日一番の溜め息が高架下に響き渡る。黒猫は少し体をよじらせるとまた丸くなった。高架下を歩くと一歩一歩の足音が響き、自分が歩いていると実感させられる。このまま走ってしまおうかと思ったが、後数分もすれば止むだろうと立ち止まることにした。

 黒猫は耳を一瞬動かし、相変わらず眠っている。今まで影になって気付かなかったが、ビニール傘が捨ててあった。よく見るとまだ新品で、どうしてここにあるのか分からない。恐る恐る開いてみると穴も開いていない。

 僅かな時間で彼の体中を濡らした雨水が乾くはずもない。彼の心には邪な思いが生まれても仕方ないことだ。見ている人間は誰もいない。肉眼で捉えられる家のカーテンも閉め切られている。一つ、大袈裟に頷くと彼は素早く傘を閉じる。

「あっ……」

 雨の降っている外へと踏み出すのに何という愚かなことをしてしまったのだ。彼は顔をしかめ、天を仰いだ。時間は既に九時になろうかとしている。まだ夏休みとはいえ、はやぅ課題を終わらせる為にもなるべく早く帰って飯を食べたい。

 それでも、彼は足を踏み出すことが出来なかった。目の前に広がる濡れたアスファルトに躊躇ったのではない。ただただ広がり始めた夜空を純粋な気持ちで眺めていたかったのだ。

 星が綺麗。実際に東京の、それなりの都市の空だからそれほどでもないが、普通にそう思えてしまう。テレビで見るような流星群などあるはずもない。どこか昔の歪んだ信仰のような星が落ちてきて、世界に不吉なことが起こるといったことも現実である訳がない。

 いつになく馬鹿馬鹿しいことを考えるのは課題に追われたせいだろうか。疲れたように肩を落とす。だが、顔だけは上を向き続けている。

 星降ったら自分はその身を大きく広げ、受け止めるのだろうか。阿呆な考えかもしれないが、面白いとも思えてしまう。

声に出して笑ってしまった。決して自虐心の強い訳でもないのにどうしてそんな馬鹿げたことを妄想するのだろう。

 そもそも都会の夜に本当の星などありはしない。空を流れる雲さえ偽物だ。はたして降ってくる雨もどうなのか分からない。全て田舎では綺麗に見える代物が灰色に汚れた物体へと変わっていく。自然のままでいられない都会の人おかげだ。もっとも田舎と言っても、東京より幾分かマシぐらいの差であったが。受験に失敗して地元に残ることになった同級生達は彼のことを羨ましいと言っていた。本当に分かっていない連中だった。そもそも、分かるはずもないから仕方ない。今度、会う機会があれば散々なまでに来てから色んなところを見てから言えと笑い飛ばしてやりたい。

「あーお」という猫の声で彼はようやく我に返る。振り向くと猫はこちらを値踏みするように見てから鼻を鳴らして人が入れない狭い路地に消えていった。イラっとしたが、追いかけたところで相手にされない。

 彼はまた空を見る。このまま雨が降り続け、都会に偽物の光を指すことに嫌気をさして星も降る。なんてことおきないかなと馬鹿馬鹿しい妄執に囚われそうだった。頭を振ると足を一歩踏み出す。

「あっ……」

 下を見なかったせいで足元にあった水溜まりを思いっ切り踏んでしまった。靴下の中までしっかり濡れ、じんわりと広がっていく。最悪だが、帰りで良かったと思えるぐらいの余裕は出来た。今度こそ傘を勢い良く開いて外へと出る。

 顔を上げると星が無い。透けていない傘では空など見えるはずもなかった。気付かなかった自分が悪いのだが、少し萎えてしまった。気を取り直して傘を少しずらすと星は見えなくなっていた。

 だいぶ小雨になってきた為、傘を差していれば雨粒が入ってくることはないと家路を急ぎ、街灯のまばらになった住宅街へと入る。しばらくは下を向き、先程のような過ちを犯さないよう水溜まりをよけて行く。背後から油の切れた自転車のキュッキュッという音がしてよける。乗っていたサラリーマンは傘を差していなかった。確かに雨はもう気にならないぐらいになっている。

 顔を上げると少し星の数が増えたようだ。こんな所では街灯が少し減ったぐらいで、変わるはずがない。気のせいだと分かっているが、こんなことで少し心が癒されている。自分がいる。

実に滑稽だ。昔で言うひょうげだ。ついでに自分自身が馬鹿だ。気難しい彼でも、今なら指を差され、笑われても良いと思ってしまう。おかしくなって彼は声を上げて笑ってしまった。苦しくなるぐらい笑ったのは大晦日の特番ぐらいだろうか。

 夜の住宅街は誰もいないのが幸いだった。雨が弱まると共に少しずつ理性が戻ってきて、誰か周りにいるのではないかと辺りを見回す。

「でも、楽しいかも……」

 アホなことをやっていると分かっていても、孤独な今だからこそ楽しむことが出来た。スーパーの雨宿りから高架下の雨宿りまで、好きな時代の好きな事変の資料を漁っている時のように久々に心が躍った。

 誰かと共感出来ないかと思っていたが、無理だと分かった。こんな自分を誰かに笑ってもらいたい。別にヤケになったのではない。今ならそれぐらいの度量があるだけだ。

 携帯の振動を感じ、ポケットから出す。サークルの幹部からどうにかして予定を空けてくれないかという懇願だった。

残念なことに課題に追われている彼にそのような余裕などない。推敲の時点まで行っていれば考えもしたが、書き上げてもいないのだから我慢するしかない。詫びの連絡を入れ、すぐに既読が付かないのを確認するとスマホをしまう。

 同時に気付いた。今までこういう時は罪悪感を少なからず抱いた。しかし、今回はそんな感情など一切湧いてこなかった。どうしたことだろうと思っていると今度は親からラインが来た。夏休みの間に帰省出来なかったことを心配している。何かあったら遠慮なく言うようにと。

 大丈夫と返すと『本当にか?』とすぐに返ってきた。しつこいと思いながら、もう一度、大丈夫と返す。正直、生活リズムのことを考えるとかなり問題だが、親はいちいち子供のことを気にかけるから面倒だ。以前、帰省した際、金が今無いと言った途端に机に五万円を簡単に置かれた時は有り難かったが、困った。頼むから本当に困った時だけにしてくれと努めて穏やかに言った。少し揉めたが、以来、仕送り以外の金は送り込まれていない。

 どうせそういうことなのだ。彼は自分に向かって鼻で笑ってやった。水溜まりを避けきれず、つま先が少し水面に触れ、映っていた三日月が歪む。

 彼はあまり人付き合いが得意ではない。だから、馬鹿話ばかりでやかましいサークルの飲み会よりも比較的話が分かりやすいゼミの方を優先する。また、親が自分の為に金を使い過ぎていると思い、悩んでいる。だから、勉強だけでなく、バイトも入れるだけ入って、負担を軽くしようと思っていた。

 結局、サークルに行かないことで、自分の地位を自分の中で築き、親に不安を抱かせないよう、嘘を付いていただけだ。しかし、そのせいで徐々に様々な人から離れている。冷静になれば単純なことだ。他人など、話し合わなければ互いを理解することなど出来ない。ゼミの連中と一番上手く行っているのはその活動時間にしろ、授業にしろ一番会っているからだろう。だが、本当に上手く行っているのだろうかと疑念も抱いてしまう。自分の知らないところで陰口を言われているのでは、と。

 離れていく人々が引き止めようとしている声に気付かず、彼は道を進んでいた。知ってしまった今日を責めてしまいそうだ。原因となった驟雨に向けて満たされない日々の全てを罵りたくなり、空を見上げる。しかし、関係ないだろと雨はすっかり上がってしまっていた。

 純粋な心が単純なことに気付かせてしまったのだ。彼自身のせいだが、受け入れがたい事実に表情を歪ませるしかない。

心の中が寒い。冬の知らない岬に取り残されてしまったようだ。先程まで流れていた汗が引き、なぜか鳥肌が立ってくる。誰もいないはずの道で、誰かに追い付こうと手を伸ばしたくなる。それも詮無きことだと出掛かった手を引っ込め、彼は歩を進める。アパートに着くまでずっと視線は湿ったアスファルトに向けられていた。

 行きにはまった水溜まりをよけて階段を上る。漏れて聞こえる生活の音が徐々に彼を日常へと呼び戻し、課題のことや連絡のことなどを思い出させ、今後への期待をも蘇らせた。頭を振り、階段を駆け上がる。最も思い出したくないことだった。

 虚しさから心が痛くなる。部屋に戻ると胸を強く押さえ、「あぁ!」と意味もなく叫び、壁に八つ当たりの蹴りを入れる。この期待も独りぼっちにさせた原因の一端だった。もう妄想に浸るのは止めたいと思っていたはずだったにもかかわらず、しつこくやってくる。おそらく、それが業なのだろう。孤独になってこそ成り立つ自分の業を否定したくなるが、もう逃れられないのだろう。

 人に頼ろうと後退すれば背後の崖に落とされる。現実に目を瞑れば、理想さえも霞んでしまいそうだ。どうすれば良いのかはもう帰り道で気付いていたはずだ。前を向き、友情という星の雨に傘を差し、周りが濡れているのを無視して行かなければならない。群れに取り込まれそうになれば、拒めば良い。シミュレーションとして彼は玄関へと向かい、先程使っていた傘を玄関扉に向かって思い切り開いた。水飛沫が玄関一帯に散った。これぐらいやってしまった方が清々しいのかもしれない。

 心が晴れた彼はスマホを取り出すとゼミの飲み会には行けないとゼミ長に知らせ、冷蔵庫に買ってきた物を詰め込む。幾分か作業がはかどりそうな気がした。このまま食事を取ったらレポート作りにまだ取り組めそうだ。

「あっ」

 ビニール袋を片付けようと立ち上がるとカーテンが開けっ放しになっているのに気付いた。慌てて閉めようと手をかけ、一瞬、彼自身もどうしてなのか分からない躊躇いの後、顔を上げた。

目に入ってきた空は再び雲に包まれ、星達は見えなくなっていた。


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